第105話 舵輪
ガルムは大盾の下端を床へ当て、膝を曲げた。
白い指が正面から突き当たり、別の数本が左右へ分かれて盾の裏を探る。さっきまでなら半歩退いて流せた。今はすぐ後ろにノンノと調査員がいて、その両脇へ護衛が立っている。押し込まれれば、自分の盾で後ろの者を潰すことになる。
「右を頼む。そっちまで回せん」
「受けます」
リュシアは切っ先を低く保ち、盾の右へ立った。大きく振りかぶらず、床を這った骨の関節へ刃を当てて跳ねさせる。反対側ではラウルが斬り払い、二人の剣の間から、折れた指が盾の下へ落ちていった。
セルマは杖を上げかけ、止めた。
「焼く場所がないわ」
「まだ出すな。落ちた骨は、俺が寄せる」
エルディアスは床へ風を通した。砕けた指を盾の下へ集め、その先へ押し出す。戻ろうとする筋が互いに絡んだところで、セルマへ場所を示した。
小さな火が落ち、すぐに消える。その後を水で追うと、赤くなりかけた板から白い湯気が上がった。煙を後ろへ回さないよう風を送ったが、窓の手前で渦を巻き、天井へ溜まっていく。岸壁が見えていても、そこへ逃がすことはできなかった。
「火を減らす。切る方を先に頼む」
「そうすると、また戻るぞ」
ガルムの盾へ、別の指が当たった。
「分かってる。だが、この狭さで煙を吸い続けるよりはいい」
エルディアスは骨を寄せた場所へ水を掛けた。筋が濡れた板へ貼りつき、引き合っていた欠片が一度止まる。ほどければまた来るだろうが、その間を次の術式へ使えた。
――左腕を外へ。肘まで伸ばさせてくれ。
――正面は、ガルムさんに任せます。
リュシアが盾の前へ半歩出た。船長の顔はエルディアスへ向いているが、手は彼女を追っている。リュシアは跳ばず、つま先をずらして半身になり、指を剣の背で受けて身体の横へ通した。
伸びた肘へ、エルディアスが土の術式を掛けた。両側に低い石の出っ張りを作り、その間へ入った骨を、上からもう一つ噛ませる。腕は斬られずに止まり、引き戻そうとした肩が窓の側へ引かれた。
ガルムが盾を押し出す。その表が、骨の胸へ届いた。
「ラウル、輪を押さえろ!」
ラウルが舵輪へ走った。船長の右手が戻る前に握りへ手を掛けたが、輪は動かない。反対側を骨の指が掴み、引き合いになっていた。
「こっちの手を離せるか!」
リュシアが右腕の外へ回った。手首へ剣を当てようとした、その時、捕らわれていた左の肘が、内側から折れた。
船長は自分の腕を捨てた。
石の間に肘から先を残し、肩を戻す。襟の下から新しい筋と骨が伸び、ラウルの顔へ向かった。エルディアスの風が間へ入って直撃は逸れたが、ラウルは輪から手を離さなければならなかった。
船長が舵輪を引く。壁がもう一度近づき、後ろで護衛の踵が、消えかけた床の縁へ掛かった。
◇
「後ろです。足を、前へ!」
ノンノが男の外套を掴んだ。護衛は踏み直し、裂けた肩を押さえる。調査員はその上腕へ布を当てていたが、結ぶ前に壁が動き、端を引いたままになっていた。
「そのまま、押さえていてください」
「そっちは壁を見ていろ。結ぶのは自分でやる」
男は布の端を歯で咥え、動く方の手で引いた。ノンノは足が戻ったのを確かめて外套を離し、荷袋を中央へ寄せる。後ろへ下がれる場所は、もうなかった。
壁の動きが止まると、船長がこちらへ顔を向けた。輪へ残した手は、そのままだった。
「お疲れでしょう。どうぞ、楽しかった時をお考えください」
骨の顎が動く。息をする必要もない相手は、誰の呼吸が荒くなったかを聞いているようだった。
「長い旅の終わりに、帰りたい場所を」
「終わってない」
ラウルが答えた。
「俺たちは、まだ帰る途中だ」
「ですから、お選びいただければ」
「その選び方を、あんたに決められる気はないと言っている」
ラウルは剣を構え直した。船長は返事をせず、輪に置いた指を一本ずつ動かしている。エルディアスは、その手と軸を見た。
壁が動く前には、必ず輪が回っていた。床を傾けた時も同じで、腕を振っている間まで部屋全体が動き続けるわけではない。輪を握らせずにいられれば、少なくとも今以上に足場を失わずに済む。
「輪を回させなければ、壁も止まる」
「だが、あいつが放さない。斬るとすぐ作り直す」
ラウルは手を伸ばした時の位置を見た。
「こっちが回せれば、戻せるかもしれない。さっきは片手では引き合いになった」
「俺なら回せる」
ガルムが言った。盾を構えたまま舵輪を見ている。
「ただ、そこへ行く間だけ、前を任せたい」
「私が受けます」
「俺も入る。ガルムが輪を取るまでなら、もたせられる」
ラウルがリュシアへ並んだ。エルディアスは二人の間から床を見た。濡れた骨はまだ黒い筋で繋がり、少しずつ絡みをほどいている。これを残したまま盾を外せば、足元へ入られる。
「先に床を空ける。それまでは踏む場所を変えるな」
盾の下へ風を送り、欠片を右へ寄せた。その動きに合わせて船長の左手が輪を離れ、ガルムの頭へ向かう。エルディアスは風を切り、すぐに薄い闇を置いた。
指がその内側へ入る前に、ラウルが横から叩いた。闇を消すと、リュシアの剣はもう手首の下へ入り、骨を上へ押し流している。
――右の床を焼く。そっちへ下がるな。
――左で受けます。
「セルマ、右だけだ。壁の手前へ集めてある」
「今なら誰もいないわね」
火が落ちた。エルディアスは焼けたところへ水を重ね、同時に頭上へ風を通した。煙を後ろへ流さず、天井の低くなった場所へ寄せる。その下にできた短い道へ、ガルムが盾を引いて入った。
ラウルとリュシアが代わりに前へ出る。二本の剣が別々の腕を受けている間に、ガルムは焼いた骨を跨ぎ、斧を腰へ戻した。
右手が舵輪の握りへ掛かった。
船長が顔を向けたところへ、ラウルの雷が肩を打つ。指が開いた隙に、ガルムは左の前腕を別の握りへ押し当て、盾を吊った腕ごと体重を掛けた。
輪が、動いた。
左右の壁が止まり、もう一度ガルムが押すと、外へ退き始めた。護衛がすぐに調査員を支え、広がった床へ移す。ノンノも袋を引き寄せ、足元に転がったものを踏まずに済む場所を選んだ。
ガルムの肩へ骨が落ちてくる。リュシアは剣を当てたまま足を入れ替え、腕を自分の方へ引いた。肩から指が離れ、その分だけ輪が戻る。
エルディアスは、ようやく前へ大きく踏み出した。
◇
消えた机は戻らなかった。壁の中へ消えた骨も布も、広がった床へ現れはしなかったが、人が立つ場所はできた。エルディアスはガルムを援護できる位置まで進み、船長と輪の間へ杖を向けた。
――一度、腕を離せるか。
――戻れば、ガルムさんへ来ます。
――その前に止める。
リュシアが剣を引く。骨の腕が戻り始めたところへ、エルディアスは下から水を当てた。大きく弾くほどではなくても、輪の縁を外れるだけ浮かせればよかった。
その手首へ、リュシアの剣が上から入った。腕が落ち、セルマの火が筋を焼く。
「このまま持っていていいか!」
「その位置で止めろ。戻してる間に、床まで動くかもしれない」
エルディアスが答えると、ガルムは輪を押さえた。だが、力は緩まなかった。残った手が触れていなくても、握りが少しずつ引かれている。
上着の裾が裂けたことで、その理由が見えた。
船長の背から、黒い束が伸びていた。軸の根元を囲む金具へ入り込み、束が引くたび、輪も同じ向きへ動いている。腕を離せば済むものではなかった。
――背中から繋がっています。斬れますが、その先は金具の下です。
リュシアから届いた念話へ、エルディアスは頷いた。
「繋がりがある。輪を止めて、そっちを切る」
「先に止めてくれ。このままでは、俺が離せん」
ガルムの肩は上がり、右腕にも力が入っていた。エルディアスは軸と金具の間へ土の楔を差し込んだが、固めた端から割れ、ガルムの身体が前へ揺れた。
「まだだ。手を離すな」
「分かってる!」
もう一つを入れる。今度は厚くするより、軸を挟む二つの隙間へ薄く広げた。片方が割れても、残った方へ重ねる。互いに押し合う形になったところで、ようやく輪が止まった。
「少しずつ離せ。動いたら戻せよ」
ガルムは右手を緩め、次に左の前腕を引いた。土の端が欠けたが、軸は止まっている。肩を落として息を吐き、盾を構え直すまで、エルディアスは楔から目を離さなかった。
「戻ったぞ。今度は押せる」
「左へ押せ。背中を見たい」
盾が骨の胸へ当たった。舵輪から離れた身体の後ろで、束が張る。セルマはすぐに火を当てたが、焼けた表が切れると、その内側から新しい筋が現れた。
「焼けてる。でも、下から増えるわ」
「見えてる。少し止めろ」
エルディアスは金具を見た。身体を作り直す力も、この束を増やす力も、そこから送られている。先に奥へ届かせなければ、同じものを切り続けるだけになる。
「金具を剥がす。今のまま押さえてくれ」
「早めに頼む。ずっとは押せん」
ガルムが盾の角度を変えた。ラウルが片腕を外へ流し、リュシアは反対から骨が戻るのを止めている。三人を待たせたまま、何度も試せる状況ではなかった。
◇
エルディアスは金具と床の間へ水を細く流し、奥へ通る場所を探した。見た目には同じように接していても、一か所だけ水が入る。そこへ土の術式を重ね、薄い楔を少しずつ押し込んだ。
金属が鳴った。船長の顔がこちらを向いたが、エルディアスは金具から目を離さなかった。
――来る。
――右手は、私が。
リュシアが前へ入り、新しくできた指を横へ流した。ラウルは左腕を押さえたまま脚を払い、ガルムが盾へ体重を掛ける。三人の動いた音を聞きながら、エルディアスは楔を進めた。
大きく持ち上げれば、床ごと割れる。軸を止めている方も外せない。力を送る場所を二つに分け、金具の下へだけ、薄く土を伸ばしていく。
左手薬指からは、まだオドが来ていた。
だが、それを送っているリュシア自身も、剣を振り続けている。息は乱れていなくても、肩の動きは初めの頃と同じではない。
――肩は。
――動きます。そちらを続けてください。
エルディアスは短く光を流した。付与が届いたところで切り、すぐ金具へ戻る。自分のオドだけで同じ切り替えを続けていたら、ここまで保たなかった。それでも、力があることと、全部を見続けられることは別だった。
楔の端が深く入る。金具の縁に、斧の刃が通る隙間ができた。
「ガルム、輪の下だ。浮いた金具へ入れられるか」
「盾を少し引くぞ」
リュシアとラウルが位置を変え、ガルムは一度だけ盾を退いた。片手斧が金具へ当たる。切れなかったが、縁に傷が入った。彼は深く打ち込まず斧を戻し、そのまま盾で骨の身体を押さえ直した。
エルディアスは傷の下へ楔を進めた。
「もう一度だ」
同じ場所へ斧が入り、今度は縁が裂けた。浮いた金具の下から、丸い石にも固まった煤にも見えるものが現れる。背へ続く筋は、そこから出ていた。
エルディアスが短い火を当てると、表の黒いものが焦げた。
その直後、白い肋骨が下りてきた。
船長が背を反らし、軸の根元へ身体を被せている。火は骨を舐めるだけになり、奥へ届かなくなった。そこを守る動きだけは、今までよりはっきりしていた。
「そこを、隠すのか」
「お疲れなら、お休みください」
船長の言葉に、ガルムは盾を押した。
「休むのは、終わってからだ」
だが、身体は動かなかった。骨の脚で立っているのではなく、肋骨と背骨を束へ巻きつけ、軸そのものを囲っている。左右へ伸びた腕だけが、近づく者を追っていた。
リュシアもラウルも、剣を離せなかった。切りかかれば、空いた側へ指が来る。エルディアスはいったん火を消し、金具の浮いたところと、身体の重なりを見比べた。
傍へ来たセルマの杖先が、小さく揺れていた。
「少し待って。手が震えて、細く出せなくなってきた」
「休め。次の火は俺が出す」
「広げない方がいいのは、分かってるわね」
「分かってる」
セルマは反対の手を杖へ添え、後ろへ下がった。軽口を続ける余裕はなく、額へ浮いた汗を袖で拭っている。
エルディアスは前へ目を戻した。骨の身体は軸を覆ったまま、伸ばした両腕で二人の剣を押し返している。剥がした金具の奥は、ほんの僅かにしか見えなかった。
そこへ届かせるために、もう一度身体を起こさなければならなかった。




