第104話 拒絶
板から抜けた指は、今度は床すれすれを走った。
船長の右腕はまだ舵輪の傍にある。それなのに、白い指先だけがラウルの足元まで届こうとしていた。関節と関節の間が異様に開き、その隙間を繋いだ黒い筋が、骨を離さず引き伸ばしている。
リュシアは前へ踏み込まず、剣の腹を斜めに当てた。指を止めようとせず外へ流すと、その先で床が細く削れる。ガルムは削られた場所へ大盾の下端を落とし、伸びた骨を上から押さえた。
「下がれ。足元を狙ってる」
ラウルが退いたのを確かめ、ガルムは片手斧を振り下ろした。刃が関節へ食い込み、折れた一本が盾の下で跳ねる。だが、彼はそれを追わなかった。盾を前へ押し出しながら半歩退くと、横から回った別の指が、今まで脇腹のあった場所を通った。
リュシアの剣がその根元を斬る。落ちた骨が床へ乾いた音を立てたところで、背後から護衛の叫びがした。
「戸がもたない!」
開けていた戸が、男の肩を押している。外から誰かが押しているのではない。戸そのものに閉まろうとする力が掛かり、足を突っ張った靴が少しずつ滑っていた。
エルディアスは杖を返し、土の術式で戸の下へ低い楔を作った。厚みを増したところで固めると、戸の下端が噛み込み、男の肩から圧が抜ける。
「足を抜け。挟まれるぞ」
護衛はすぐに身体を離した。戸は楔のところで止まっていたが、開いた隙間を見た男は、もう一度戸枠へ手を掛けた。そこにあるはずの階段が、見えなかった。
暗い板壁が、すぐ向こうを塞いでいる。男は顔を近づける前に手を伸ばし、掌でその面を確かめた。
「……壁だ。外へ出られん」
「叩いて壊せるか」
ラウルが尋ねると、男は剣の柄を当てた。だが、板を打つ音さえしなかった。こちら側の戸枠だけが小さく震え、柄を握る手へ、鈍い抵抗が戻ってくる。
「駄目だ。見た目は板だが、手応えが違う」
「離れろ。二人でノンノと調査員を守ってくれ」
ラウルは船長へ顔を戻した。手袋を失った骨の指が、もう舵輪へ掛かっている。こちらの足元を狙った腕も、黒い筋を縮めながら元の長さへ戻りつつあった。
「出入口を塞いだのは、あんたか」
「まだ、お決めになっていません」
歯の並んだ顎が動いた。顔だけが骨へ変わっても、話し方は案内をしていた時と同じだった。
「お帰りになる場所を、お選びください」
「帰る場所は、あんたに決めてもらうものじゃない。選べと言われても断る」
返事の代わりに、船長の左手が舵輪を回した。
ガルムの足元が沈んだ。床が傾き、荷袋が後ろから滑ってくる。調査員が壁へ手をつき、護衛がその身体を支えたが、窓の向こうの灯りは動いていなかった。河の水面も岸壁も同じ高さにあるまま、操舵室の中だけが斜めになっている。
「こっちへ寄れ!」
ガルムが盾を立てた。正面から伸びた骨が、その表を叩く。一度ではなかった。指が別々の高さから突き出され、縁を越えようとするたび金具が鳴った。ガルムは盾の角度を変え、受けた力を下へ逃がそうとしたが、傾いた床では踵が止まらない。
エルディアスはその靴の外側へ、もう一つ楔を置いた。踏ん張る足が止まったのを見てから、リュシアへ意識を向ける。
――肘を落とす。戻る場所を空けてくれ。
――右へ戻れ。
リュシアは盾の横を抜けた。指がガルムを押している間に、その腕の内側へ入り、上着の袖ごと肘を斬る。白い腕が落ちるより早く、エルディアスの風が横から当たった。
腕は舵輪の下へ戻らず、窓際まで弾かれた。リュシアは切っ先を引き、伝えられた右へ退いている。彼女を追った左手の指は、すでに身体のないところを通り過ぎた。
船長は失った腕を見なかった。舵輪を握る左手の下で黒いものが動くと、窓際の骨が床を擦り始めた。袖から細い筋が伸び、落ちた腕を引いている。
「戻るぞ」
ガルムが斧を構えたが、エルディアスはその前に杖を向けた。
「待て。引いてるものがある」
黒い筋へ短い火を走らせる。焼けたところで腕は床へ落ち、指も動かなくなった。だが、空になった袖口の奥では、別の白いものが伸び始めていた。焼き切った腕は窓際に残ったまま、新しい骨が形を作っている。
◇
「切れたところを火で止めれば、戻る方は防げそうね」
セルマは窓際の腕と、作られ始めた腕を見比べた。両方を止められたと思っている顔ではなかったが、少なくとも落ちた方は動いていない。
「今は止まってる。次も筋を狙ってくれ。床へ火を残すなよ」
「こんなところで広げないわ」
セルマが杖を上げる。ガルムは盾を構え直し、リュシアはその脇から少し離れた。ラウルは二人の間を見通せる場所へ移り、舵輪に残った左手を見た。
「俺が左手を止める。その間に、輪から離せるか」
「手を斬る」
ガルムが短く答えた。ラウルは頷き、次にリュシアを見る。
「横から回れるか」
「はい。ただ、床がまた動きます」
「合図する。それまでは無理に近づくな」
船長の顔が左へ動いた。ノンノと調査員のいる方だった。輪へ掛けた指が絡み、肩が上がるのを見て、エルディアスは先に杖を振った。
――後ろへ来る。内側から流せ。
リュシアが床を蹴った。エルディアスはその足へ風を添え、彼女が盾の前を横切る分だけ速める。骨が伸びきる前に剣が下から入り、狙われていた護衛が構える頃には、指先はもう頭の上を通っていた。
「今だ!」
ラウルの雷が船長の左肩を打った。上着の襟が跳ね、舵輪へ掛かっていた指が開く。その手首へ、ガルムの片手斧が横から入った。
骨が砕け、手が輪へ残る。セルマの火は、腕と手の間に現れた筋を狙った。赤く縮れたところへリュシアが入り、船長の肋骨の間へ剣を突き込む。
胸を通った刃は、そのまま背へ抜けた。
止まらなかった。生きたものを刺した時のように身体が崩れることも、腕の力が弱まることもない。リュシアはすぐに剣を引き、身を低くした。頭の上を通った左腕の先では、砕いたばかりの手がもう作り直されている。
――戻る。
――足元を空ける。
エルディアスは残った火を止め、水を薄く流した。燃え残った筋を床へ貼りつかせ、その上を風で払う。彼女が足を置く場所だけが乾くと、リュシアは迷わずそこへ退いた。
ガルムも盾で身体を押し返し、斧を引いて離れた。その間に新しい手が揃い、輪に残っていた古い手は、木の縁へ沈み込むように消えていった。
「焼いたわよ。今度は、確かに切ったところを焼いた」
「見てた。切った手とは別に、輪の方から作ってる」
エルディアスが示すと、ラウルも舵輪を見た。骨の消えた木には焦げ跡さえなく、握りの一本へ、もう新しい手が掛かっている。
「なら、先に輪を壊す」
「船の舵よ」
セルマが言った。エルディアスは一度だけ窓の外を見た。岸壁は変わらずそこにあり、床を傾けられた分だけ、こちらの立ち方が不自然になっていた。
「あれを回して動いてるのは、この部屋の方だ。少なくとも、普通の舵じゃない」
「壊してこいつが止まるなら、俺は壊す」
ガルムは持ち手を握り直した。エルディアスはすぐに行かせず、リュシアを見た。
――借りるぞ。
返事を待たず、左手薬指からオドを引き入れる。何度も楔を作り、風を送り、火を切り替えた身体へ、彼女の力が流れ込んだ。目の前には船長だけでなく、前を受ける三人と、その後ろで動けずにいる者たちがいる。大きな術式を一つ放って済む場所ではなかった。
「ガルムは、まだ受けてくれ。ラウルはさっきと同じ肩だ。セルマは筋だけ焼け」
「あなたも、私の火を全部消さないでよ」
「戻る足場だけ空ける」
エルディアスはリュシアの剣へ火を付与した。刃の縁へ赤い光が走る。彼女は確かめるために目を落とさず、船長の右腕を見ていた。
――俺の左から回れ。輪の奥に何があるか見る。
――分かりました。
船長の顎が開いた。
「争われる必要は、ありません」
言い終える前に、床がもう一段傾いた。ガルムの踵が楔へ当たり、盾の表を押していた指が、今度は縁を掴んで滑り込んできた。
◇
ガルムはすぐに盾を捻った。骨を引っ掛けたまま下へ落とし、片手斧を上から入れる。指が砕けたところまではよかったが、その欠片が金具へ挟まり、盾の裏で黒い筋を伸ばした。
「ガルム、手を離すな!」
ラウルが駆け寄り、剣先を盾の裏へ差し込んだ。絡みかけた骨を外へ押す間、ガルムは持ち手から腕を抜かず、盾を前へ突き出す。その上端をリュシアの剣が通り、筋を焼き切ってから、ようやく欠片が落ちた。
「切った骨を残すな。そこからも来る」
エルディアスの声に、ガルムが頷いた。
「離すと後ろへ通る。切る時は、盾の外へ頼む」
「分かりました」
リュシアは刃を引いた。その短いやり取りの間にも、船長の手は形を戻している。肘から先へ骨が増え、指が揃い、手首が動く。だが、すぐには伸びてこなかった。作られたばかりの手が輪へ触れた、その直後に腕全体がこちらへ走った。
――輪へ触れてから来る。今度は触らせない。
――腕を外へ流します。
エルディアスはリュシアの踏み出す足へ風を添え、すぐに切った。続けて船長の顔の前へ闇を置くと、伸びた指は彼女のいた方へ向かった。剣はすでに反対側から手首へ入り、赤い刃が腕を持ち上げている。
「ガルム!」
ラウルが呼ぶ。ガルムは斧を入れたが、舵輪へ届く前に、船長の左手が柄を掴んだ。引き合えば止められる。ガルムは斧を戻さず、盾とともに身体を押し込み、掴んだ腕ごと船長を前へ押した。
盾の上へ頭が出た。ラウルの雷がそこへ落ち、帽子が跳ねる。頭骨の横が砕け、外れた顎が襟へ引っ掛かった。
それでも、斧を掴む手は緩まなかった。
「離れろ、ガルム!」
エルディアスは柄を掴んだ骨へ、横から風を当てた。手首の向きが変わり、開いた指から斧が抜ける。ガルムが引くのと同時に、リュシアは腕を流した勢いのまま、舵輪の横へ抜けた。
――届きます。
――一度だけだ。深追いするな。
剣が輪の縁へ入った。握りの一本が折れ、木片を散らしながら床へ転がる。頭を砕かれた時には踏ん張っていた船長の身体が、そこで初めて大きく揺れた。
エルディアスは、それを見て足を出した。
だが、船長の左手はもう輪へ戻っていた。
リュシアの靴の下で、床が落ちた。
◇
彼女が跳んだのではなかった。足を置こうとした板が下へずれ、その後ろが壁のように立ち上がる。エルディアスは膝をつき、杖先を床へ押し当てた。ガルムの盾が鳴り、ラウルが壁へ肩を当て、後ろでは荷袋の中身が一度に崩れた。
――右手、机の脚。
リュシアが剣を持たない手を伸ばし、机の縁を掴んだ。だが、机も止まっていなかった。固定されていた脚が一本抜け、彼女を引いたまま斜面を滑り始める。
エルディアスは風を上へ送った。持ち上げるには足りなくても、落ちる速さを緩めれば足を置ける瞬間ができる。机の重みが外れたところで、次を伝えた。
――手を離せ。左へ跳べ。
彼女が机を離し、靴を板へ当てる。エルディアスはその瞬間に風の向きを横へ変えた。リュシアの身体が立ち上がった板を越え、着地した膝が低く沈む。
船長の指は、その上を通った。
彼女は身を起こさず剣を当て、骨を窓へ流した。だが、ガラスは割れなかった。触れた指が黒い水面へ沈むように消え、見えている岸壁には何の変化も起きない。
エルディアスはすぐに目を戻した。あそこも、外へ出られる場所ではない。
「前へ来るな。今、足場を作る!」
立ち上がった板の根元へ土の術式を入れ、隣の板との間に支えを差す。床全体を元へ押し返すのではなく、途中で受け止め、人が足を置く高さへ揃えた。
「そこの出っ張りを踏め。一人ずつだ」
護衛が調査員の腕を支え、もう一人が先に安定した場所へ移る。ノンノも続こうとしたが、倒れた机の下で動く灰色のものに気づいて足を止めた。
猫が取り残されていた。毛を逆立て、滑る板を掻きながら、上がる場所を探している。
ノンノは魔導書を開き、肩のニペクへ目を向けた。精霊は机の下へ回り、灰色の背へ鱗粉を落とす。猫の耳がこちらを向いたところで、ノンノは机の上を見た。
「そこへ上がって。そこからなら、こっちへ来られます」
猫が天板へ乗り、脚を縮めて跳んだ。調査員が広げた外套へ爪が掛かり、そのまま内側へ潜り込む。ノンノはすぐに使役を解き、ニペクを戻してから、自分も護衛の傍へ移った。
直後に、机の天板が弾けた。
その下から伸びた骨が、さっきまで猫のいた場所を突いていた。護衛が剣を振って斬り払ったが、続いてきた一本が肩を掠める。男が息を詰め、裂けた上腕の布へ血が滲んだ。
「動けるか!」
「動ける。浅い」
「無理に振るな。盾で受けろ」
ラウルの言葉に、男は短く答えた。身体を横へ向け、もう一度調査員の前へ立つ。その足元でも、板の隙間から細い骨が増え始めていた。
エルディアスは前と後ろを見比べた。船長の頭は作り直されている。だが、床から出ているものは、その身体から伸びた腕ではなかった。
「折れた木からも、出てます!」
ノンノが指した。窓際へ転がった握りが、板を掻いて動いている。そこから出た筋が床の隙間へ入り、別の場所で骨を持ち上げていた。
「セルマ、その木を止めろ!」
セルマの火が握りを包んだ。黒い筋が縮れ、木片が動かなくなる。だが、すでに床へ広がった骨は残ったままで、ガルムが盾を低くして押さえなければ、後ろへ通っていた。
「こっちは、いつまで出る!」
「分からん。今、調べる」
エルディアスは割れた板の間へ水を通した。黒い筋のある場所を濡らし、その後を追ってセルマが火を走らせる。骨の間で細いものが燃えるたび、エルディアスは水を重ね、板へ移りかけた火を消した。
白い湯気が上がる。動きの鈍った骨を、ガルムが盾で一か所へ寄せた。
「そのまま、右へ押してくれ」
示された場所へ骨が集まると、セルマが根元へ火を入れた。残っていた黒いものが焼き切れ、今度こそ指が倒れる。護衛の一人が長く息を吐いたが、剣はまだ下げなかった。
ノンノはその向こうで、エルディアスとリュシアを見ていた。
彼が杖を左へ向けると、彼女は右へ下がる。次に杖が上がった時には、もう落ちた骨を避けて前へ進んでいる。叫ぶ時はほかの者へ知らせる時だけで、二人の間では合図らしい言葉が聞こえない。
「……いつ、決めてるんですか」
傍の調査員にだけ届く声だった。調査員も顔を向けたが、答えはなかった。リュシアの退く場所は、退き始める前から空けられていた。
◇
「盾の腕を休ませろ。俺が前に入る」
ラウルがガルムの横へ立った。
「まだ受けられる」
「握り直してただろ。今のうちだ」
ガルムは一度ラウルを見てから、盾を少し引いた。持ち手を握った指がすぐには開かない。エルディアスは光を送り、肩から腕へ薄く付与した。受け続けた衝撃が消えるわけではないが、強張りが緩むと、ようやく指が動いた。
「助かる」
「ずっと受けるな。次は、そっちへ戻さない」
エルディアスは舵輪を見た。頭も腕も戻っているのに、焼いた握りは床で止まり、輪の欠けたところもそのままだ。壊す場所を選べば、少なくとも残るものはある。
「輪は戻ってない。もう一度届かせる。斧を入れたら、追わずに離れろ」
「一撃ずつだな」
「ああ。床が動く前に戻る」
ラウルが頷き、ガルムが盾を持ち上げた。リュシアは二人の横へ立ち、作り直された右手を見ている。
――右手を外へ流す。火は、斧へ回してくれ。
――斬り落とさず、輪から離しておけ。
剣の赤い光が消え、ガルムの片手斧へ移った。リュシアは骨の下へ刃を当て、手首を上へ逃がす。同時に、ラウルの雷が反対の肩を打った。
ガルムは盾の陰から斧を入れた。二本目の握りが折れる。追わずに引き、盾を身体へ寄せたところで、床が傾いた。
エルディアスの風が背を押した。ガルムの足はもう元の場所を離れ、リュシアも横へ抜けている。白い指が突き刺さった場所には、誰も残っていなかった。
セルマが落ちた握りを焼いた。
「これなら、続けられるわね」
「同じ形を、何度も使わせてくれればな」
エルディアスが答えた時、船長は彼を見ていた。両手が輪へ戻り、今度は逆向きへ回る。
床は傾かなかった。
壁際にいた護衛が、肩を押された。振り向くと、固定されていた棚ごと壁が近づいている。男はノンノの前へ腕を出し、調査員とともに中央へ寄せた。
壁は倒れた机へ触れても止まらなかった。天板が潰れるのではなく、端から壁の中へ沈んでいく。骨の欠片も、荷からこぼれた布も、触れたものから消えていた。
「真ん中へ寄れ! 壁に触るな!」
ガルムが盾を向けかけ、エルディアスの声で引いた。土の楔を二つ置いても壁は止まらず、固めた土がそのまま埋まって消える。力で押しているのではなかった。
戸と楔は後ろへ残っているのに、その両脇だけが狭まっていた。
「広がれなくなったな。後ろを狙われたら、庇うしかなくなる」
ラウルが言った。エルディアスは杖を握り直し、近づく壁と船長の間を見た。さっき空けた道も、横へ抜ける場所も、もう使えない。
「ああ。同じやり方は、終わりだ」
船長は両手を輪から離した。壁はそこで止まったが、人が並べる場所はわずかしか残っていない。ラウルが後ろへ目をやり、ガルムが盾を中央へ立て直した。
「ガルム、そこから動くな。リュシアは、俺の前へ」
二人が位置を変える間、エルディアスは左手を軽く開き、流れ込むオドを確かめた。目の前には、倒しても戻る身体がある。その奥へ入る道を、今度はこちらから作らなければならない。
白い指が、狭くなった床を埋めていった。




