第103話 再会
甲板へ出ると、岸の声が近くなった。
船腹の下では、まだ人が降りている。桟橋から通りへ続く灯りの間を、いくつもの顔が動いていた。誰かが名を呼ぶたびに手が上がり、離れていた人影が一つになる。
エルディアスは手すりから離れたところで足を止め、前方を見た。
屋根の上へ、もう一つ窓の並んだ部屋が載っている。そこへ上がる細い階段が、甲板から続いていた。食堂で教えられた操舵室だろう。
「あそこだな」
ラウルが言った。
護衛の一人が頷き、荷を背負い直す。その横でガルムが、急に動かなくなった。
エルディアスは、ガルムの向いた方を見た。
階段の下に、腰掛けがあった。
男と女が並んで座っている。男は膝へ肘を置き、女が開いている小さな袋へ顔を向けていた。女は中から何かを探し、指へ引っ掛かった紐をほどいている。
ガルムの口が動いた。
「……ニルス」
男が顔を上げた。
エルディアスは杖を持つ手を止めた。
見覚えがある、というだけではなかった。顔を上げる時、先に目がこちらを向く。その後から、顎が僅かに動く。口元に薄い笑みが浮かぶ。
ニルスだった。
隣の女も袋から顔を上げた。
「クラリス」
セルマの声がした。
クラリスが笑った。
ガルムは荷を下ろすことも忘れ、二人へ歩き出した。セルマも続く。ラウルが一歩遅れて、その横へ並んだ。
「お前たち、こんなところにいたのか」
ガルムの声は、船内で何度も名を呼んでいた時より大きかった。
「どこを探しても見つからんから、別の奴を見たのかとまで言われたぞ」
ニルスはガルムを見ていた。笑みは消えない。
「場所は取ってある」
男は腰掛けの空いたところへ手を置いた。
「五人なら、詰めれば座れる」
ガルムは、その手の先を見た。
「いや、座るのは後だ。今まで、どこにいたんだ」
クラリスが袋を閉じた。
「待っていたの。皆が来るまで」
「ここで?」
セルマが尋ねた。
クラリスは頷いたように見えた。だが、次に目を向けたのはラウルの腰にある剣だった。
「先に外しておけば。座ってからだと、引っ掛かるわ」
ラウルは剣へ手を添えたが、外さなかった。
「俺たちが分かるか」
「ラウル」
ニルスは名を呼んだ。
ラウルが息を吐く。
「そうだ。それでいい。二人とも、怪我はしていないんだな」
ニルスは隣のクラリスへ顔を向けた。
「今日は、皆で帰れた」
「ええ」
クラリスが答えた。
「だから、急がなくていいの」
ガルムの手が、半ばまで上がった。
ニルスの肩へ触れるつもりだったのだろう。だが、その手は、肩の少し前で止まった。
「何の話をしている。俺たちは、船の中を探していたんだぞ」
ニルスはガルムへ顔を戻した。
「肉は、残しておけよ」
「……何?」
「俺の分まで、全部食うな」
クラリスが口元へ手を添えた。
「先に一口もらったら、また文句を言われるわよ」
ガルムの手が下がった。
さっきまで出てきていた言葉が、止まっている。
◇
リュシアは、エルディアスの隣で立ち止まっていた。
――エル。
声が届いた。
エルディアスは、二人の顔から目を離さずに答えた。
――ああ。俺にも、二人に見える。
――私たちも、一緒に探していましたよね。
――村を出る前にも、その後にもな。
それだけではなかった。
二人が戻らない理由を、エルディアスとリュシアは知っている。だからこそ、ここに座っている二人へ、すぐには声を掛けられなかった。
服は破れていない。顔にも、首元にも傷はない。クラリスの指は、袋の紐をきれいに結び終えていた。
ノンノが二人を見た。
声を掛ける前に、ラウルたちへ目を移す。探していた相手が見つかったのだと喜びかけた顔が、三人の様子を見て、少しずつ変わっていった。
「あの方たちが……」
小さな声で言い、そこで止めた。
リュシアはノンノの方へ手を伸ばし、傍へ促した。
セルマが、クラリスの前へ膝を折った。
「聞いて。私たちは、セレイスから来たの。あなたたちが乗るのをガルムが見たから、後を追った」
クラリスはセルマを見た。
その目は、知らない者へ向けるものではなかった。
「会えて、嬉しいわ」
「私もよ」
セルマはすぐに答えた。
「だから、何があったのか教えてほしい。村を出たの? どうやって、ここまで来たの?」
クラリスの手が、膝の上の袋を押さえた。
「皆が揃うと、よく喋るのね」
セルマは口を閉じた。
ニルスが隣で笑った。
「いつもだろう」
「そうね。ガルムが、先に喋り始めるから」
ガルムは何も言わなかった。
ラウルが一度、二人から顔を外した。
岸の方では、まだ声がしている。手すりの間から見える通りを、抱き上げられた子供の足が動いていった。
ラウルはエルディアスを見た。
「さっきの客と、違うな」
「こっちを見てはいる」
エルディアスは答えた。
「だが、今の問いには答えていない」
「ああ」
ラウルは頷いた。
それから二人へ向き直る。
「俺たちは、船長に会いに行く。この船がどこへ向かっているのか、確かめたい」
ニルスは、腰掛けの空いたところから手を離さなかった。
「席は、空けておく」
ラウルはその手を見た。
ガルムが隣から言った。
「二人も、一緒に来ないか。ずっとここにいなくてもいいだろう」
クラリスは袋を膝へ載せ直した。
「私たちは、ここにいるわ」
ガルムはもう一度口を開きかけた。
ラウルが、その腕へ手を添える。
「先に、話を聞こう」
ガルムはラウルを見た。それから、二人へ顔を戻す。
「……どこへも、行かないでくれ」
ニルスは微笑んでいた。
クラリスも、隣で同じように笑った。
セルマは立ち上がった。外套の端を直す指が、一度うまく布を掴めなかった。
九人が階段の方へ動くと、ガルムだけが最後まで振り向いていた。
二人は、並んで座っている。
腰掛けには、三人が詰めて座れそうな場所が残っていた。
◇
操舵室へ上がる階段は、下から見たより急だった。
ラウルが先に上がり、戸口の前へ立った。護衛が調査員の荷を受け取り、狭い段を空ける。エルディアスも、杖を段へ当てないよう持ち上げた。
途中で、小さな足音がした。
灰色の猫が、積んだ綱の陰から出てきた。
低く身を屈め、九人の足を避けながら階段の下へ回る。ノンノの耳がそちらを向いた。猫は一度振り返ったが、そのまま舷側の箱の間へ入っていった。
「船にも、いるんですね」
ノンノが小さく言った。
エルディアスは猫の消えた箱を見てから、階段を上がりきった。
ラウルが戸を叩いた。
「船長に話を聞きたい。食堂の者から、ここにいると教えられた」
「どうぞ」
内側から、声がした。
戸を開けると、前の壁は窓になっていた。
河の黒い水面と、岸へ並んだ灯りが見える。その手前に大きな舵輪があり、男が一人立っていた。
鍔の短い帽子をかぶり、襟の高い上着に、手袋をしている。片手を舵輪へ掛け、もう片方を背へ回していた。顔をこちらへ向けると、灯具の明かりが頬へ当たった。
「まだ、お降りになっていないのですね」
男は言った。
「話を聞いてから決める」
ラウルが答えた。
「俺たちは、セレイス行きと聞いて乗った。ここはヴァルネスだと、船の者が言っていたな」
「はい。お帰りになる方を、お送りしています」
「次は、どこへ寄る」
「皆さんは、どちらへお帰りになりたいのですか」
ラウルの顔が、僅かに動いた。
「セレイスだと、今言った」
船長は頷いた。
「その名に、帰りたい場所があるのですね」
ガルムがラウルの隣へ進んだ。
「名前の話をしているんじゃない。ここから、そこへどうやって行くかを聞いている」
「街の名だけでは足りません。いつ、誰と過ごした場所へ帰りたいか。それをお決めいただくのです」
「どういうことだ。昔いた場所へ、戻れると言うのか」
ガルムの声が強くなった。
ラウルは片手を上げ、ガルムを止めた。
「では、別のことを聞く。下の客は、どこから来た。俺たちが見た時には空いていた部屋から、次々に出てきている」
「お帰りになる方々です」
「あの人数が、どこにいたかと聞いている」
船長は答えず、窓の向こうへ目を向けた。
九人の後ろで、戸が小さく鳴った。開けたままにしていたものが、ゆっくり動いている。護衛が荷を寄せ、閉まらないよう足を挟んだ。
エルディアスは船長の手元を見た。
舵輪へ掛けた左手は、指を一本ずつ動かしていた。右手は、背へ回したままだった。
「もう一つだ」
ラウルが言った。
「甲板に二人、俺たちの仲間がいる。ニルスとクラリスだ。俺たちのことは分かるようだが、話が噛み合わない。あの二人も、あんたが乗せたのか」
「お待ちの方がいる間は、ここでお過ごしいただけます」
「待っている相手なら、ここにいる」
セルマが言った。
船長は彼女へ顔を向けた。
「それなら、ご一緒にお帰りになればよいでしょう」
セルマの指が、外套の端へ触れた。
「どこへ?」
「一緒に帰りたいと、お思いになったところへ」
船長の声は穏やかだった。
ラウルは、しばらく相手を見ていた。
「普通の船ではないんだな」
男は、その問いには答えなかった。
◇
ノンノが、リュシアの袖へ触れた。
リュシアが顔を向けると、ノンノは戸口の方を見た。隙間から、灰色の猫が顔を出していた。
護衛が足をずらすと、猫は低く身を屈めて中へ入った。机の脚へ鼻を寄せ、その向こうへ回り込む。
ノンノは猫を見送り、次に船長へ顔を戻した。
船長は窓へ向かっていた。背へ回した手が、一度だけ上着の裾から出た。
右の手袋は、指が妙に長かった。
袖口との間に白いものが見えたが、男はすぐに手を戻した。
「手を、見せてもらえるか」
エルディアスが言った。
船長が顔を向ける。
「何のためでしょう」
「さっきから隠している。何を持っている」
「何も」
「なら、見せられるだろう」
男の左手が、舵輪から離れた。
空の掌をこちらへ向ける。
「もう片方だ」
エルディアスは言った。
船長は、左手を舵輪へ戻した。
右手は見せなかった。
ガルムが一歩進みかけた。ラウルが、その前へ腕を出す。
「待て」
ガルムは止まった。だが、今度は船長の顔から目を離さなかった。
ノンノがエルディアスの傍へ寄った。
「あの猫を、使ってもいいですか」
声は低かった。船長はまだ、ラウルへ顔を向けている。
「何をする」
「手袋の端を引いてもらいます。袖の下が、少し見えたんです。でも、何だったのか分からなくて」
エルディアスは、机の下へ目を向けた。
猫はそこから顔を出し、前足を舐めていた。
「引くのは布だけだ。手には噛みつかせるな」
「はい」
ノンノは袋の留め具を外した。銀灰色の魔導書を取り出し、身体の陰で開く。
頁の上へ光が浮いた。
ニペクが翅を開き、机の脚の向こうへ飛んでいく。ノンノは本を胸の高さで支え、猫を見ていた。
ラウルが船長へ尋ねた。
「降りずに乗っていたら、どうなる」
「ご自分の帰る場所がお決まりになるまで、お過ごしください」
「いつまでもか」
「お急ぎになることはありません」
船長は答えた。
その足元で、猫が顔を上げた。
虹色の細かな鱗粉が、灰色の毛の間へ落ちていた。ニペクがふわりと浮き、机の端へ止まる。
ノンノの指が、本の縁を握り直した。
猫は前足を床へ下ろし、船長の背後へ回った。
◇
「戻りたいのは、今いる街だけとは限らないでしょう」
船長が言った。
ラウルは答えなかった。
「顔を見たい方がいる。もう一度、座りたい椅子がある。皆さんにも、おありのはずです」
セルマの顔が、僅かに上がった。
「あの二人は、何を待っているの」
船長は彼女を見た。
「それは、お二人にお確かめください」
「聞いても、答えてくれなかったわ」
「お二人は、まだここにいらっしゃる。今は、お帰りになっていません」
ガルムの手が、斧の柄へ触れた。
エルディアスは、船長の右肩を見ていた。
猫が机へ飛び乗った。
木を蹴った小さな音に、船長が顔を動かす。その瞬間、猫は上着の背へ前足を掛けた。爪が布へ引っ掛かり、裾が少し引かれる。
船長の右腕が動いた。
猫を払おうと、背から手が出る。
灰色の頭が、その手へ向いた。
猫は手袋の指先を咥え、机の上で後ろへ身を引いた。
手袋が張った。
布の内側で、硬いものが擦れる音がした。
船長が腕を引く。猫の爪が机の縁へ掛かり、身体が少し浮きかけた。
「離して」
ノンノがすぐに言った。
猫が口を開く。
片方の手袋は、その下へ落ちた。
白い指が残っていた。
肉も、爪もない。
細い骨が何本も繋がり、手首から袖の中へ続いている。船長が曲げると、関節の間に隙間が開いた。
ラウルが、ゆっくり剣の柄を握った。
「その手は、何だ」
船長は右手を見た。
落ちた手袋を拾おうとはしなかった。
猫は机から下り、壁際へ走った。ノンノが本へ添えた手を緩めると、ニペクは机の端から離れ、その肩へ戻った。
「解きました」
ノンノが声を落として伝える。
エルディアスは頷き、彼女の前へ半歩出た。
船長の口元が動いた。
「お客様」
さっきと同じ声だった。
「お帰りになる日を、先にお決めください」
「手のことを、聞いている」
ラウルが言った。
骨の指が、舵輪へ掛かった。
左手も、その隣へ置かれる。手袋の下で、指の形が細くなった。頬へ当たっていた灯具の光が、浅く窪んだところへ落ちる。
男の顔から、肌の色が抜けていった。
目のあったところが暗く沈み、唇が薄れて歯が見える。顎の骨が動くたび、口の奥へ光が入った。
セルマが息を呑んだ。
船長は舵輪へ両手を置いたまま、こちらへ顔を向けた。
帽子の下にあったのは、骨だった。
◇
護衛の一人が、戸口へ身体を寄せた。
足を挟んでいた戸が押してきている。男は肩を当て、閉まるのを止めようとした。
「戸が、動くぞ」
ラウルが振り向いた。
エルディアスは、その前にリュシアを見た。
――ノンノと調査員を、戸の側へ。
――はい。
リュシアは剣を抜かず、先にノンノの肩へ手を添えた。壁際へ促し、調査員の持っていた包みを床へ下ろす。もう一人の護衛が、その前へ立った。
ガルムが斧を構えた。
「ラウル、下がれ」
ガルムの声と同時に、船長の右手が舵輪から離れた。
長い指の骨が、こちらへ伸びる。
エルディアスは杖を上げた。
風を、船長とラウルの間へ立てる。
乾いた音がした。
骨の指が風の向こうで横へ流れ、舵輪の脇の板へ突き刺さった。木が裂け、細い欠片が床へ落ちる。
ラウルが一歩退いた。
同時に、リュシアがその前へ出た。
剣が鞘から抜け、灯具の光を受ける。
――右から来る。
リュシアの切っ先が、右へ動いた。エルディアスは左へ杖を向け、彼女の退く場所を空けた。
板へ刺さった指が引き抜かれる。
船長は、骨の顔で九人を見ていた。
背後で、戸が大きく軋んだ。




