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第102話 帰郷

 ノンノが目を開けた。


 外套の内側から片手を出し、膝へ載せていた袋を引き寄せる。起き上がりかけたところで首を押さえ、ゆっくり顔を左右へ向けた。


「痛めたか」


 エルディアスが声を落として尋ねると、ノンノは首を横に振った。


「少し、変な向きで寝ていたみたいです。……わたし、ずっと寝てました?」


「ああ。何度か身体を動かしていたが、起きなかった」


 最初の港を離れてから、九人はこの部屋で交代に休んでいた。


 夜食を食べに行く前に、少しでも眠っておこうと決めた。ノンノは初め、目を閉じるだけにすると言っていたが、外套を肩へ掛けてもらうと、じきに寝息を立て始めた。


 今は、リュシアも目を閉じている。


 ノンノはその横顔を見てから、窓へ顔を向けた。灯具の光が当たった耳が、少しずつ起き上がる。


「まだ、夜なんですね」


「外は、ずっとあのままだ」


 エルディアスが答えた。


 ガルムとセルマは、少し離れた腰掛けで眠っていた。ラウルは壁際で起きている。護衛の一人も階段を見通せるところへ座り、乗客が下りてくるたび、顔を上げていた。


 空いた場所は、先ほどと変わっていない。


 ノンノは外套を畳み、膝へ載せた。水を飲んでから、エルディアスへ顔を向ける。


「エルさんは、眠りましたか」


「まだだ。お前たちが起きたら休む」


「わたし、もう起きていられます。ちゃんと眠れましたから」


 エルディアスはラウルへ目を向けた。こちらを見ていたラウルが頷く。


「交代しよう。俺も少し休む。何かあれば、すぐ起こしてくれ」


「はい」


 ノンノは肩を壁から離し、階段の方へ座り直した。


 その動きでリュシアも目を開けた。ノンノが起きていることを確かめると、外套を寄せて身体を起こす。


「よく眠れましたか」


「はい。リュシアさんも?」


「ええ。エルも、今度は休んでください」


 エルディアスは杖を手の届く位置へ置き、腰掛けへ背を預けた。


 すぐ眠れるとは思っていなかった。壁の向こうには水音があり、階段からは客の足音も届く。ノンノがリュシアへ何か尋ね、返事を聞いている。


 聞こえていた言葉の途中から、覚えていなかった。


     ◇


 目を覚ました時、ガルムが階段から下りてきた。


 セルマも一緒だった。起きていた護衛へ短く何か伝え、それからこちらへ歩いてくる。


「悪い。起こしたか」


 ガルムが声を落とす。


「いや」


 エルディアスは身体を起こした。袋を足元へ下ろし、窓を見る。


 暗かった。


 灯具がガラスへ映り、その向こうには、船の灯りが届く狭い水面しか見えない。


「二人は、見つかったか」


「まだだ。今、食堂の前まで行ってきた」


 ガルムは答え、ラウルへ目を向けた。ラウルも起きている。外套を畳みながら、二人の話を聞いていた。


「奥の通路も、もう一度見ておきたい。さっきは寝ていた客が、起きているかもしれん」


「俺も行こう」


 ラウルが立った。


 リュシアがノンノへ顔を向ける。ノンノはすでに、水袋を腰へ結んでいた。


 六人で上へ行き、調査員と二人の護衛は荷の傍に残る。戻る場所を確かめてから、エルディアスたちは階段を上がった。


 通路では、壁際へ袋を置いていた客が、布を巻き直していた。その先で、年老いた男が靴の紐を結んでいる。食堂の戸は開いており、中から器の触れ合う音がした。


 ガルムは、歩いてくる者がいるたび顔を確かめた。


 窓の下へ座っていた男にも、二人連れを見なかったかと尋ねる。男はニルスとクラリスの特徴を聞いてから、首を横に振った。


「俺は、ずっとここにいたんでね。そっちの通路から来た客のことは分からんよ」


「そうか。ありがとう」


 ガルムは礼を言い、先へ進んだ。


 奥の通路は、次第に狭くなった。突き当たりには小さな部屋が二つある。戸の開いている方では、数人の客が腰掛けへ座っていた。


 ラウルが断ってから中を見る。ガルムも戸口から顔を向けた。


 探している二人はいなかった。


 もう一方の部屋でも、客が荷を足元へ寄せて眠っていた。壁際には棚があり、上着を掛ける鉤が並ぶ。奥へ続く戸はなかった。


 セルマは、腰掛けの下へ垂れた外套を見た。持ち主が起き上がり、その顔が見えると、小さく息をついた。


「戻りましょうか」


 ラウルが頷いた。


「起きてきた客にも、また聞いてみる。今は、下の三人のところへ戻ろう」


 帰りの通路で、ノンノが窓の傍へ寄った。


 すぐに歩き出さなかったので、エルディアスも足を止める。


「何か見えたか」


「いいえ。向こうの空が、少しでも明るくなっていないかと思って」


 リュシアも隣へ立った。三人が見ていることに気づき、ラウルたちも戻ってくる。


 窓の外には、黒い河が続いていた。


 エルディアスは灯具を背にしない位置へ動いた。顔の映り込みは薄くなったが、遠くの岸も、空の色も分からなかった。


「皆で一度ずつは眠ったな」


 ラウルが言った。


「ああ。俺も、少し横になっただけのつもりだったが」


 ガルムが首へ手を当てる。


「起こされた時には、よく寝たと思った。まだ夜だと言われて、寝足りなかったのかと思ったんだがな」


「私も、目が覚めたら空が白んでいると思っていたわ」


 セルマは窓から顔を戻した。


「でも、あの三人を見送った時と、変わらないのよね」


 ノンノは返事をせず、外を見ていた。


 ――長いですね。


 リュシアの声が届いた。


 ――ああ。


 エルディアスも窓を見たまま答えた。


 眠る前には、まだ思い違いかもしれないと思っていた。話を聞くのに夢中で、長く過ごした気になっただけなのかもしれない。


 今は、起きていた者と眠っていた者の、どちらも同じことを気にしている。


「鐘が聞こえないからって、こんなに分からなくなるものかしら」


 セルマが呟いた。


「少なくとも、空は変わるはずだ」


 ラウルは答え、通路の先を見た。


「船の者に、どこまで来たか聞こう。朝を待つだけでは、何も確かめられん」


     ◇


 九人で食堂へ上がると、入口に近い卓が空いていた。


 船員は人数を聞き、温かい豆の汁とパンを運んできた。朝の食事かとラウルが尋ねると、夜食だと答えた。下の部屋で案内された時と、同じ言い方だった。


 ノンノは椀へ両手を添え、初めの一口をゆっくり飲んだ。それから匙を取り、底の豆をすくい始めた。


 エルディアスもパンをちぎった。


 休む前には、少し食べればいいと思っていた。今は、添えられた分を全部食べても、もう一切れくらいは入りそうだった。


「あれだけ眠れば、腹も減るな」


 ガルムが椀を置いた。


「これを朝飯にして、次は昼に食おうと思っていたんだが」


「わたしもです」


 ノンノが答えた。


「夜食だと言われると、さっき食べたばかりみたいに聞こえますね」


 セルマは手元のパンを見た。


「食堂の人は、ずっと働いているのかしら」


 リュシアも台所の方を見ていた。


 器が台へ置かれ、船員が別の器を持って出てくる。客に呼ばれると足を止め、水を足す。その間にも、台所からは湯気が上がっていた。


 器を片づけに来た男へ、リュシアが声を掛けた。


「すみません。この船は、今どの辺りを進んでいるのでしょうか」


 男は足を止めた。下の部屋へ夜食を知らせに来た船員だった。


「次に寄るのは、ヴァルネスです」


「ヴァルネスという港か」


 ラウルが顔を上げる。


「はい。着く前に、皆さんへお知らせします」


「まだ先なのか」


「岸が見えてきたら、お支度を始めていただければ大丈夫です」


 男は窓の方を示した。まだ港の灯りは見えない。


「その先は、どこの港へ寄る。セレイスまでの道筋を知りたい」


 ラウルが続けると、船員は重ねた椀を持ち直した。


「航路の詳しいことは、船長にお聞きください」


「どこにいる」


「上の操舵室です。この先の階段を上がり、甲板へ出たら、前に見える階段をもう一つ上がってください。窓が並んだ部屋があります」


 男は食堂の奥を指した。


「船長へ話をしたい方がいると、先に伝えておきます」


「頼む。九人で行く。航路のほかにも聞きたいことがある」


 船員は頷き、器を運んでいった。


 女性の調査員が記録板を出した。


「ヴァルネス、でしたね」


「ああ」


 ラウルが答えると、女性は名を書いた。その前には、交代で休んだことと、二人を探して通路の奥まで歩いたことが、順に記されている。


 港を出てからの記録が増えても、次の日の印はつけられなかった。


     ◇


 船員は、すぐには戻ってこなかった。


 九人は食事を終え、荷を持って立った。食堂の戸の脇まで行ったところで、ラウルが台所から出てきた別の船員へ、先ほどの男を見なかったかと尋ねた。


「向こうへ行きましたよ。上へ出たのかもしれません」


 船員が指したのは、操舵室へ向かう階段の方だった。


「先に行っているか」


 ガルムが言った。


「行こう」


 ラウルは頷いた。


 通路を歩く間も、食堂の窓から見えるのは黒い水面だけだった。途中で、ノンノが一度足を止める。


 ガラスへ寄り、目を細めた。


「あそこに、灯りが見えます」


 ラウルたちも窓の傍へ寄った。エルディアスには初め、暗いところへ小さな点があるだけに見えた。船が進むと、その点が二つに分かれた。


「岸か」


「たぶん。もう少し向こうにもあります」


 ノンノは窓に触れない位置で、指を動かした。


 やがて、ほかの者にも見えるようになった。低い場所へ、灯りが幾つも並んでいる。


 床から伝わる振動が変わった。


 船の進み方が緩み、河の上を流れていく岸の光が、少しずつ大きくなっていく。


 通路の奥から、船員の声がした。


「ヴァルネスへ入ります。こちらで降りる方は、お忘れ物のないよう、ご準備ください」


 ラウルは操舵室へ向かう階段を見てから、降り口の方へ顔を戻した。


 その隣で、ガルムが立ち止まっている。


「先に、降りる客を見るか」


 ラウルが尋ねた。


「ああ。ここへ来た客も、さっきまで部屋にいたんだろう。二人も、出てくるかもしれん」


「分かった。俺たちも一緒に行く。降りる客が通ったら、船長のところへ上がろう」


 セルマが頷いた。


「今度も、二人の顔を見落とさないようにするわ」


 通路の先で、客が立ち上がり始めた。


 外套を羽織り、卓へ残したパンを布へ包む者がいる。壁際の袋を背負った男が、連れへ手を差し出した。食堂の中でも椅子を引く音が重なった。


 ノンノの耳が、通路の奥へ向いた。


 靴音が重なっていた。食堂から出てきた客の声に混じり、さらに奥から、まとまった人数が歩いてくる。


 ガルムもそちらを見た。


「多いな」


 降り口へ続く通路に、人の列が出来ていた。


 まだ戸の開いていない降り口へ向かい、客が順に歩いていく。外套を着た者だけではなかった。革の胴当てを身につけ、剣を腰へ下げた男がいる。その後ろには、長い棒へ巻いた布を肩に載せた者がいた。


 さらに二人、三人と、似た装いが続く。


「兵士でしょうか」


 リュシアが声を落とした。


「同じ印をつけている。どこかの兵だろうな」


 ラウルは答えた。


 肩や胸へ留められた小さな金属片に、同じ形が刻まれている。だが、鎧は揃っていなかった。薄い板を重ねたものもあれば、革へ金属を打ちつけたものもある。脛を守る板を片方しか着けていない男もいた。


 皆、よく歩いた後の装いだった。


 砂だけではない。乾いた泥が裾へつき、革紐の端は擦れている。剣の鞘を押さえる手にも、細かな傷があった。


 それでも、顔は明るかった。


「まだ、あの店は開いているかな」


 列の中で、若い男が言った。


「お前は帰る前に寄るつもりか。先に顔を見せろ」


「戸を開けたら、母親より先に犬が出てくるぞ」


「そりゃ、お前が大声を出すからだろう」


 男たちが笑った。


 ガルムはその顔へ目を向け、一人ずつ確かめた。セルマも列の間から、後ろに続く者を見ている。


 槍を持つ男が通った。穂先は折れ、短くなっていたが、男はそれを気にせず、肩に担いでいる。


 次には、鎧を腕へ抱えた女が来た。自分の腰より下まで届く盾を背負い、隣の男へ何か話していた。男は聞きながら笑い、頭を下げて女の言葉を聞き直す。


 ノンノは、少し背を伸ばした。


「この方たち、どこにいたんでしょう」


 誰へ尋ねるともなく、そう言った。


 エルディアスも、列の来る方を見た。


 自分たちが歩いてきた通路より、さらに奥からだった。


     ◇


 船が岸へ寄り、綱が渡された。


 最初の港と同じように、船員が戸の前で客を止めていた。渡り板が掛かるのを待つ間にも、列は後ろへ延びていく。


 九人は、戸の脇の壁際へ寄った。


 窓越しに見えていた岸の灯りは、戸が開くと、建物の戸口や軒へ下げられたものだと分かった。桟橋の向こうに広い通りがあり、その両側へ家が続いている。低い屋根の間から、尖った塔が一つ出ていた。


 岸には、大勢の人が立っていた。


 誰かが手を振った。船からも、腕が上がる。


「帰ってきたぞ」


 列の中から声がした。


 押し合う者はいなかった。それでも、足が前へ出たことは分かった。戸の脇にいた船員が手を下ろすと、最初の男が渡り板へ進んだ。


 剣を下げた腰が、横木を踏むたび上下する。


 次の者も、その後ろへ続いた。


 岸へ降りた男へ、小さな子供が走り寄った。男は槍を脇へ持ち替え、空いた腕で抱き上げる。子供の足が宙へ上がり、笑い声がこちらまで届いた。


 その後ろでは、年老いた女が、若い兵の頬へ両手を当てていた。


 兵は何か言ったが、女は手を離さない。男の方が顔を寄せ、額を触れ合わせた。女の肩が揺れ、兵も目を細めて笑った。


 別の男は、同じくらいの年の二人に肩を叩かれていた。片方が何か言うと、降りた男が口を開けて笑い、抱えていた荷をもう片方へ預けた。そのまま三人で、肩を並べる。


 エルディアスが見ている間、岸へ降りて一人で立ち尽くす者はいなかった。誰かが手を上げ、名前を呼び、近づいていく。迎えを見つけた顔はどれも明るく、駆け寄る方も笑っていた。


「迎えに来ているんですね」


 ノンノが言った。


 リュシアは頷きかけ、その途中で列へ目を戻した。


 一人の男が、目の前を通った。


 胸の鎧が、内側へ潰れていた。


 割れた板の下に着ている服も裂けている。乾いた血で固まった布の間に、深い傷が見えた。歩くたび胸当てがずれたが、男はそこを押さえもしなかった。


 隣の者へ、笑って話している。


 リュシアは一歩、前へ出た。


「その傷は――」


 男は顔を向けなかった。


 話していた相手の方を見たまま、戸の外へ進む。傷のある側で綱を掴み、渡り板を下り始めた。


 リュシアは足を止めた。


 ――見えましたか。


 声が届いた時、エルディアスも男の背を見ていた。


 ――胸の傷か。


 ――あの深さで、あんなふうに歩けるとは思えません。


 男は岸へ降りた。待っていた者が駆け寄り、首へ腕を回す。男は少し身体を屈め、その者を受け止めた。


 胸の傷へ触れられても、顔は歪まなかった。相手の背へ腕を回し、何か囁いて笑う。抱きついていた方も顔を上げ、涙の残る頬を緩めた。


 エルディアスは視線を戻した。


 別の兵が来る。


 その手には、血のついた布が握られていた。


     ◇


 兵だけではなかった。


 裾の長い服を着た女が、子供を抱いて来た。袖が濡れ、腕へ張りついている。子供の髪にも水が残り、女の肩からは細い草の葉が垂れていた。


 後ろには、裸足の老人がいた。片方の足へ泥が厚くついている。何度か通路の板を踏んでも、落ちきらなかった。


 その次は、若い夫婦らしい二人だった。


 男の腰には、縄が巻かれている。切れた端を、女が持っていた。二人はその短い縄を挟んで、手を繋ぐように歩いてくる。


「あの方、濡れていますよね」


 ノンノが、子供を抱いた女を見た。


「船へ乗る時に、河へ落ちたのかしら」


 セルマもそちらへ顔を向けた。


 リュシアが女へ声を掛けた。


「お子さんは、大丈夫ですか。寒いようなら、包むものがあります」


 女は止まらなかった。


 子供を抱き直すと、その顔へ頬を寄せた。小さな手が女の襟を掴んでいる。笑っているらしい声が、布の向こうからした。


「すみません。少しだけ――」


 リュシアは女の袖へ指を添えた。


 濡れた布の冷たさが、指へ伝わった。だが、女はそこを見ず、子供へ何か囁いた。歩みも緩まなかった。


 リュシアが手を離すと、その袖が指先を滑っていった。


「聞こえなかったのか?」


 ガルムが言った。


 リュシアは首を横に振りかけ、それをやめた。


「分かりません。でも、今の距離なら……」


 女は渡り板へ出た。船員が子供を抱えている側へ手を差し出すと、女はそちらを見て、軽く頭を下げた。


 岸では、一人の男が両手を広げていた。


 子供がその方へ手を伸ばす。女は笑って頷き、渡り終えると、男の腕へ子供を抱かせた。男は小さな身体を胸へ寄せ、もう片方の腕で女の肩を抱いた。


 三人の顔が近づき、女が声を立てて笑った。その袖からは、まだ水が滴っていた。


 エルディアスはそれを見ていた。


「船の者には、応じるんだな」


 ラウルも頷いた。


「聞こえないわけではなさそうだ」


 戸の前へ、縄を持った二人が来た。


「今度は、戸を直さないとな」


 男が言った。


「あれ、ちゃんと閉まらなかったでしょう」


「お前が言っていた通りだ。水が入るまで、あんなに浮くとは思わなかった」


 女が笑った。


「帰ったら、先に見てよ」


「ああ。分かった」


 二人は縄を持ったまま、外へ出た。


 ラウルがその後ろへ声を掛ける。


「水が入ったって、家が浸かったのか?」


 二人は答えなかった。


 男は女の肩へ手を添え、渡り板へ出る時だけ足元へ目を落とした。


 岸へ着くと、年老いた男が二人へ近づいた。女が空いている手を伸ばし、男はその手を両手で包んだ。三人で何か言い合い、笑いながら家々の方へ歩き始める。


 裸足の老人にも、小さな迎えがあった。二人の子供が桟橋で待ち、近づいた老人の手を片方ずつ取る。老人は腰を屈め、二人の顔を交互に見て笑った。泥のついた足が止まるたび、子供たちも足を止め、顔を見上げていた。


 その後ろからも、泥のついた服を着た者が来た。


 荷を持っていない者が多かった。両手で靴だけを抱えている男がいた。布を巻いた小さな箱を胸へ押しつけている女もいる。老人の背に、泥へ濡れた戸板の欠片が結びつけられていた。


 皆、同じところから歩いてきた。


 同じ方へ顔を向け、外へ出ていく。


 ガルムが一人の肩へ手を伸ばした。


「待ってくれ。聞きたいことがある」


 男は、ガルムの手を肩へ載せたまま、一歩進んだ。ガルムが脇へ寄らなければ、腕が通路を塞ぐ形になる。


 男の顔に、嫌がる様子はなかった。


 微笑んだまま、岸の方を見ている。


 ガルムは、ゆっくり手を下ろした。


     ◇


「あの男だ」


 ラウルの声で、エルディアスは通路へ目を戻した。


 列の中に、見覚えのある顔があった。


 ハディルの乗船窓口にいた係員だった。


 ラウルから九人分の代金を受け取り、帳面へ人数を書き込んだ男だ。船へ入る戸で札を見た船員とは違う。桟橋の窓口の、机の向こうにいた。


「あんた、ハディルで俺たちの札を出したな」


 ラウルが呼び止めた。


 男は歩き続けた。


 手には、仕事の道具も帳面もなかった。指を軽く曲げ、腕を身体の脇へ下げている。ラウルの前を通る時にも、その顔は岸の方を向いていた。


「いつ乗った。俺たちが乗る時には、まだ窓口にいたはずだ」


 男は答えなかった。


 ラウルが半歩前へ出る。男は足を止め、そちらを見たように思えた。


 だが、視線はラウルの肩を越えていた。


 戸の外を見て、男が笑った。


 その顔を見て、ノンノも気づいた。


「お金を受け取った方ですよね。わたしたちの荷物も、見ていました」


「ああ」


 ラウルは答え、身体を脇へずらした。


 空いたところを、男が通っていった。


 ガルムがその背へ声を掛ける。


「ニルスとクラリスを知らないか。乗る時に探していた、二人連れだ」


 返事はなかった。


 男は渡り板へ出た。足元へ一度目を落とし、綱へ手を添える。それから顔を上げ、岸へ向かって歩いていった。


 白髪の女と男が、桟橋の端で待っていた。窓口の係員は二人を見ると、歩幅を広げた。


「ただいま」


 その声は、ラウルの問いに答えなかった時と、同じ口から出た。


 女が笑って、差し出された手を握る。隣の男も係員の肩へ手を置いた。係員は二人の顔を見て、子供のように頬を緩めた。


 帳面へ人数を書き込んでいた時には、見せなかった顔だった。


 セルマは、ガルムの隣へ寄った。


「誰も、私たちを見ていないわ」


 ガルムは外を見たまま、返事をしなかった。


 エルディアスは列の来る方を見た。


 食堂の横を抜けた奥の通路から、また兵が出てきた。その肩越しに、濡れた髪の女が見える。さらにその後ろに、子供の手を引いた男がいた。


 最初の港でも、客は降りている。


 その後、食堂の空いた卓を見てきた。下の部屋にも、空いた腰掛けがあった。


 いま岸へ降りている者だけで、それまで船内を探し回った時に見た客の数を、とうに上回っていた。兵たちの後ろにも、まだ人が続いている。


「ラウル」


 エルディアスは声を落とした。


「あの奥は、さっき二人を探しに行ったところか」


 ラウルが振り向く。


「そうだ。奥まで見た。通路の突き当たりに、小さな部屋が二つある」


「そこに、この人数がいたか」


「いなかった」


 今度は、ガルムが答えた。


「俺も見た。人の顔を一つずつ見て歩いた。あそこに、こんなに兵がいたわけがない」


「部屋から出て、こっちへ来ている間に、入れ違いになったとか……」


 調査員が言いかけた。


 言葉は、そのまま止まった。


 目の前を、十人ほどの兵が続けて通った。何か言い合い、笑っている。旗を持った男が、布を巻いた柄を少し持ち上げ、戸の上へ当てないよう屈めた。


 その後ろからも、人が来た。


     ◇


 護衛の一人が、ラウルへ身を寄せた。


「俺が見てこようか」


「一人では行くな」


 ラウルは即座に答えた。


「二人で行くなら」


「今は分かれない。見に行っている間に、こっちで何が起きるか分からん」


 男は通路の奥を見てから、頷いた。


 ノンノは、背負い袋の肩紐を握っていた。


 人が近づくたび、耳がその声へ向く。話している内容は聞こえる。こちらが声を掛けても、返ってこない。そのことを確かめるように、何度も列と九人の間へ視線を動かしていた。


「エルさん」


「何だ」


「船には、こんなに乗っていたんでしょうか」


 エルディアスは、戸の外へ目を向けた。


 岸には、降りた者がまだ大勢いる。迎えに来た者と手を繋ぎ、家々の間へ入っていく。新しく降りた兵たちにも、別の迎えが駆け寄っていた。


 抱き合う者も、照れたように握手をする者もいる。呼ばれた名へ顔を向けるたび、笑顔が増えていった。


「みんな、迎えの人を見つけるんですね」


 ノンノが言った。


「わたしたちが呼んだ時には、振り向かなかったのに」


 リュシアは岸を見たまま、小さく頷いた。


「少なくとも、俺たちが見て歩いたところには、いなかった」


 ノンノは唇を閉じた。


 リュシアがそちらへ身体を寄せる。


「離れないでください。人が増えても、通すために私たちの間を空けなくていいです」


「はい」


 ノンノは、リュシアとエルディアスの間へ一歩寄った。


 ガルムがこちらを向いた。


「さっき、胸に傷のあった兵がいたな」


 リュシアが頷いた。


「あんな傷で、普通に歩けるものか」


「本当の傷なら、生きてはいられないと思います」


 ガルムは返事をしなかった。


 セルマの手が、自分の外套の端を握った。ラウルは岸へ顔を戻す。そこでは、兵が子供を肩へ載せていた。小さな手が男の髪を掴み、男は頭を少し傾けて笑っている。


「……戦場から、帰ってきたのか」


 ガルムが言った。


「あいつらは」


 誰も、すぐには答えなかった。


 通路を、濡れた服の者が通った。肩へ掛けた布の端から、水が一滴落ちる。後ろの女は、何も持っていない両手を重ね、前を行く男の背を見て微笑んでいた。


 兵に混じって歩く者たちの服には、泥や水草がついている。


 子供まで、頭から濡れている。服から落ちた雫が床へ滲んでも、誰も足を止めなかった。


 ラウルは通り過ぎる者の顔を見ていた。濡れた袖を絞る者も、泥を払おうとする者もいない。岸から名を呼ばれると、笑顔で手を上げ、そのまま渡り板へ進んでいく。


 調査員も記録板を持ったまま、人の流れを見送っていた。


 エルディアスは、戸の脇へ立つ船員を見た。


 男は乗客へ順に声を掛け、子供や荷の大きい者が通る時には、綱へ手を添えるよう促している。降りた数を数えている様子はなかった。


 ――リュシア。


 声を掛けると、すぐに返事があった。


 ――はい。


 ――人の流れに紛れないようにしよう。何かあったら、ノンノを先にこっちへ寄せろ。


 ――分かりました。エルも、向こうへ寄りすぎないでください。


 エルディアスは小さく頷いた。


 エルディアスは杖を握り直した。


 通路の奥から、また新しい客が姿を現した。戸の外では、誰かを迎える声が上がっていた。


     ◇


「船長へ聞くぞ」


 ラウルが言った。


 ガルムは岸から顔を戻した。


「今からか」


「ここで待っていても、誰も答えん。どこからこの人々が来て、どこへ降ろしているのか。船を動かしている者に、確かめる」


 ラウルは九人の顔を見た。


「連れを探すのも、その話を聞いてからだ。俺たちがここから戻れるのかも、分からないままだからな」


 ガルムは手を開き、閉じた。


 それから、頷いた。


「ああ。俺も聞く」


 セルマも荷の位置を直した。


 ノンノは戸の外へ目を向けた。岸へ降りた者たちが、迎えの者と並んで歩いている。


「ドランさんたちも……」


 声は、そこで止まった。


 リュシアがノンノを見た。


 ノンノは顔を上げたが、続きを言わなかった。水袋の紐へ添えた手が、縫い直されたところに触れていた。


「今は、まだ分かりません」


 リュシアはそう答えた。


「まず、私たちが乗っている船のことを確かめましょう」


「……はい」


 九人は壁際を離れた。


 通路の人の流れが薄くなるところを待ち、食堂の方へ戻る。列を逆に押し進むことはしなかった。ラウルと護衛が前へ立ち、セルマとガルムが後ろからついた。


 階段へ入る前に、エルディアスは一度振り向いた。


 食堂の横から、見覚えのある船員が来た。


 さっき、椀を片づけていた男だった。


 今は何も持っていない。前を歩く客の後ろへつき、降り口へ向かっている。


「あんた」


 ラウルも気づき、声を掛けた。


「操舵室は、この上でいいんだな」


 男は、答えなかった。


 食堂で航路を尋ねた時と、同じ近さだった。


 ラウルは声を強めた。


「さっき、船長のいる場所を教えてくれたろう」


 男は一度、顔を動かした。


 ラウルではなく、その向こうの岸を見た。


 何か見つけたのか、口元が緩んだ。


 男は前の者へ続き、降り口の方へ歩いていった。


 ラウルは、その背へ手を伸ばさなかった。


「行こう」


 エルディアスが言った。


 ラウルは頷き、階段へ足を掛けた。


 上からも、人が下りてくる。


 九人は片側へ寄って、その者たちを通した。笑いながら下りてきた兵の一人が、折れた槍を持ち替える。後ろの男は、岸から聞こえた声へ返事をした。


 エルディアスには、誰を呼んだ名なのか分からなかった。


 兵は、嬉しそうにもう一度声を上げた。


 最後の一人が下りるのを待ち、九人は上がり始めた。


 機関の響きは弱まっている。岸へつながれた船の中を、帰っていく者たちの足音だけが、いつまでも続いていた。


全編に亘ってTypoがあったので修正しました

…根幹なのに…無知って怖い…

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