第49話 富士山ぐるっと半周
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早朝五時。富士市の街は、まだ夜の静寂を脱ぎ捨てきれずにいた。
しかし、吉原駅のホームには、中学二年生とは思えないほど重装備の四人の姿があった。
「……おはよ。さすがに、この時間はまだ涼しいね」
美歩さんが、少し眠そうに目をこすりながら現れた。彼女の肩には、手入れの行き届いた一眼レフ。僕、佐野は眼鏡を 「くいっ」 と直し、手元の「御殿場探景計画書」を最終確認する。
「ああ。でも、今日の最高気温は三十八度予報だ。御殿場は標高が高いとはいえ、油断はできないよ」
「わかってるって。ほら、塩レモン飴と凍らせたペットボトル、準備万端だぜ!」
原がリュックを叩いて笑う。結衣も「宿題、意地で終わらせてきたんだから、今日は全力で楽しむわよ!」と気合十分だ。
東海道本線の電車に乗り込み、沼津駅で御殿場線へと乗り換える。
かつての東海道本線であったこの路線は、勾配を克服するために作られた重厚な歴史を纏っている。僕たちを待っていたのは、オレンジのラインが鮮やかな313系電車だった。
プシュー、という音とともにドアが閉まる。
313系の独特なモーター音が、静かな車内に響き始めた。電車が沼津の街を抜け、裾野、長泉と標高を上げていくにつれ、車窓の景色はドラマチックに変化していく。
「ねえ、見て。雲の中に突っ込んでいくみたい」
美歩さんの指差す先、窓の外には真っ白な霧が立ち込め始めていた。富士市では刺すような朝日が照りつけていたのに、ここでは視界が数メートル先まで遮られている。
「これが御殿場の『霧』か……。原の親父さんが言ってた通りだな」
「ああ。でも、この霧の向こうに、僕たちが探している『正面の富士山』があるはずなんだ」
電車は力強く坂を登っていく。ロングシートに並んで座る僕たちの体は、カーブのたびに心地よく揺れる。ふと横を見ると、美歩さんの肩が僕の腕にわずかに触れた。彼女は気づいていないのか、それとも霧の向こうに集中しているのか、じっと外を見つめていた。僕の心拍数が、電車の駆動音に同期するように少しだけ速くなる。
御殿場駅に降り立った瞬間、僕たちを包み込んだのは、富士市とは明らかに違う「湿った、重い空気」だった。
「……真っ白。富士山、どこにあるの?」
結衣が途方に暮れたように呟く。駅の展望デッキに立っても、そこにあるはずの巨大な山影は一切見えない。
僕たちはあきらめず、霧の中を歩き出した。自衛隊の演習場へと続く広い道。頭上を走る送電線が、霧の中に消えていく消失点。
(……この霧こそが、御殿場の『景』なんだ)
僕はシャッターを切った。富士山が見えない富士山の麓。それは、中二の僕たちが直面している「未来の見えなさ」と重なっているような気がした。
三時間ほど歩いただろうか。
突然、風が吹いた。
重く垂れ込めていた霧が、まるで舞台の幕が開くように、一気に左右に割れた。
「——っ! みんな、上!」
原の叫び声に、全員が顔を上げた。
そこにあったのは、僕たちが知っている富士山ではなかった。
右側の膨らみ (宝永山) が消え、完璧に近い左右対称の円錐形。そして、山体の中央に巨大な口を開けた火口跡。ちょっとごつい富士
「正面富士」。
圧倒的な質量と威圧感を持って、それは僕たちの目の前に現れた。
「……すごい」
美歩さんの声が震えていた。彼女は吸い込まれるようにファインダーを覗き、無心にシャッターを切り続けた。
中学二年生。県外へは行けなかった。でも、この県境ギリギリの場所で見つけた景色は、本栖湖の逆さ富士にも負けない、僕たちだけの「真実」だった。
午後の日差しが霧を完全に焼き尽くすと、御殿場も耐え難い暑さに変わった。
僕たちは熱中症に細心の注意を払いながら、再び御殿場駅へと戻った。
帰りの313系の車内。
行きとは違い、僕たちは疲れ果てて言葉を失っていた。冷房の効いた車内で、原と結衣は早々に深い眠りに落ちている。
窓の外では、夕暮れ間近の強烈な光が差し込み、沿線の至る所から蝉の声が、電車の音をかき消さんばかりに降り注いでいた。
ミーンミーン、という激しい鳴き声。それは「夏がここにある」という執拗なまでの主張のように聞こえた。
「……暑すぎるね、今年の夏も」
隣に座る美歩さんが、ぽつりと呟いた。
「……でも、あの富士山を見たら、なんだか宿題も、委員会も、頑張れる気がしてきた。……私、あの景色を一生忘れないと思う」
「……僕もだよ、美歩さん」
電車が揺れる。
また、彼女の肩が僕に触れる。今度は、美歩さんも避けることをしなかった。
それどころか、彼女は少しだけ僕の方に体重を預けるようにして、静かに目を閉じた。
窓から見える景色が、御殿場の山岳風景から、見慣れた富士市の工場地帯へと変わっていく。
煙突から上がる煙。住宅街の屋根。
僕たちの街。僕たちの日常。
「……佐野くん」
「……何?」
「……二期目の副会長、頑張ってね。私、佐野くんが見てる景色を、一番近くでずっと撮り続けるから」
美歩さんの声は、蝉の声やモーター音にかき消されそうなほど小さかったけれど、僕の胸には、どんな演説よりも強く響いた。
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