第41話 雨の季節
最後まで読んでくださると嬉しいです!
六月に入ると、富士市の街は白く煙るような霧雨に包まれる日が増えた。
あれほど鮮やかだった今宮の茶畑の黄緑色は、雨に濡れてしっとりと落ち着いた深い緑へと変わり、吉永校舎の校庭に咲くアジサイが、日ごとにその青や紫の輪郭を濃くしていく。
「……はぁ。ついに来ちゃったね、この季節」
放課後の理科準備室。窓の外を眺めながら、結衣が机に突っ伏して大きなため息をついた。視線の先には、雨粒が不規則な模様を描く窓ガラス。そしてその手前には、彼女の天敵とも言える『期末テスト範囲表』が無情にも広げられている。
「景色を追いかけるのは最高に楽しいけど、数式と英単語を追いかけるのは……ぶっちゃけ、苦行でしかないよ」
「同感だ。俺の脳内ハードディスクは、もう列車の運用ダイヤと露出設定でパンパンなんだ。歴史の年号を保存する空き容量なんて一バイトも残ってねえよ」
原も、いつもならカメラを構えているはずの手で、重たそうな世界史の教科書をパラパラとめくっている。
僕たちの「探景同好会」にとって、六月は二つの意味で試練の季節だった。一つは、撮影のチャンスを奪う長雨。そしてもう一つは、学生の本分という名の高い壁――一定期テストだ。
「……でも、このテストを乗り越えないと、夏休みの大規模な探景合宿(仮)も許可されないだろうからね。ここは耐え時だよ」
僕は眼鏡を「くいっ」と直し、数学のノートを広げた。
今日の理科準備室は、いつもの作戦会議の場ではない。四人がそれぞれの教材を持ち寄り、沈黙の中でペンを走らせる「合同自習室」と化していた。
雨の音は、不思議と集中力を高めてくれる。
屋根を叩く細かな音。排水溝を流れる水の音。時折、遠くで聞こえる岳南電車の警笛が、水を含んだ空気に溶けて柔らかく響く。
「……佐野くん、ここ……教えてもらってもいいかな?」
隣で黙々とノートに向かっていた美歩さんが、消しゴムのカスを指で払いながら、僕の社会科のノートを覗き込んだ。彼女のペン先が指しているのは、地理の日本地理の部分。中部地方。
「ああ、中部地方はね、大きく分けて長野県あたりの中央高地、静岡県などの東海地方、石川県などの北陸地方にわかれてて、気候とか土地利用、産業もまったく違って……」
教えるために美歩さんの顔が近づく。シャンプーの淡い香りと、雨の湿り気が混ざったような、この季節特有の匂いが鼻をかすめた。彼女の真剣な横顔、少しだけ眉間に寄った皺。ファインダーを覗いている時
と同じ、ひたむきな表情。
「……ほぇー。確かに先生も言ってた気がする」
「そう。鍵となってくるのは日本アルプスという山地が広がっている、この山地が季節風の風の流れを遮ってしまうから、気候が北陸地方と東海地方、その間の中央高地で気候が違うんだよ。」
「社会って……。少しだけだけど、楽しくなってきたかも」
美歩さんは小さく笑い、再びペンを動かし始めた。
原と結衣も、いつの間にか僕たちの会話に触発されたのか、「おい、俺にも英語の構文教えてくれよ」と身を乗り出してくる。
「あ…社会以外はちょっと…」
佐野の得意な教科は社会科、好きな教科も社会科。いわば「社会オタク」である。
一時間ほど集中しただろうか。雨足が少しだけ強まり、窓の外の景色がさらに白く霞んだ。
休憩がてら、結衣がポストに届いていた新しい応募用紙を取り出した。
「ねえ、これ見て。テスト勉強の合間に見つけたんだけど……ちょっと不思議なリクエストなの」
そこには、地図ではなく短い文章だけが綴られていた。
【私の特等席】
場所:雨の日の「緑地公園」。
理由:晴れた日の富士山は見えませんが、雨の日、足元の水たまりの中にだけ、もう一つの逆さの景色が映ります。当たり前かもしれませんが、テスト勉強で疲れた帰り道、その水たまりの中の『逆さまの世界』を見ると、なんだか少しだけ救われた気持ちになるんです。
「……水たまりの中の、逆さまの世界」
美歩さんがその言葉を繰り返した。
僕たちは、顔を見合わせた。
「テスト期間中だからって、僕たちの目が曇っちゃいけないな。……ねえ、みんな。今日の自習はここまでにして、少しだけ寄り道していかないか? ちょうど「緑地公園」なら、帰り道だ」
「乗った! 煮詰まった脳みそには、雨の匂いが一番の特効薬だぜ」
原が待ってましたと言わんばかりに、教科書をカバンに押し込んだ。
「原君たちは、逆方向じゃ…」
「そういうことは、言わない「お」「や」「く」「そ」「く」」
そう美歩に言われた。
緑地公園に到着すると、そこには紫陽花の濃い青に彩られた、静かな公園の風景があった。
アスファルトの凹凸や地面の凹凸には、いくつもの水たまりができている。
僕たちは息を潜めて、その「水たまり」を覗き込んだ。
「……本当だ。……すごい」
結衣が声を上げた。
茶色いアスファルトの上に溜まったわずかな水。その表面には、緑の木、咲き誇る紫陽花の青、そして鉛色の空が、驚くほど鮮明に反転して映り込んでいた。
「晴れた日の富士山は、街のシンボルとしてみんなを見守っているけれど……。雨の日は、こうして足元に『もう一つの街』が生まれるんだね」
美歩さんは、制服の裾が濡れるのも構わずに膝をつき、ローアングルで水たまりにカメラを向けた。
カシャッ。
シャッター音が、雨音の中に吸い込まれていく。
ファインダーの中には、現実の景色と、水面に揺れる虚像の景色。その境界線が曖昧になった、幻想的な世界が広がっていた。
「……テストの点数とか、将来の不安とか。そういう『重たいもの』も、この水たまりの中に一度沈めてしまえば、少しだけ軽くなるような気がするよ」
美歩さんの言葉に、僕も深く頷いた。
僕たちが探しているのは、ただの絶景じゃない。
誰かの心が動いた瞬間。誰かが救われた、その一瞬の光。
4つの傘が水たまりにうつった。
再び傘を差しながら、僕たちはそれぞれのカメラの画面で、今撮ったばかりの「水たまりの街」を確認していた。
「これ、次の号外のメインにしよう。タイトルは『雨降る午後の、逆さまの招待状』なんてどう?」
結衣の提案に、みんなが賛成した。
テスト勉強の重圧、止まない雨、白く霞む富士山。
思い通りにいかないことばかりの六月。
けれど、下ばかり向いて歩いていたからこそ見つけられた景色が、ここにはあった。
「……佐野くん、ありがとう。……明日からのテスト、頑張れそうだよ」
家に帰る間際、美歩さんが僕にだけ聞こえる声で言った。
彼女の瞳は、水たまりに映った紫陽花のように、澄んだ光を宿していた。
「ああ。……明日も、学校で。……まずは英語、頑張ろう」
「うん。……またね!」
待合室を出ると、雨は小降りになっていた。
雲の隙間から、ほんの少しだけ明るい兆しが見える。
明日からテスト勉強も大詰め。それは僕たちにとっての「現実」という名のハードルだ。
けれど、そのハードルを越えた先には、もっと輝く夏の色が待っている。
リュックの中の、湿った参考書と、冷たいカメラ。
その両方の重みを感じながら、僕は眼鏡を「くいっ」と直し、水たまりを踏まないように、一歩ずつ自分の家へと歩き出した。
六月の雨は、まだ止まない。
けれど、僕たちの心の中には、現像を待つ新しい季節の光が、確かに灯っていた。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
別の作品や次の話も是非見てみてください!
面白かったらブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです!




