第39話 幻の現像
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「……佐野くん、起きてる?」
スマートフォンが震えたのは、午前三時三十分。まだ街全体が深い眠りの底に沈んでいる時間だった。枕元で光った画面には、美歩さんからの短いメッセージ。僕は眼镜をかけ直し、すでに着替えて用意してあったリュックを背負った。
家を出ると、五月の夜風は意外なほど冷たく、けれど凛として澄んでいた。街灯だけが等間隔に道を照らし、僕の足音だけが規則正しく響く。
目的地は、JR吉原駅。
数日前、広報委員会の投函ポストに届いた、あの一通の手紙。「始発列車が走り出す直前の、ほんの一瞬だけ空が朝焼けに染まる時間」に、かつてのブルートレインの残像を撮ってほしいという、切実な依頼に応えるためだ。
かつては、この駅は、有人駅つまり駅員さんがいる駅であったが令和のコロナ禍を経て、いつのまにか、終日無人駅となってしまった。
(なんだか、寂しいな。)そんなことを思いながら、貨物もなくなり、人も減った寂しい大きな無人駅の前へとついた。
午前四時五十分、無人のホーム
「……おはよう、佐野くん」
駅の北口、タクシー乗り場の街灯の下に、美歩さんは立っていた。いつものカメラバッグを抱え、少し寒そうに身を縮めている。
どうやら、仕事へ行くお父さんに送ってきてもらったようだ。
「おはよう、美歩さん。……本当に、誰もいないね」
僕たちは無人の改札を通り、TOICAをタッチしてホームへと降りた。
昼間は貨物列車や通勤客で賑わう吉原駅も、この時間は静寂に包まれている。東の方角、沼津へと続くあの真っ直ぐな線路が、闇の中にぼんやりと伸びていた。
(……かつてここを、ブルートレインが……)
僕はホームの端に立ち、眼鏡を「くいっ」と直して、レールの輝きを見つめた。
東京と九州を結んだ、伝説の寝台特急たち。「あさかぜ」「富士」「はやぶさ」。それらが毎夜、この場所を風のように駆け抜けていった。依頼主の祖父が見ていたのは、その栄光の時代の景色だ。
「佐野くん、あっち。……少しずつ、空の色が変わってきた」
美歩さんが指差した東の空。漆黒だった闇が、次第に濃い群青色へと溶け出し、地平線の彼方から、例えようのない、深く、神秘的な紫色*が染み出し始めていた。
「……綺麗。……これが、あの手紙にあった『紫色の空』なんだ」
美歩さんは、震える手でカメラを三脚に固定した。
マジックアワー。夜と朝の境界線にだけ訪れる、刹那の瞬間。その紫色の光は、ホームのコンクリートや、錆びついたレールまでもを、幻想的な色彩に染め上げていく。
「美歩さん、準備はいい? もうすぐきっと来るよ……」
「現代の夜をかける特急が…」
僕が言いかけた、その時だった。
遠く、沼津の方角から、規則正しい、けれど重厚な駆動音が聞こえてきた。それは、各駅停車の普通列車のものとは明らかに違う、力強く、速い音。
「きた」
音は急速に近づいてくる。
闇を切り裂くように、二条の強烈なヘッドライトが見えた。
そして、その光の向こうから現れたのは、僕たちが想像だにしなかった「景」だった。
「……嘘でしょ」
美歩さんが息を呑む。
そこにあったのは、かつての青い客車ではない。
けれど、ベージュと赤の鮮やかなツートンカラーをまとった、現代の寝台特急、最後の寝台特急——「サンライズ瀬戸・出雲」が、遅れを取り戻すかのように、この吉原駅のホームを猛烈なスピードで通過しようとしていたのだ。
「美歩さん、撮って! 今!」
僕の声とほぼ同時に、美歩さんのカメラが連続してシャッター音を刻んだ。
カシャカシャカシャカシャ!
日が昇ったばかりの、静まり返ったホーム。
その真ん中を、光の帯となったサンライズが、駆け抜けていく。
窓から漏れる温かな光、高速で流れる車体の曲線。
それは、かつての「ブルートレイン」の記憶を、現代の「サンライズ」という形で、この瞬間に現像したかのような、奇跡的な光景だった。
サンライズが通過したあと、ホームには再び静寂が戻った。
より一層、空の色は、茜色へと変わり始め、本格的な朝が始まろうとしている。
「……撮れた?」
僕は自分の鼓動が早くなっているのを感じながら、美歩さんに歩み寄った。
彼女は、カメラの背面液晶を見つめたまま、しばらく動かなかった。そして、ゆっくりと顔を上げ、僕を見て、涙を溜めた瞳で微笑んだ。
「……うん。……撮れたよ、佐野くん。……私たちの、『銀河』が」
画面の中には、紫色の空を背景に、光の矢となって走るサンライズの姿が、完璧な構図で収められていた。それは、依頼主の祖父が見ていた「過去」と、僕たちが生きる「現在」が、レールの上一つの場所で交差した、最高の「探景」だった。
数日後。吉永校舎の掲示板には、再び『広報富士・号外』が貼り出された。
タイトルは、『僕らの街の、特等席。:記憶を走る、サンライズ。』。
その紙面には、あの朝、美歩さんが撮った奇跡の一枚が、大きくレイアウトされていた。
【第2回特等席:吉原駅の夜明け】
今回ご紹介するのは、場所ではなく、午前五時十分という「時間」です。
誰もいないホームで、空が紫に染まる瞬間。かつてここを走ったブルートレインの記憶を求めて、私たちはその場所へ向かいました。
そこで出会ったのは、現代を走る寝台特急「サンライズ」。
かつての旅人たちが、この真っ直ぐな線路に乗せて走らせた「希望」や「夢」。その残像が、今もこの富士市の夜明けの中に、確かに生きていることを、私たちはこの一枚の写真で証明します。
(依頼主のS様、素敵な『時間』を教えてくださり、ありがとうございました)
「……これ、本当に美歩が撮ったのか? 凄すぎるだろ……」
「サンライズ、そんなものがあるんだ。知らなかった……」
掲示板の前は、前回の今宮の時以上の黒山の人だかりとなった。
写真の持つ圧倒的な力と、そこに添えられた「物語」が、生徒たちの心を激しく揺さぶっているのが分かった。
「……大成功だね、佐野くん」
昼休み、理科準備室に集まった四人。原と結衣も、今回の反響には驚きを隠せない様子だった。
「ああ。委員長も『今回の記事は、学校の枠を超えて、街の広報紙にも載せたいレベルよ』って。……僕たちの『探景』が、誰かの記憶に寄り添えたことが、何より嬉しい」
僕は眼鏡を「くいっ」と直し、机に置かれた号外を見つめた。
隣で、美歩さんが自分のカメラを優しく撫でている。
紫色の夜明け、真っ直ぐな鉄路、そして駆け抜けた光の帯。
あの刹那の瞬間に、僕たちは確かに、「富士市の新しい呼吸」を感じていた。
日常というレールの先に、まだ誰も見たことのない、けれど誰かの心が求めている「景色」が、僕たちを待っている。
「探景同好会」のシャッターチャンスは、これから、もっともっと深くなっていく。
五月の爽やかな風が、準備室の窓から入り込み、新しいプロジェクトの予感を、僕たちのもとへ運んできた。
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