第38話 一枚目!!
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五月も半ばを過ぎると、富士市の空気は一気に夏の色を帯び始める。校庭の隅に咲くツツジは盛りを過ぎ、代わりに瑞々しい若葉が陽光を浴びて輝きを増していた。
吉永校舎の廊下に、一枚の大きな掲示物が貼り出されたのは、火曜日の昼休みのことだった。
『吉永校舎通信・号外:僕らの街の、特等席。』
その中心を飾ったのは、数日前に僕たちが今宮で撮影した一枚の写真だ。幾重にも重なる茶畑の畝が描く緑のグラデーション、その先に冠雪をわずかに残した富士山が凛とそびえ立つ。広報委員長の「体温を感じる」という評価の通り、デジタルでありながらどこかフィルムのような温かみを感じさせる仕上がりになっていた。
「わあ、これすごいきれい……。今宮ってこんなにすごかったっけ?」
「この角度、私の家の裏山から見えるのと一緒だ!」
掲示板の前には、弁当を抱えた生徒たちが次々と足を止める。彼らの視線の先には、美しい写真だけでなく、僕たちが丹念に取材したテキストも添えられていた。
今回の号外のハイライトは、景色の紹介だけではなかった。僕と美歩さんが今宮浅間神社で触れた、あの「かぐや姫」の物語だ。
【歴史の片隅から:今宮浅間神社と「母宮」】
今宮の茶畑の麓に佇む「今宮浅間神社」。江戸時代以前、ここは『母宮』と呼ばれていました。
伝説によれば、富士山へ帰ていったかぐや姫を育てた養母がまつられているとされています。
みなさんも今宮の茶畑とセットで訪ずれてみてはいかがでしょうか?
「……ねえ、佐野くん。見て、みんなすごく真剣に読んでくれてる」
生徒たちの波から少し離れた場所で、美歩さんが僕の袖を軽く引いた。彼女の瞳は、自分の撮った写真や、僕が調べた歴史が誰かの心に届いていることを確かめるように、静かに、けれど熱く揺れていた。
「……そうだね。ただの綺麗な景色が、物語を知ることで『特別な風景』に変わる。僕たちが『探景』でやりたかったことが、ようやく形になり始めた気がするよ」
僕は眼鏡を「くいっ」と直し、掲示板の隅にある「意見・投稿ボックス」に目をやった。そこにはすでに、いくつかの新しい紙切れが投函されているのが見えた。
その日の放課後、僕たちはいつもの理科準備室に集まった。
今日は、運がいいことに生徒会の集まりはないかった、だからこうして集まることができた。
(この時間がいつも楽しみなんだよな…)
テーブルの上には、早くも集まった「第二回・特等席候補」の応募用紙が並んでいる。
「大成功だな、佐野! 委員長も『号外の反響がすごすぎて、本紙の予算も増やせそうよ』って笑ってたぜ」
原が椅子をガタンと鳴らして座り、集まった用紙を一枚ずつめくる。
「結衣の『ポエム』も、意外と女子に受けてたみたいだよ。雰囲気がいいって」
「でしょー! やっぱり感情を乗せないと景色は伝わらないのよ」
結衣がVサインを作って笑う。
そんな賑やかな空気の中、僕は一通の少し変わった応募用紙を手に取った。
それは他のものとは違い、丁寧に封筒に入れられていた。
「……これ、見てくれるかな」
三人が僕の手元に注目する。封筒の中には、古い写真のコピーが一枚と、短い手紙が添えられていた。
【探景同好会の皆様へ】
いつも素敵な写真をありがとうございます。
私が紹介したいのは、場所というより「時間」です。
吉原駅のホームから東に向かう線路の先、始発列車が走り出す直前の、早朝の時間。
私の祖父は、かつてその場所でブルートレインを待っていたそうです。今の私たちには見えない「過去の列車」が、その出来立ての朝の日の光がさす空の中に今も走っているような気がして。
もしよかったら、皆さんの力でその「記憶の景色」を撮ってもらえませんか?
室内が、一瞬だけ静まり返った。
「……早朝の日が昇ったばかりの空。そしてかつてのブルートレイン……」
美歩さんが、その言葉をなぞるように呟く。
「……これは、ハードルが高いな」
原が少し真剣な顔になる。
「ただ行けば撮れる景色じゃない。タイミング、天候、そして……その送り主が感じている『記憶』の解像度。それを俺たちがどう捉えるかだ」
「でも」と、僕は続けた。
「これこそが、僕たちの新しい挑戦になるんじゃないかな。単なる観光スポットの紹介じゃない。誰かの心の中にある『思い出の景色』を、今の富士市の風景の中に重ね合わせる。……探景同好会として、これ以上のテーマはないよ」
会議が終わり、原と結衣が「明日の朝の天気予報チェックしなきゃな!」と言いながら帰路についたあと。
夕暮れの準備室には、僕と美歩さんの二人だけが残った。
「……佐野くん」
窓際で機材を片付けていた美歩さんが、ふと僕を呼んだ。
「……さっきの依頼、なんだか沼津に行った時の話を思い出しちゃった。佐野くんが吉原駅のホームで話してくれた、あの直線のレールの話」
「……そうだね。あの時、美歩さんは『ロマンチックだね』って言ってくれた。……あの時の僕の言葉が、どこかで誰かに届いていたのかもしれない。あるいは、同じことを感じている人が他にもいたんだ」
美歩さんは窓の外、遠くに見える東海道や海の方角を見つめた。
「……私、撮ってみたい。その人が見ている『紫色の空』と、もう走っていない列車の残像。……難しいかもしれないけど、佐野くんとなら撮れる気がする」
「……美歩さん」
「……約束、だよ。次の探景は、まだ誰も起きていない時間の、あの駅のホームで」
彼女が僕に向けて微笑んだ。それは、沼津の海辺で見た笑顔よりも、ずっと深くて、少しだけ大人びた表情だった。
僕は返事の代わりに、自分のカメラのレンズキャップをそっと閉めた。
カチッ、という小さな音が、二人の間の沈黙を優しく肯定する。
家に帰り、僕は自分の部屋のデスクで、再びあの封筒の中の古い写真を見つめていた。
そこには、朝焼けの光を浴びて、電気機関車が、静かに客車を引いて走る特急列車の姿があった。
今の富士市には、もう「あさかぜ」も「富士」も「はやぶさ」も走っていない。
けれど、鉄路は確かに繋がっている。
今宮の茶畑で感じた「母宮」の歴史と同じように、線路の上にも、街の路地裏にも、目には見えないけれど確かに存在する「物語」が幾層にも積み重なっているのだ。
(……明日の予報は、晴れか)
僕はスマートフォンを置き、眼鏡を外して目元を覆った。
瞼の裏には、沼津へ行く朝に美歩さんと待ち合わせた吉原駅の風景が浮かんでいる。
あの時は、ただ彼女に誘われたことが嬉しくて、浮き足立っていた。
けれど今は、違う。
誰かの「想い」を背負い、それをレンズを通して世界に現像する。
その責任感と、言葉にできないほどの高揚感が、僕の胸を静かに、けれど激しく叩いていた。
五月の夜風が、開け放した窓から入り込み、机の上の募集用紙をさらさらと揺らす。
明後日の早朝。
街が眠りから覚める直前の、あの紫色の瞬間に。
僕たちは再び、あの真っ直ぐなレールの前に立つ。
かつての旅人たちが、それぞれの希望や別れを乗せて駆け抜けた、東海道の長い直線。
その先に、僕たちはどんな「新しい景色」を見つけるのだろうか。
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