その29
翌日の放課後。理闘は演劇部が稽古をはじめる頃合いを見計らって小講堂へ急いだ。
財布と身分証明書を兼ねた学園の認証カードを取り戻すためだ。
舞台を彩る大道具や雑多な小物がエントランスに溢れており、大小ベニヤ板やペンキの類が乱雑に置かれてある。先日リサイクルショップでマモルという部員が見繕った瀟洒なソファもあった。
「おう、何か用か」
マモル本人が現れた。
「先日はどうも。あの、お友達のサトシさんはどちらにいますかね」
「演劇部スターの聡志を探してるのか。腐っても役者、あいつも隅に置けないな。さっき休憩に入ったはずだから、ついてこい」
両肩を大きく振りながら男らしい蟹股で小講堂の階段を降りる。ざっと三十人以上の部員がジャージなどの軽装で右往左往している。よく通る声が交錯するので複数のアナウンスを同時に放送されているようだ。
壁際で台本を読み直す役者もいれば、芝居のニュアンスを打ち合わせて半ば討論に発展する役者もいる。ストレッチに余念のない者、壁に向かって延々と発声を確認する者、ひたすら筋トレをこなす者――休憩時間を使って基本研修を反復し、自分に足りない穴を埋めているようだった。
舞台上で一人、咽喉が枯れるほどの大声をあげながら稽古に没頭する女優がいる。
ひときわ目を引く女優は、舞台映えする高身長と美しい容姿に不似合いな野太い声を発して何度も同じ台詞を繰り返した。
理闘は女優を食い入るように見た。芝居をしていなければ、道行く人々の視線を釘付けにする美女なのだろうと思えた。なのに、声一つで、台詞の抑揚で、表情の変化で、腕を挙げるだけでも、役に憑依して禍々しい毒を放っている。
「うちの看板スターだ」
「圧倒されます」
「ロシア劇は鋭さと豪気の中にも気品を醸し出さなければならない。うん。うちの看板スターにしかできないはまり役だ。女優なのに男の部員よりも的確に男役をこなす」
我が子自慢のごとく、満悦の表情で舞台を賞賛する。
舞台袖を横切る人影を捕らえた時、マモルがおーいと声をかけるとひょろ長く華奢な部員が駆け足で寄ってきた。マモルががっしりと豪快に肩を組む。
「サトシだ」
「さ、サトシです」
地味な造作の顔つき。目も鼻も口も各部位が小さく、眼球がきょろきょろと彷徨う落ち着きのなさが顕著だ。役者なので、素がこれでも舞台に立てば別人になりきるのかもしれない。全身を舐めるように見て、爪の先までサトシを観察した。
「サトシさんは役者ですよね」
「はあ。よく疑われます」
サトシは弱弱しく頭を掻いた。マモルが容赦なくバンバンと背中を叩く。
「普段はこんな調子だけどいざ本番になれぱやる男なんだ。いわゆる役に憑かれるとでもいうべきか。主役をはった前回の舞台を見せてやりたいものだ」
「主役ですか!」
「ダブル主演だけど、一応は」
「ちなみにタイトルは?」
サトシではなく代わりにマモルが威風堂々と答えた。
「フロスト×ニクソンだ! 任期中に辞職した唯一の米大統領は知っているだろう。ウォーターゲート事件の張本人に抜擢されたのがサトシ。もう一人の主役であるインタビュアーである人気司会者役は、もちろんうちの看板スターが演じた」
ニクソン。
最近どこかで聞いた気がする。
「今回はロシア劇だと聞きましたが、サトシさんは何役を?」
「ロシア皇帝役だよ。……ま、まいったなあ。新聞部のインタビューはいつも看板スターが受けてるからどう答えていいのかわからない……」
遠慮がちに照れながらも喜びを隠せずに顔を緩める。
理闘は掌をドンと突き出してふるふると首を振る。
「違います。新聞部じゃないです! 私は落とした財布を返してもらいにきただけで」
「財布?」
理闘は落とした財布の日にちと、理闘の認証カードが不正に使用されたコンビニと防犯カメラの映像について順序だてて話した。財布はあっさり返ってきた。
サトシが小心者らしく委縮して頭をさげる。
「急に用入りだったもので申し訳ない。現金だと証拠は残らないけれど、カード使用なら金額がデータに残るから返す時にわかりやすいかな……と……」
コンビニで二人分のアイスクリームを購入したらしい。切り上げ額三百五十円也。財布の中身はカード以外に触れられた形跡がなく、カード使用の料金と謝罪を合わせて現金二千円を上乗せして返還された。
「すぐに返すつもりでクラスまでは調べたけど、稽古が忙しくて。ごめんね」
「いえこちらこそ」
戻らないと諦めていた財布が手の中にある。しかも紙幣が増えた。
「あとこれも良かったら。演劇部の先輩が出演してる映画なんだ……」
サトシが数枚の劇場招待券を差し出した。
他人の金を使用した罪悪感からか、元から薄幸な顔立ちだからか、それとも持ち前の演技力なのか、真剣な謝意を込めて手渡してくる。
理闘はじっとサトシの顔を見上げた。
欠片も面影はないし、絶対に人違いだとわかっているが、やはり気になるので確認だけはしておきたい。理闘は意を決して尋ねた。
「母親はウクライナ出身ですか?」
「え」
サトシが目を丸くした。
大学のカフェを取り仕切る女性であり、スコプツィ教の信者であるアポリナリアに家族について質問した時ぽろりと零していた。サトシ、ヨウコと。
「それは……ロシア皇帝の出自についてかな? ロシア皇帝の母はロシア人だと思い込んでいたよ。勉強不足で悪いね……はは……」
「役じゃなくて」
「サトシのことなら、どこからどう見ても日本人だろ。当然母親も日本人だ。どうしておかしなこと聞くんだ。それが何かあるのか?」
代わりにマモルが答え、若干憤る口調で迫ってくる。争うつもりはない。ただ確認したかっただけだ。
「姉か妹にヨウコという名の女性は?」
「いないけど……」
「おかしなこと聞いてすみませんでした」
理闘は胸を撫でおろし、謝意を込めて軽く会釈した。ロシア劇に携わるサトシではあるがスコプツィとは無関係らしい。
舞台上の看板女優は、こちらが感心するほどの集中と持久力で稽古を続けている。演劇鑑賞の経験に乏しい理闘ですら素晴らしいと感嘆が漏れるほどだった。
「次の舞台のタイトルは何ですか」
「誰もが知っているロシアの有名作品【怪僧ラスプーチン】。うちの看板女優が大柄なラスプーチンを演じる話題性に富んだ意欲作だ! 是非観てくれ!」
マモルが拳を強く握り、興奮に任せて声を力ませた。




