その28
ビルの裏口から外界に出ると、風がなく、生ぬるい夜気がひたすら滞留していた。雨上がり後のような湿気を含む重くじっとりした空気が肌にまとわりつく。
街灯が設置された電柱の下に、二十人を超える薄汚れたミニスカニーソ姿の女の子がわらわらと群れている。憔悴した様子ではあるが、生きて息をしていることが喜ばしく、理闘はほっと胸を撫でおろした。
「ロク!」
上条迅晴が声をあげると、電柱の傍で女の子たちをまとめていた男が手をあげて応答する。ロクは姿勢が良かった。まっすぐ伸びた背筋と足腰のバランスが絶妙なのか、歩行時に頭部がぶれない。美しい歩行を意識するモデルのような人間だ。
「おかしなところで会う」
「何してんだここで」
「君こそ服はどうした。それにとても黄色い」
「これはまあ」
迅晴がごにょごにょと誤魔化す。
ロクの目がウイッグネットをかぶせた鮎川儷に止まり、食い入るように凝視する。初対面の人間から見ても、途轍もない違和感があるのだろう。当の鮎川儷は不愉快そうにロクの頭から足先まで不躾に眺めたあと、プイと顔を背けた。
「あ~もう、いい加減、それ取りなさいよ」
鮎川儷の頭からネットを剥ぎ取り、折り畳んでいたせいで癖のついた長い髪がはらりと落ちる。理闘が手櫛を通し、洋服の乱れを整えてスタイリストの真似事をしたあと、ぽんと背中を押した。
「あんたは女の子のところへ行って」
「嫌です」
「あの子たちは事情がわからずに戸惑ってる。あんたがそれを緩和できるのよ。あんただけが助けてあげられる。何もしなくていいわ。喋らなくてもいい。むしろ喋らないで。何もせず、ただ傍にいてあげて」
「わかりました」
「いいわね。余計な事はしないでよ」
理闘は鮎川儷の薄い胸板を指で突きながらしつこく念を押した。不安だったので付き添いとして近くで監視してみる。彼女たちは自分たちの汚れた恰好と臭いを嫌悪して、儷に近寄るなと注意喚起していたが、儷が頓着せずに、彼女たちの頭をくしゃくしゃと撫でていくので、愛する飼い主に撫でられた猫のように篭絡されていった。
普通のファンサービスが出来たのかと驚き、そして鮎川儷を見直した。
迅晴が理闘とロクを順番に指差して不思議そうに目を細める。
「で、何なん? 新人ちゃんとロクは一緒にいたの。それとも別々に行動してた? でも新人ちゃんと鮎川儷は一緒だったよな。マジでパニックだわ。今世紀最大の厄日みてえな絶望しか味わってねーんだけど」
「私のことはいいとして」
理闘がまあまあと手で場を制す。
上等な身なりのロクを見ながら、理闘は自分の目と脳を疑った。初対面なのにどこかで会った気がする。顔を合わせている。または誰かに似ているのか――。
錯覚や誤認ではない。ここまで目立つ背格好と顔立ちと立ち居振る舞いを忘れるはずがないのに、どこで接触したのか思い出せないのが歯がゆかった。
素知らぬ顔で記憶を探りつつ、ロクを真正面に見据える。
「彼女たちを保護したのはあなた? それとも拉致監禁の犯人かしら?」
「保護だ」
「私は彼女たちを探しにここまでやってきたの。解放してくれてありがとう」
「警察が来る前に逃がさなくてはと、少々急いだ」
「えっ、警察が来るの?」
理闘が素っ頓狂な声で目を見開くと、ロクが苦笑した。
「やられたな。来ないのか」
「私は善良な市民だから、彼女たちと脱出したあとに通報するつもりだったわ。さっそくで悪いけど簡単でもいいからあなたが見知ったことを教えてくれる?」
ロクが顎を撫でながらふむと頷く。
「ボリシェヴィキが鮎川儷を連行する予定だったのに、手違いが起きて、荷台で届いたのは似た服を着た複数の女だった。だから保護した」
「建物内で女の子が取引されてるのは知ってる? それとは別ケースよね?」
「あれはSNSで男を金で漁る【自分を商品として売る者】だ。あれらは担当者が釣ったあと、投薬や施術で去勢してから、耳にピアスをつけてカタログに載せる。取引成立後には外に放ち、野垂れ死にするか誰かに飼われるまで好き勝手に生きるだろう」
「野良猫みたいに言うのね」
ロクがちらりと上条迅晴を一瞥した。何かの合図かと勘ぐって顔色を盗み見たが、迅晴はわざとらしく口笛を吹いてとぼけた
「野良猫と言って差し支えないかもしれない。野良猫を拾い、餌をやり、躾けて、去勢の証にピアスをつけて地上へ戻すのは社会正義だと考えている」
「人身売買の元締めじゃなくて正義?」
理闘は鼻で笑った。
「違う。とは言わないが、誰かが管理した方が安全だといえる。店舗型風俗や出張型風俗には元締めがいる。個人売春よりもシステムが確立しているから客にも女にも安全で都合が良い。だがあそこにいる女たちは――」
ロクが電柱を指して顎を振った。
「商品とは異なる世界の者だからカタログに載せられない」
「彼女たちからスマホは取り上げなかったのね?」
「鮎川儷の捕獲が目的だから、おまけは邪魔でしかなかった。すぐ解放する予定だったから、睡眠薬を投与して隔離していただけで、部屋に鍵はかけておらず不当に自由は奪っていない。飯も用意した。目印のピアスもつけていない」
「どうして鮎川儷が攫われる予定だったの」
「鮎川儷は有名なんだ。カタログに乗れば全世界から取引の声があがる。そういった趣向の連中が集まる日だったから目玉商品として推挙された」
「そこまで……?」
数々の奇怪な言動を頭で反芻する。容姿なら商品価値はあるだろう。しかし世界規模とはスケールは大きすぎる。
ロクは先ほどから無意識にちらちらと鮎川儷とそれを囲む女子たちに目をくれるが、鮎川儷の誘拐を企む悪意や戦意は滲ませていない。何なんだろう。ロクの動きに警戒しつつ、いつでも動けるように手足をリラックスさせておいた。
「鮎川儷を狙った犯人は誰」
「くねくねした女だ」
沖田美瑠か。
誰も近づけない孤高の存在だった鮎川儷が、この春、どういうわけか理闘という外部入学生を気軽に訪ねてきた。理闘にとっては迷惑この上ないが、その実、学園の生徒からすると、途轍もない異例の大事件だったのだとようやく自覚する。
しかも理闘は自分を介して他の女子と鮎川儷に接点を作った。誰の手にも届かない存在だと諦めていた鮎川儷に触れる機会が与えられた!
握手会という有象無象に囲まれたどさくさを絶好機と睨み、即時行動に移したわけだ。
だが沖田美瑠が儷を提供する側なら、カタログを扱う本丸は別に存在することになる。
ロクを雇っている組織は何者だ。
この建物の所有者は?
理闘は別の角度からも質問した。
「シャンラングループがこの建物を取り仕切っているの?」
「これはこれはよくご存じだ」
ロクがかっと目を見開き、初めて顔を崩した。笑っているらしかった。
「天和とかいう人の会社でしょ。ペットフードだっけ。そうよね」
改めて迅晴に確認をとる。
「そそ。つか、新人ちゃんが喋ったのは佐富さんなのに、天和さんのことまでよく覚えてんね。妬けるぜ」
「お金持ちは忘れないの」
はっと大きく息を吐き、ロクが声を押し殺して笑う。
「病気や事故や老衰で死んだ動物や殺処分が決まった野良を搔き集めて、それらを機械ですり潰し、避妊薬や不妊薬や抗生物質を混合してペットフードとして売る。動物が食べるものに大きな規制はない。どんな肉を混ぜても消費者が口にしないから発覚しないし指導も入らない。いらないものを再利用して稼ぐ。どんな肉でも潰せば同じ」
「ペットフードを隠れ蓑にして、食べ物に混ぜた不妊薬をばらまいてるのもシャンラングループってことでいいのかしら」
「それは逆だ。シャンラングループは支給された薬を混ぜているだけだ。コンドームや製糖会社も同じ――石井機関から卸されたものを使用している」
「石井機関?」
理闘はごくりと息を飲んだ。
「まさか関東軍防疫給水部本部……あの石井軍医? 七三一部隊の?」
「おやおや。女子高生にしては詳しい」
ロクが嘲弄気味に笑う。
「石井は亡くなったはずでしょう」
「でも研究は死なない。非加熱ワクチンの薬害訴訟で世間を騒がせた【芹和の府】から新たな製薬会社に引き継いだ石井機関由来の未承認薬を、スコプツィやシャンランや製糖会社や、他にも多くの国産品を経由して広げている。国のお墨付きだから、とりたててやましいことはない」
それにしてもなぜ不妊薬なのか。
パズルのピースが欠けたように理屈が合わず、胸がざわついて落ち着かない。
「国は少子化を改善すると国民に約束してるわよね?」
「改善してたら結果は必ず好転するものだ。現実を見ろ。現実がすべて物語っている」
「……わざとなの?」
「それはどうかな」
ロクは断定せずに理闘にボールを投げ返した。真剣な言葉を交わす最中でも、ロクの目線がちらちらと電柱に吸い寄せられている。なぜか気が散っている。
爆発物でも仕掛けているのかもしれない。狙いが鮎川儷なら、彼の近くに何かしらの罠が仕掛けられていても不思議はなかった。
「様子を見てくる。ここで待っててくれない?」
トイレを我慢できない子供のようにもじもじと足踏みをする理闘が、上条迅晴の肩を強く掴む。
「ふたりは知り合いなのよね。ちょっと相手してて」
「どこ行くんだよ?」
「気になるから、ちょっとだけ」
夜が深まると視界も狭くなる。なぜロクはファンをひとつの場所に束ねておいたのだろう。解放したあと即時解散させなかった理由があるのか。安全確認を怠った自分を殴り飛ばしたくなる。鮎川儷から頭を撫でられるためにファンたちが一列に整列して、軍人のように待機しているのは奇妙な光景だった。
それにしても――離れない疑問が頭をもたげる。
ロクとはどこで会ったのか。もしくは誰に似ているのか。学園で見たのか、学園にやってくる前か、幼い頃か、いやもっと最近目にした何かが――。
ロクの髪型、目線、首の角度、声トーン、息遣い、無意識の癖、洋服の好み、記憶を絞り出せ。手掛かりがあるはずだ。もう一息で答えが出そうなのに咽喉でつかえては、するりと臓腑へ落ちてゆく。
均整のとれた骨格や身にまとう衣類が気になり、背後を振り返ってロクを確認すると、無関係な上条迅晴が軽薄に手を振るので理闘は呆れかえった。
俯瞰でロクを観察すると不意に閃いた。
薄手のジャケットだ。たぶんデザインが同じなのだ。米国と英国の国旗が混じったようなカラフルなエンブレムに見覚えがある。鮎川儷をトラックから引き摺り出して、コンビニのゴミ箱に捨てたどす黒く腐敗臭の沁みた上着とよく似ていた。
「なんだそっか」
金持ちの間で流行っているブランドかもしれない。
胸のつかえがとれ、理闘は晴れ晴れした気持ちで電柱や周辺付近を調べ、ファンの身体検査を実施した。危険物や不審物が見つからず腹の底から安心した。
小さな背と短い足を駆使して動き回る姿が野良猫を連想させ、ロクは含み笑った。
鮎川儷の乱れた長い髪をさりげなく直す仕草が、家族に似た親密な空気を醸し出している。それでも周囲に群がる鮎川儷のファンが嫉妬したり苛立つ雰囲気は微塵もない。
姉と弟。友達。仲間。
そのどれでもなく――強いて例えるなら、あの二人は上司と部下だろうか。
ロクがきゅっと眉間を寄せた。
「あのふたりはどういう関係なんだ?」
「二人って、鮎川儷と新人ちゃん?」
「彼女は何と言う名前かな」
「……そういや新人ちゃんの名前、聞いたことねーや」
迅晴がにっと笑う。
「今だにロクの本名も知らねーもん。別に困らんからいいけど」
「この前の子猫はきちんと野に返しただろうね?」
「契約から四十八時間後にはお別れだっけ。時間指定通り、次の日には駅前で下ろした。
親と揉めて家出したんだってよ。友達に相談しても解決しねーし、やぶれかぶれで独り立ちして暮らしてこうとしてたらしい。高二だぜ。世知辛いよな。めっちゃ離れた県から来てたから新幹線代も渡したわ」
「律儀だな」
「最初は猫っぽくにゃんにゃんしか鳴かねーじゃん? 可愛かったなあれ。一晩寝たらふつうに喋ったけど、どんな仕組みよ?」
「錠剤の催眠効果が切れただけだろう」
「クスリ怖えぇ」
迅晴がけたけた笑うとロクが瞼を伏せてぽつりと一人ごちた。
「実は嘘をついた。握手会に乗じてボリシェヴィキに襲撃させ、鮎川儷を連れ去ろうと目論んだのは沖田美瑠じゃない。カタログに載せて落札しようと画策したのも沖田美瑠じゃない。部外者がいる手前、さっきは正直に話せなかった。鮎川儷を連れてくるようボリシェヴィキに依頼したのは、世界中の誰よりも鮎川儷を愛する者だ」
「終わったことはどうでもいんじゃね?」
迅晴が組んだ両手を頭上まで引きあげて伸びをする。興味なさげにあくびを連発する迅晴に苦笑し、ロクは腕時計で時刻を確認した。
「十三分後」
「あん?」
「人数分のタクシーを手配した。各自家に戻った方がいい」
「あいつらに口留めしなくていいんか?」
迅晴は立てた親指でくいくいと電柱を示した。
「問題ない。ご令嬢たちが、男の握手会に参加したから攫われましたと正直に言えるなら言えばいい。親の監視が厳しくなり、目障りな邪魔者が減るのは望むところだ」
「何だそら」
「あと十二分」
迅晴がロクの華奢な手首を掴み、まじまじと濃い藍色の腕時計を観察する。
「いい時計だよな。どこで買ったん?」
「世界にひとつしかない特注品だ」
ロクは得意げに胸を張り、少女のような純真さで愛らしくはにかんだ。




