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その27

 沖田美瑠がくねくねと細い腰を揺らし、脇に避けてあった手術用具を乗せた荷台を引き寄せて、メスに手を伸ばす。

「やはり害悪ですわ。切り取るしかありません」

「やめろ馬鹿」

 上条迅晴がじたばたと首根で暴れた時、理闘と目が合った。二秒ほど視線が固定される。理闘の姿に驚いたのか――それとも理闘の存在に気づいていたから、時間稼ぎのために悪態をついていたのか。

 理闘はもう一度室内を確認した。天井に埋められたカメラを壊す武器は窓際で焼かれた石しかない。ビビンバを作る石鍋ほどの大きさで、既に鉄のように赤くなっている。問題はあれを手で持てないことだ。ボリシェヴィキの上着を二枚重ねても革製品だから熱に負けて天井まで投げつけることができない。蹴るのも自殺行為だろう。

 ソファで背を丸める陰鬱な顔をした上条迅晴の彼女に、大ケープが寄り添っていて、慰めるように肩を抱き、彼女の背をさすり、うっうっと嗚咽を漏らしていた。

「ううう」

 大ケープが立ち上がり、自ら頭部のフードを剥ぎ取る。憎しみを込めて奥歯を食いしばり、ううと獣じみた唸り声をあげていた。

 大学のカフェを取り仕切るアポリナリアという名のウクライナ人女性だった。

 アポリナリアが前ごろもを引き千切ってマントを脱ぎ捨てた。髪という髪を前から後ろから集めて一つに束ね、化粧はしておらず、頬骨にそばかすが浮いている。

 たくましい体格は知っていたが、獰猛に威嚇してくる分、更に身体が大きく見えた。

 水着に似た生地で作られたシャツが身体にフィットしている。欧州出身の女性なのに、左官鏝を滑らせたように胸が平らだった。そこでハッとする。――スコプツィ。

 アポリナリアもまた、スコプツィ教の信徒として胸を施術したのかもしれない。

 上条迅晴が寝るストレッチャーまでのっしのっしと重たい一歩を踏みながら、背中に隠した大振りの斧を握りしめる。首など一刀で落とせるぶ厚い刃だった。

「おい待て。待て待て。俺はどんな女も受け入れるし、年も気にしねーけど、あんた、俺のこと好きじゃねえよなあ? なあ聞けよ」

 口ばかり達者で、身動きが取れないのに強がる上条迅晴が痛々しかった。

 理闘は入口を一瞥した。ぼけっと立っている鮎川儷の他に障害物はなく、扉は全開している。鮎川儷の脇まで静かに移動して小声で指示すると無表情のままこくりと頷く。

 正面から戦いを挑むより最小限の動きで奪還するのが最善だろう。

 体操競技の転回動作で前進しながら、脱いだ上着をアポリナリアの頭部に投げて視界を遮断する。着地と同時に身体を入れ替えて上条迅晴が寝ているストレッチャーを入口に向けて蹴り、蹴ったと同時にストレッチャーを追いかけて、一輪の台車を操るように左右バランスを調整する。入口を通過できるか、幅がギリギリかもしれない。

 入口近くで、ストレッチャーを支える車輪のついた足の膝部分を蹴って器用に折りたたみ、マットレスがちょうど縦で通過できるようぶん投げると、がちゃんがちゃんと無様な音を立てて縦に回転した。無事に入り口を抜ける。左通路に鮎川儷の姿を確認し、俊敏にストレッチャーの足を戻して、がらがら音を鳴らしながら力の限り押した。

 鮎川儷にはエレベータを見つけて呼んでおくように指示してあった。

 須藤しえあに案内された隠し通路ではなく、クラブの裏口に通じる業務用エレベータだった。ストレッチャーを突っ込むが縦に入りきらないので再び骨組みを折りたたむ。

 鮎川儷が閉ボタンを押した。

 焦心に襲われているのでやけにゆっくり閉じる気がする。気が急く。早く早く、早く閉じろと念じながら、ボリシェヴィキが落としたナイフで上条迅晴の拘束を解いた。

 上条迅晴が困惑した顔で理闘を見つめる。

「何で、ここに」

「説明はあと。とりあえず……おえ、何なの、あんた、めっちゃ臭い!」

「迅晴くんは臭いです」

 鮎川儷が顔を顰めてわざとらしく鼻をつまむと、閉じかけたエレベータに大きな手が突っ込まれて扉が開いた。追いかけてきたアポリナリアだ。まずい。理闘は奥に立てかけたストレッチャーを破城槌の替わりにして抱え、アポリナリアの腹に突き刺した。腹筋が固く、丈夫な足腰で踏ん張られると押し返せない。

「ふん!」

 アポリナリアが力任せに斧を振り下ろし、風圧と共に何度も何度もストレッチャーに刺さる。刺すというよりも叩くや潰すに近かった。ストレッチャーが邪魔してエレベータが閉じない。このままひしゃげたら閊えて扉が閉じなくなる!

「непростительный!」

 憤怒の炎を滾らせた鬼だった。

 理闘は中腰になってストレッチャーを押した。がつがつと斧で攻撃されているが、あの刃が向けられたら避けられない。

「ふん! ふん!」

「く」

 力じゃ負けない。押し負けてたまるか。しかし重い。アポリナリアの体重は何キロあるのだろう。一気に勝負をかけたい!

 その時、アポリナリアの顔面に黒い塊が張り付いた。掌サイズの蜘蛛のような、厚手のタオルのような柔弱な物体だった。怯んだアポリナリアの力が微かに緩まる。ここだ。理闘は一瞬の隙に勝機を見出してストレッチャーごと押し返した。

 アポリナリアが廊下の壁に背を打ち付けた。

 ストレッチャーの角度を真横に変えて扉の外側でバリケードを作る。急げ急げと閉ボタンを連打した。扉が閉じてもロシア語かウクライナ語の雄たけびが追ってきた。

 ようやく起動を始めたエレベータで一息つくと、今度は鮎川儷の頭から髪が失われたことに気づいた。舞台に出る前の役者のように頭をウイッグネットでまとめていた。

 鮎川儷の額を指差して自然と口がぱくぱく開閉する。

「あた、頭……な、な、ななな、何それ」

「カツラを投げました」

「は」

「完璧ではない僕も美しい」

 鮎川儷がきりりと眉間に力を寄せて顎をひく。

 先ほどアポリナリアの顔に張り付いた黒くデカい物体は鮎川儷が装着していたカツラだと言う。はたと思い出す。

「……あんたがさっき髪切った理由って?」

「暑かったからです」

「あんたのロン毛はカツラだったの?」

「地毛です。今はまとめています。学校から出る前にカツラを装着しました。僕はどうですかと尋ねました。ビーさんは今も一分前も一時間前も大した違いはないと言いました。カツラがカツラだとバレていませんでした。変装の極意です」

「いつもはカツラじゃないわけ?」

「変質者に用心している時に使う作戦です。変質者が驚いた隙をついて逃げます」

「……まあいいわ。助かった。ありがとう」

 はあと息を吐いて脱力する。

 容姿にこだわりのあるナルシストが就寝前みたいな恰好で澄ましているのも冗談めいているが、ほぼ全裸の上条迅晴が黄色い液体に塗装された姿が奇抜すぎた。

 そこで自分の姿を見下ろすと、鮎川儷から借りたシャツに鮎川儷のカツラの残骸が張り付いているし、上条迅晴と接触したせいで、悪戯書きされたように身体のあちこち謎の黄色い液が付着している。何だこれ。何なんだ。まったくおかしな一日だ。

 上条迅晴が裸のまま脱出するわけにはいかないので、ボリシェヴィキから拝借した上着を譲るよう提案した。

「何だこりゃ」

 上条迅晴がグラスファイバーの矢を指で摘まみあげる。上着に引っかかっていたらしい。すいと取り上げて検分してみる。強度がなく、むしろプラスチックより柔らかくて武器として成立していない。

「ジェイレスかと」

「は?」

 理闘は

「ジェンダーレス化に近づく精神薬が塗られてます」

「え、これに? なんで。儷が邪魔なら毒でいいじゃない」

「毒だと死ぬわ。事件になるだろ」

 上条迅晴がけっと毒づいた。

「むかつくよなー、あいつら。勝手なもんだぜ」

「迅晴くんをはじめ幼稚舎から学園に通う生徒は保護者同意の元、精子と卵子を冷凍保存しています。僕も一度だけ仕方なく保存せざるを得ませんでした。学園ではなくうちの病院で保管することを条件に冷凍保存を容認しました」

「俺はたんまり冷凍保存してるぜ」

「さっきも言ってたわね。種の保存のために冷凍保存が義務なの? 私、入学前に知らされてないけど」

「あー」

 迅晴が面倒くさそうに頭を掻いた。

「うちの学校は自由を謳い文句にしてるし、実際自由なんだけど、まあアレだ。財産がある家に生まれると結婚や子孫への相続が絡むのな。自分や身内だけの話じゃ済まねえんだよ。会社の社員、株主、顧客、一般消費者にも関わってくる」

 想像するよりシビアな重責を背負っているらしい。

 全身が黄色く塗られた不誠実な男のくせに。

「ボリシェヴィキは学園の少数派を嫌います。美しい僕は異端とされます。ボリシェヴィキは僕に不妊薬を注入します。不妊薬の量は微量なので検知されにくいです。ただし何度も刺されて蓄積してゆくと効果を見込めます」

 要するに嫉妬か。

「僕への差し入れにも不妊薬を仕込みます。手に入らないのなら誰にも渡さない心理らしいです。またはおかしな媚薬を仕込みます。僕の気を惹きたい心理です。僕に下剤を仕込むのは迅晴くんです」

「やらねーよ」

「学園に来たばかりのビーさんも狙われます」

「そこよ。どうして私まで」

「ビーさんは学園の認証カードを使用しません」

「そうね。お金がもったいないし」

「カードから生活情報を引き出して管理できません。学園は遺伝子の管理も望みます。ビーさんは卵子を冷凍保存していません」

「してないわね。知らなかったもの」

「ビーさんは外部入学なのに代理母に登録していません」

「は」

 理闘は無意識に固まってしまった。聞き間違えかと思った。

「高等部からの外部入学生には免除制度があります。学園の生徒の代理で妊娠出産する契約を結ぶ代わりに学園に関わる授業料他が免除になります。他の生徒または卒業生が人工授精を望むときに代理出産する契約です。他にも偽装結婚、偽装離婚での慰謝料を使った脱税、身代わり出頭など盛り沢山の項目が規約に記載されています」

「免除制度……」

 財布を落とした時に立ち寄った事務局で免除制度への加入を持ち掛けられた気もする。

 いつもなら規約も読まずにおいしい話に飛びつくところだ。危なかった。

 迅晴がおほんと咳払いする。

「自分で言うのも何だけど、金持ちの坊ちゃんがたくさん通ってるわけよ。んで外部入学で玉の輿を狙う女の子もやってくる。俺は歓迎だけどな。下世話な言い方すっと、妊娠を盾に結婚を迫って財産を狙う人間への対策ってとこだ」

「そんな人間がいる? そこまでする?」

「金のためなら何でもやる奴はいるさ」

 耳が痛い。

 自由恋愛だと言い張れば成功率が高く、色恋の真剣さを外側から判定できない以上、一攫千金を獲得する勝負に出る人間は少なくないだろう。浅ましいけれど。

「わかんねえようにいろいろ……学園の食べ物や保健室の薬や洗剤とか……飴玉とかタブレット菓子とか……ちょっとしたモンにでも不妊は仕込まれてる」

「徹底してて怖いわね」

「とはいえ、排泄機能があるからあんま害はない。ただ、俺たちは精度をあげるために利用してる。リスクの問題なんだわ。コンドームも精子が死ぬやつを使ってるぜ。佐富さんからもらう奴が最強だけど」

 迅晴がダンボールごと試供品のコンドームを預かっていたことを思い出す。

「あのコンドームは絶対に妊娠しない。天和さんのペットフードも同じなんだってよ。それ食ってるペットは妊娠しない。腫瘍はできやすくなるらしいけど、それはそれで、ペットが病気になっても手術保険で儲かるつってたな」

 理闘は不意に肌寒いものを感じた。

 薬で、医術で、誰かの意思で、命をコントロールしている。

 放置すれば増えてゆく野良猫を保護して、去勢手術をし、処置済みのマークとして猫の耳をカットして外に戻す、トラップ・ニューター・リターンという活動を聞いたことがある。

 生命は奇跡の産物ではなく人為的な意思決定の下にある。

 結局はスコプツィと大差がない。

 去勢教を邪教だと責めたてる根拠はどこにもない気がした。

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