その25
ホール中央が異様な熱気をごうごうと焚きあげてゆく中、カサカサと虫が這う音がして背後を振り返ると、理闘たちがいる別室の側壁に巨大スクリーンが降りてきた。
単館シアターよりは小さく、配給会社の試写室よりは大きい、ホームシアターとして使うには豪華なスクリーンだった。
プロジェクタから筒状の光が伸びて映像が流れる。録画なのか中継なのかはわからないが、スマホでの視聴に慣れた目にとってその映写画像はひどく粗かった。
黄色く長細いものが目に飛び込んでくる。
真っ先にツタンカーメンの棺桶を連想した。
目を細めて確かめる。黄色いマネキンが横たわっていた。橙と黄が混じっているので金運があがりそうな色なのに、どことなく漂う下品さに理闘は眉をひそめた。
音声が流れてきたので黄色い物体が人間だと認識した。
聞き覚えのある声だ。
それがオレンジ頭の上条迅晴だと気づくまでにかなり時間を要した。誰かと会話している。声の主は姿がない。状況を分析すると、映像は俯瞰で撮られており、上条迅晴は拘束されているらしかった。女の声はどこか舌足らずな喋り方している。
なぜかふたりが痴話喧嘩を始めた。
上条迅晴が浮気を責められて、みみっちい抵抗で否定するので火に油を注ぐ展開に進んでゆく。とうとう浮気が明るみに出たらしい。理闘ですら、彼女ではない長身女性とイチャイチャと歩く姿を見ているのだから露見しないはずがない。
ただ呆れた。
複数の女との関係を指摘されてなじられる姿がみっともなかった。
鮎川儷が何か呟いたが聞き取れない。美女が微笑みながら緩い拍手を始めると、鮎川儷が睨むように眦を鋭くして、再びふたりの間に透明な火花が散った。
鮎川儷の無駄に長いロン毛を束で掴んでつんつんと引っ張る。
「どういうこと。わかるように説明して」
「スコプツィ。кастрация教です」
この世に生誕してから初めて耳にした呪文だった。記憶を探っても手掛かりは得られず、知ったかぶりの術は使えなかった。
「いやごめん。わかるように説明してって言ったよね?」
「スコプツィは信者を去勢するロシアの宗教です。ラジェーニエで思い出しました」
「宗教? 去勢?」
理闘はますます困惑してホールで踊り狂う人々に目を向けた。引き戻すように鮎川儷の指がスクリーンをまっすぐ指差す。
「迅晴くんは去勢されます」
「なんで!」
去勢というからには性器を切り落とされるのだろう。
「というかオレンジ頭のこと知ってんの? 去勢? はあ?」
幼稚舎から通う者同士であれば面識があるのかもしれない。情報過多で混乱している理闘とは裏腹に、すべてを知悉したような達観さで美女が優雅に微笑む。
「人間は生まれてから死ぬまで苦しみ悶えている。欲を消せないからよ。食欲は生命維持に欠かせない。もちろん節制は大事だけれど。睡眠も生命維持に必要。疲労回復と細胞のエラーを修復しなくては。けれど肉欲は必須ではない。人間の三大欲求として提唱されることがあるけれど、とんでもない話だわ」
美女の口元が妖艶に吊り上がる。
「必要以上に肉欲に溺れて振り回される人間が多すぎる。人と人の間にもたらされる軋轢の多くは金銭か肉欲。肉欲がいらぬ争いや犯罪を増やすのよ。人から肉欲を取り除けば世界の平和はぐんと広がる。スコプツィはとても平和的な解決を推奨しているだけ」
「去勢て……え……去勢して生殖機能をなくしたら人類が絶えるじゃないですか。平和じゃないのでは!」
「断種じゃない」
美女が少し瞼を伏せた。
「ロシアの開祖スコプツィは結婚後に子供を誕生させてから施術したけれど、今は精子と卵子を冷凍保存できるから、施術の時期や婚姻の有無は関係ないの。世界中が性器を切除してしまえば肉欲に関わる犯罪も悩みも減るでしょう。どれだけ平和になるか考えてみて。若い卵子を冷凍保存しておけば婚姻の時期や出産の期限に迫られる女性は減る。若い精子を冷凍保存して性器を切除してしまえば、性犯罪の脅威が減るし、男性も理性で制御できない己に葛藤せずに済む。それに身体的な特徴を取り除いて男女の差異を減らせば優位性を競うこともなくなる。性別で区分けされる職業も減り、育児分担の偏りも減る。成人を迎える前後には男女の区別がなくなるのが理想的とされるの」
「結婚しなくても人工授精で人類は存続できる……?」
「何か問題が?」
美女が軽く首を傾げるが、理闘には正解がわからない。倫理、そう倫理的には問題ないのか。しかし病を患えば外科手術で該当部位を切除したり移植したり、投薬処置も行われるし、老齢で意識がないにも関わらず延命され続ける人もいる。
何が違う?
美女の主張に反駁する要素がなかった。ないけれど……。
「ぶ」
鮎川儷がしゅっと右手を挙げた。
「子羊と共に十四万四千の人間がいます。その額には子羊の名とその父の名が書かれてあります。それは母の胎内から独身者に生まれついている者です。それは他から独身者にされた者です。それは天国の為に進んで独身者となった者です。彼らは女性に触れたことのない純潔です。彼らは神と子羊に捧げられる最華として贖われる者です。その額に父なる神の名を記されて小羊と共にシオンの山に立つとされます」
「何いきなり。羊がどうしたのよ」
「千年王国を信じる選ばれし十四万四千人は本来イスラエルの民とも世界に散らばるシオンの民と解釈されます。スコプツィの場合は去勢した十四万四千人こそが復活の日に選ばれる者だと教えます。スコプツィは一七〇〇年代にロシアで勃興した宗教です。教祖の名前はセリワノフです。生殖機能を切除した者を性差を超えた聖人と認定します。男性は睾丸と陰茎を、女性は胸部や小陰核や小陰唇を切除します。スコプツィは全世界の去勢を目指しています」
「全世界の人間を去勢……?」
途方もない話を耳にして眩暈がした。正気の沙汰ではない。ただし享楽や酔狂で行っているのなら更に正気ではないだろう。
スコプツィという名の宗教団体は真剣に去勢を推奨しているという。
乳幼児にワクチンを打つように。
投薬で身体を整えるように。
臓器移植するように。
医術を利用して社会をよりよくコントロールする。
スコプツィは去勢を平和の手段にしているだけに過ぎない。
理闘の頭は混乱しているのに、同席するふたりがどちらも涼しく勝ち誇った顔で睨み合っているのがひどく滑稽な気がした。
「なら、おネエさまも去勢するんですか」
「だとしたら?」
「喪失感はないんでしょうか」
珍しく理闘は物静かに、丁寧な言葉を選んで聞く。これは繊細な問題だからだ。
「病や事故り末に身体を失うことがあります。仕方ない選択です。でもこの宗教は痛みのない健康な身体を切ってしまう。身体に負担がかかるし、心も傷つきます」
「心に傷? いいえ。みんなが同じになれば違和感も消えるでしょう? 成長の証として切除すると考えれば問題ないわ」
「そうでしょうか」
「人は順応する生き物よ。世界が慣れたら疑問も考えずに受け入れる。四つ足で這っていた赤ちゃんが二足歩行するようにね」
「……ですかね」
理闘は頭を覆うぼやけた靄を払うことができない。
納得できそうでできない、手放しに同意できない棘が引っかかっている。
「人間は生まれてから死ぬまでずっと自分の身体を使います。毎日毎時間無意識に使っている身体をなくすのは辛いことではありませんか。それは大事な人だったり、日常だったり、そういうものと同じで、普段意識していない【自然とあるものが欠ける】ことは心を重くしませんか」
「身体の欠損が人としての尊厳を失うとは思わないし、世界中の不幸と犯罪をなくすには代償も惜しまない」
美女は即答したあとに、しばし考える素振りをみせた。
「……でもそうね。喪失感に似た感傷はあるかもしれない。卒業式に似た想いがないとは言えない。とうに忘れたはずの別れた恋人を不意に思い出すような、風が吹くような感傷はあるかも」
その時――スクリーンの画面が切り替わり、上条迅晴ではない別の男が映し出された。
こちらも同じように全身を黄色く塗られており、身体を拘束されている。口枷の代用でタオルを噛ませており、まともな言語を発することが出来ない。頭部の黒く短い剛毛がやたらに目立つので黄色と黒のコントラストが蜂のように見えた。
短躯だが腕や胸の筋肉が盛り上がった男らしい体つきをしている。スポーツや武道の鍛錬ではなく、肉体労働で日々培った筋肉らしかった。
蜂男を見下ろす二体の人影が現れる。
『わが命の種源よ
矜持と煩悶と空惰と色悦におぼるる勿れ
節貞と清貧と忍耐と謙虚をおぼえ給え
嗚呼 父主 おうめん
罪業を浄め赦し 愛や情の道を示したまわらん』
体格の良い者と子供のように小柄な者、どちらもフード付きのマントを纏っていた。
右の者が手にした刃物で蜂男の局部を切り取り、戦利品を誇るように高く掲げた。
ホールからわーっと大きな歓声の渦が沸き起こる。去勢という見世物はホールにも中継されているらしい。
左の者が赤く染まった平らな股間に焼き石を押しあてて傷口を塞ぐ。傷口の肉が焦げて血を気化させてゆく。蜂男の頭ががくりと落ちた。気絶したのかもしれない。
理闘は言葉を失った。
なんと原始的で野蛮な拷問だろう。
蜂男が望んで去勢に応じたのか、強制的に切除されたのか判然としない。ホールは、まるでスポーツの祭典で日本が決勝ゴールの末に優勝したようなお祭り騒ぎが続いている。歓喜を叫びながら狂ったように踊っている。
「これがスコプツィの儀式……?」
「全世界が望めば日常の光景になる」
「おぞましい」
「誤解しないで。教徒なら病院の手術室を使うし、麻酔を使うし、手術器具も使うから傷口も残らないし、痛みも通常の手術と遜色ないけれど、こうした間接的な儀式は旧式で行われるの。見世物だから」
「なんという野蛮な……これは事件ですよ?」
美女がふふと小さく笑う。
「さっきの儀式も社会的には病院で手術したことになるし、しばらく入院措置が必要だと診断されるわ。事件にはならない」
「麻酔なしの去勢は人道的ですかね」
「人権問題?」
「基本的人権の尊重に反しています」
「そうね……。言わんとすることはわかるけれど、でもね、あの手合いを放置すると勝手に子供を増やしてしまうの。劣等遺伝子は他よりも種の保存の本能が強いのかもしれない。普通に暮らしていると、選ばれずに自然淘汰されてしまうから必死なのね」
美女が瞬きもせず理闘をまっすぐ見遣る。
「あの男は五犯の性犯罪者。何度逮捕しても再犯を繰り返す。彼の人権を守れば守るほど無防備で無関係な人間が犠牲になってしまう。別に……法で裁けない悪に鉄槌を下すなんて崇高なスローガンを掲げるわけじゃないの。望むのは平和よ」
「平和……」
理闘は口を噤んだ。
法や科学が万全ではないことは知っている。それらは現在までに正しいと線引きされたもので、時代と共に流動的に変化するものだ。
再びスクリーン画面が切り替わり、無様な喚き声がスピーカーを震わせた。拘束された上条迅晴がわあわあと騒ぎ立てている。
鮎川儷がしゅっと右手を挙げた。
「去勢は麻酔を使わずに刃物で性器を削ぎ落します」
「今見たわよ!」
「迅晴くんが切られます」
「わかってるけど、どこに助けにいけばいいってのよ! ああもう、拉致られた女の子も見つけないといけないのに、このオレンジ頭は何してんの、まったく!」
上条迅晴は激しい剣幕で怒りと罵倒を繰り広げるも、言葉が追いつかないのか呂律が怪しい。身体の自由を奪われているので、頭を振り、唾を飛ばしながら、この世に存在する罵詈雑言を毒に変えて巻き散らしている。
「……見るに堪えない」
美女が頭を抱え、ソファに座り直すとロンググラスに錠剤を注ぎ足してから中身を一気に飲み干し、氷をかりかりと噛んでいる。
「行ってあげて。東の通路から階段を降りた地下よ」
美女が身振り手振りを交えて現場までの道順を教えてくれる。真偽は定かではないが今はこの情報に縋るしかない。ホールを支配する音楽と狂乱の隙間を潜り抜け、三段飛ばしで階段を駆け下り、鉄棒を跨ぐように手すりを乗り越える。




