その24
睡眠導入を誘発する急激に血糖値を高める薬と、それを相殺する炭酸で作られた特別注文だった。覚醒をもたらすオレキシンを抑える顆粒薬も溶いてある。クラブから届く音に合わせて、無意識化に睡眠導入へ働きかける微弱な光がロビーで瞬いていた。
それらを事前に知らされない者には効果がある。
現実として彼氏は、満足した赤子のようにするりと意識を失った。
彼氏を着替えさせてストレッチャーに乗せたあと、身動きできないようサイドレールに腕を固定し、太腿もバンドで固定した。強い拘束は必要ない。彼氏の腕には静脈注射で麻酔処置を行っている。
百倍液に薄めた殺菌消毒剤で全身を清める。
長い鑷子でガーゼを摘み、淡黄色澄明の消毒液を彼氏の身体に塗布した。特異な臭いに慣れるとペンキで悪戯書きをしているみたいで楽しくなってきた。
想定していたよりも時間を持て余したので、腹から足先までの皮膚にまんべんなく塗りたくると現代アートで奇抜な創作ダンスをする金粉まみれの芸術家を思わせた。
準備は整った。
定刻の合図を待つだけだ。
目の前に展開される出来事がどこか遠く起きている夢の出来事に思えて、ソファでぼんやりとストレッチャーを見つめる。
思い出が脳内にちらちらと蘇る。始めは笑っていた。楽しかった。いつどこで何が原因で歯車を違えたのだろう。
「う……うん……?」
彼氏が短いうめき声をこぼした。
腕から麻酔を注入している今、意識が戻るのは想定外だった。説明を聞き洩らしたのかもしれない。
「迅晴くん? 起きたの?」
「なんか俺、ごめ……寝てた?」
「寝てていーんだよ。もう少し寝たら?」
「めっちゃ眠い」
起き上がろうとして拘束ベルトに阻まれた彼氏が、不意に足の小指をぶつけた時の突拍子のない叫びと似た声をあげた。身体が縫い留められている現状に気づいたらしい。
「は。何これ。俺どうなってんの」
「安静にしてたらすぐに終わるから」
「ん? どういうこと?」
立ち上がって傍に付き添う。
「好きだよ、迅晴くん」
「俺も好きだよ」
いつも彼氏にしがみついて歩いた。こうして彼氏を見下ろすのは初めての経験かもしれない。自分を見上げてくる者は少しだけ頼りない存在に感じられる。
「どのくらい好き?」
「……どのくらいってどう言えば正解?」
「なら外国に置き換えたらどれくらい好き?」
彼氏はしばし悩んだのか黙った。
「それは俺が好きな国に例えればいいのか、国力をあてはめればいいのか、どう答えればいいのかわかんねえ」
「国土の広さでいうなら、私のことどれくらい好き?」
「ロシアくらい」
「あっは。日本の四十五倍だ。迅晴くんの愛国心の四十五倍なのかなぁ。愛国心は関係ない? 迅晴くんの気持ちがロシアなら私の大好きは北米と南米を合わせよーっと」
「合算とかずっりー。じゃあ俺は地球で」
いつもの調子で冗舌を返そうとして乾いた笑いしか出なかった。
「てか俺なんで縛られてるの? まあ……そういうことなら断じて嫌だと拒否るわけじゃないけど、それならそうと事前に相談してほしいし、なんか身体が冷えてるし、って、おわ、何だ何だ。俺、真っ黄色に塗られてんぞ! なんこれ。うんこか!」
彼氏が自由になる首を目一杯稼働させて現状確認している。麻酔には気づいておらず、それどころか、麻酔が効いているのかも怪しくなってきた。
「迅晴くん、私、知ってるんだ」
「うん?」
「女の子のこと」
「何て?」
彼氏は身を硬直させて質問返しをした。彼氏がどう切り返すのか、嘘を考えさせる猶予を与えないために矢継ぎ早に唱える。
「さっき見っちゃった。放課後、図書委員の女の子といたよね」
「えっ、あれは別に何でもなくて」
「付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってない。そんなわけないだろ」
彼氏は真顔で否定した。
「浮気してるよね?」
「してねーって」
「浮気じゃないのかぁ。なら二股? 三股? ううん何人と同時進行してるの?」
「してねって言ってんだろ。ちょい待てって。なんでそんな話になってんの。どこからどうなってのか、始めからわかるように話してくんないと」
彼氏の顔には困惑と動揺と焦心が浮かんでいる。しかもそれを隠すために笑顔を作るので目と口で表情がちぐはぐだった。
「今日だけじゃない。ずっと思ってた。迅晴くんは優しいし楽しいし、私のこと好きでいてくれるけど、私だけじゃないんだなって何となく、言葉とか気配とか、何となく」
「……どうしてそんなこと言うんだよ」
彼氏が口唇を噛みしめている。悔しいや悲しいの前に、弁明に詰まっている様子がありありと伝わってきた。
「付き合うって何なのかな。ひとりずつの男女が愛を育むことだと思ってた」
「そ、そうだよ。それで間違ってない」
「迅晴くんは私ひとりじゃ足りない? 満足できなかった? 楽しくなかった? 何がいけなかったの?」
「だからそうじゃなくて。ああ、もう何だこれ。とりあえずこれ外してくれよ」
彼氏が脱力する身体を揺さぶって抵抗したがストレッチャーが金属音を鳴らすだけだ。
「それは外さない」
「何で!」
「迅晴くん、誤魔化さないで正直に話して欲しいの」
「何を! 誤解だって。さっきから聞いてたら全然身に覚えのないことばっかだし、勘違いしてるつーか、そう、誤解があるんだと思う。冷静に話せばわかる。まずこれを外してくんないと……」
「あっは。落ち着いて。暴れると注射針が危ないんじゃないかな?」
「針?」
その時ようやく自分の腕に麻酔針が繋がっていると認識したらしい。しかし両腕が自由にならないのでじたばたともがくしかできない。
「正直に話してほしいんだ」
「だから何を!」
「私がダメだったの? それとも彼女たちが魅力的だから断るのが惜しかった? バレなければいいやって思ってた?」
「何言ってんだ!」
「答えになってないよ迅晴くん。図書委員の女の子に告白されたよね。付き合うってオーケイしたよね? 私がいるのにどうして? それとも私は恋人じゃないの?」
「誤解だ!」
「私が一緒に下校できない時、背の高い美人と親し気に歩いてたでしょ。凄く目立ってたから見てた人がいっぱいいるよ。その人とは私より前から付き合ってたの? 私が浮気相手だった?」
「それも誤解だ!」
「外部入学生のおかっぱの小さい子のこともいつも気にかけてるよね? 迅晴くんから付き合おうって言ったの?」
「だからさ、聞けって」
「元カノとも連絡とってるよね? 実はまだ別れてないとか? 迅晴くんは何人と付き合ってるの。何人に好きだって言ってるの」
「浮気なんてしてねえって!」
彼氏が説明もなしに必死に叫んだ。ふと冷静になる。
「あっは。浮気じゃない。どの女も本気だってやつだ? 結婚してないから浮気は罪にならないし、不貞だと責められるのは理不尽だ。だってどれも真剣に愛していて選べないだけだから。バレなきゃみんなが幸せで問題ないよねってこと?」
彼氏がふうと息を吐いた。
「とりあえず聞く。全部聞いてから説明する」
「私のこと好き?」
「好きだよ」
「どれくらい?」
「世界で一番」
「図書委員の子は?」
「会ったことないし、告白もされてない」
「じゃあ迅晴くんから告白したんだ?」
「してねえ」
「図書委員の子とデートの約束したでしょ?」
「……してない! 絶対にしてない!」
彼氏が勢いある声音で反論する。
「遊園地デートを約束したのを聞いたんだから」
「待て待て待て。やっぱ誤解だって。デートの約束した覚えがねーもん。ああ、誰かに吹き込まれたんじゃね? 違ぇって。それって多分罠だわ。仲良しの俺らを妬んで引っ掻き回したい奴の仕業かもしれないだろ。そんなん耳を貸すなよ」
「誤解?」
「そう誤解。俺の潔白は幾らだって証明できる。浮気なんてしてない」
「迅晴くん、私のこと好き?」
「好きだよ」
ボタンを押せば答える機械みたいに愛を囁き、追及されれば誤解だと繰り返す。図書委員の子とデートという架空の情報でかまをかけてみたら、事実ではないので、ここぞとばかりに胸を張って堂々と否定する。
真相に気づかれていないと高を括って、曖昧な言葉で有耶無耶にしてゆく。
こちらが噂に惑わされて不安になっているだけだと勘違いしている。
ずっとわかっていたのかもしれない。自分で自分を騙しながら、自分は愛されているのだと自己暗示をかけて彼氏を信じる自分を演じていたかもしれない。
「私は迅晴くんが好きだよ」
「俺も好きだぜ」
彼氏が機嫌をとるような甘さを含む声音で鸚鵡返す。
軽んじられている。
こいつなら口先で丸めこめると。
簡単に騙せると。掌で転がせると。上辺で対応してもよい人間だと。
「私ね」
彼氏が作る中途半端な笑みを正視できずに目を逸らす。
「迅晴くんの心をもっと占有してるんだと思ってた。過信だったみたい」
「どういうこと?」
「迅晴くんがモテることも、もともと女の子が好きなのもわかってたし、でも私を大事にしてくれるし、他の子より好きでいてくれる気がしたから言えなかった」
「何を?」
「もっと本気で弁解してくれると思ってた。必死に言い訳したり、逆切れしたりして、どんなにカッコ悪くても、情けなくても、自分の体裁やプライドよりも、私を繋ぎめることを優先してくれるんじゃないかなぁとか……。いつもふざけてるけど、喧嘩したりこんなふうに亀裂が入りそうな時は真剣に私を引きとめるのかな。なりふり構わず繋ぎ止めにくるかなって。本当はずっと迅晴くんの本音が知りたかった。何を見てるのか、何を望んでるのか、私をどう思ってるか。いつどこでも愛の言葉をくれて触れ合ってたから心も近いんだって思いたかった。でもずっとわからなかった。今もわからない」
「ちょ待っ、落ち着けって」
「浮気者は複数の相手を平等に好きなわけではなく、自分自身を愛しているから自分に甘くなる。浮気者は誰も好きじゃない。自分しか好きじゃない」
「は」
「毎日カレーだと焼肉も食べたくなる。焼肉屋に行った時は焼肉が死ぬほどうまくて最高だし、カレー屋ならカレー最高って店でも叫べる」
「カレー?」
「女優も好きだけどアイドルも好き。ロングヘアもいいけどショートカットもいい。甘えてくる女の子もいいけど甘えさせてくれる女の人もいい。よほどひどい容姿じゃない限り、女から告られたら断る選択肢がない」
「なに」
「嘘をつけばつくほどそれに慣れて、罪悪感が減っていって、そのうち嘘をついていることすら意識しなくなり、自分の嘘が誰かを傷つけるとは思わなくなる。浮気癖は病気だから一生治らない。浮気男を許したら次につきあう男にもまた浮気される」
「何それ。一般論てやつ?」
「そう」
「……結局、俺のこと信用してねえの?」
怒りを滲ませた寂しそうな声を吐き捨てる。
弁解する気はない。
疑うお前がおかしい。
こちらを責めてどうにか主導権を自分に移動させようと足掻いている。
ポケットからスマホを出して画面を彼氏の視線に合わせた。
「あっは。迅晴くんは知ってるかな? なのまえちゃんねるって相談サイトがあって、そこに浮気の相談を書き込んだら一日で二万もレスがついたんだ。びっくりしちゃう。今も一位だよ。同じように浮気に苦しんでる人がたくさんいて、浮気者の特徴だとか、自分の経験談とか、たくさん教えてくれた」
「ネット当てにすんな。面白おかしく騒いでるだけだろ。きちんと話せばわかるから」
自然と笑いが込み上げてきて、ふるふると首を振った。
話せばわかる。誤解だ。騙されてる。俺を信用しろ。
彼氏から聞きたいのは現実に起きている自分たちふたりのことなのに、ドラマの他人事みたいに受け流してばかりだ。
浮気がバレても彼女がひとり減るだけ。
手放しても次の彼女がまた現れる。
女は星の数ほどいる。世界の半分は女なのだから。
必死になることじゃない。話せば誤魔化せる。必死になった方が疑われる。下手に否定して尻尾を掴まれるのは得策じゃない。
どうすればうまく切り抜けられるか。
どうすれば自分が悪者になっているこの窮地から反転できるか。
そればかりを考えて目が泳いでいる。
「アドバイスを貰ったんだ。あっは。どこだっけ。栞を挟んでおいたとこ……」
スマホをスクロールして一文を読み上げる。
「読むね。レス……最低だねそいつ。ちんこ切っちゃえ」
彼氏が瞬きを忘れてこちらに焦点を向けた。
「去勢に賛成。下半身に脳があるなら下半身を手術しよう。性欲減退する薬を発明しないとダメだ。男の性欲にうんざりする。性欲に振り回されて可哀想だから切るべき」
「は、何、こわ」
「ここも一ヵ月前から予約しては取り消して、今日もずっと迷ってて、お昼にお弁当を食べてた時も迷ってて……でももう決めた」
「決めたって何を」
彼氏が自分が置かれた状況をようやく理解してきたのか、更に強く身体を捩じる。だが麻酔の効き目が強くなるに連れて反抗の力も風前の灯火に等しい。
「なん……眠……嘘……だろ……」
「あっは。何が嘘なのか私も知りたい」
「誤解だって言ってんのに……俺を信じろよ」
「誤解なら良かった。でももう迅晴くんの何を信じたらいいのかわからない」
ぜんぶ嘘なら良かった。
楽しかったから。
楽しかったのに。
ずっと楽しいままでいたかった。
目を瞑って耳を塞いでいたら楽しいままでいられたのかな。
そんなはずない。
悩んで、疑って、苦しんで、言葉を飲み込んで、笑顔を作って、近づく女を威嚇して、他に負けないよう努力して、とても惨めで、悪夢に魘されて、何をしてる時にもふと頭を過って、永遠に安らぎが訪れることなく、自分が悪いのかもと自分を責めて、反省して、気に入られるよう粉飾して、彼氏を憎らしく思ったり、疲れて疲れて、いっそ投げ出したいのにそれでも離れない自分を詭弁で納得させたり、好きだから仕方ない、傍にいるのは自分なのだからと言い聞かせて、
心に溜まったどす黒い膿が膨らんで今にも破裂しそうだった。
彼氏の閉じた瞼がひくひくと痙攣している。
「あっは。花火大会の浴衣は着れないや」
彼氏の髪の色に合わせて新調した浴衣が黄色だったことを思い出す。
全身に橙色の液体が塗られた彼氏を見つめ、自分の人生なのに、未来へ進む歯車は自分の思い通りに動かないなと苦笑した。




