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その22

 須藤しえあは鮎川儷を過剰に神聖視している気がする。いや――気がする、だけかもしれないと思い直す。鮎川儷がはじめて教室にやってきた時の女子生徒の熱狂や鮎川儷のクラスで味わった敵意の視線と悲鳴、それに理闘への嫉妬に起因する呪いの人形や落書きや生卵攻撃――。

 冷静に考えれば鮎川儷は特別なのかもしれない。瞬く間に大金も稼げる。

 須藤しえあがぴったりと鮎川儷に密着した。

「んふんふ。最高に幸せ。こんなに狭いところで同じ空気を吸ってる。このままずっと一緒にいたい。もうここで一生を終えたい」

「い」

「レイに触れてる。傍にいる。息遣いと体温を感じる。声が近ーい。手足が動いてる。心臓も動いてる。ああなんて綺麗な髪……」

 しえあの指がさらりと鮎川儷の髪を弄んだ。

「レイが好き。世界中にいる鮎川儷ファンの誰よりもあなたを愛してるのはわたし」

「ほ」

「レイが大事なの。好き好き。大好き。世界で一番好き。愛してほしいなんて言わない。付き合ってほしいとも言わない。わたしを見てくれなくてもいい。愛してるの。レイが何をしてもいい。どんな生き方を選ぼうと構わない。いつかレイが誰かを愛しても、わたしはすべてを受け入れる。祝福できる。だから……」

 須藤しえあの潤んだ瞳からぽろりと涙が零れる。

「レイを一番に想っているのはわたしだと一生忘れないで。わたしをずっと覚えていて。レイを愛しているの」

「僕は僕が好きです」

 鮎川儷が毅然と前を向いたまま断言した。

「世界で一番僕を愛しているのは僕です。家族でも友達でも教師でも級友でも信者でも幼馴染でも許婚でも部長でも監督でも駅員でもかかりつけ医でも大臣でもロシア人でもニクソンでも宇宙人でも神様でもない。僕です。あなたではない」

 須藤しえあを引き剝がして、自分の腕を逆の手で撫でている。

「僕は美しい。美しい顔と美しい身体です」

「うん」

「僕の心を理解しているのは僕です。僕が僕を作ります。僕の崇高な心を育てるのは僕です。僕の欲や弱さを克服するのは僕です。それが如何に苦しいことであっても僕はやり遂げます。僕が僕を愛しているからです。僕が僕たらしめて生きることは他の誰にもできない。僕だけが僕を全うできます。僕を一番尊重し、理解し、大切にしているのは僕です。あなたではない」

「そうだけど、でも」

「目を閉じてください」

「えっ」

 意表をつかれた須藤しえあの声が裏返る。鮎川儷が理闘を一瞥した。

「ビーさんもです」

「なんで私まで」

「イメージしてください。ここはエレベータではありません。日本でもありません。貴族が領主を務める欧州の地方都市です」

「具体的にどこの国なの」

「欧州です」

 適当かい。

「僕には前世の記憶があります。その欧州の地方都市は前世の僕が暮らしていた場所です。なだらかな丘があり、澄んだ湖沼があり、豊かな農地に恵まれた財政の潤った土地でした。僕はアヴェルーンが設計した城に住んでいる貴族です」

「貴族ね」

「僕には七人の兄と十一人の姉がいました。四人の弟と二人の妹と二十二人の従兄弟もいました」

「多くない?」

「僕が生まれる前から、次代領主となる後継者は次兄のフフレに決まっていました。長兄のピウロは幼い頃から肺病を患っており、長く生きられないと宣告されていたからです。ピウロは走ることも止められていました。庭をほんの少し駆けただけで翌日には高熱を出してしまいます。ピウロは免疫力が弱く、両親や他の兄弟と顔を合わせるだけで体調を崩してしまう始末です。ピウロは自室で食事をとり、自室で勉強に励み、僅かな使用人としか交流を持てません。部屋以外に行く場所は城に作られた簡易教会くらいです。ピウロは毎日神に祈りました。今日も生きていられる感謝を神に伝え、明日も生きていられるように祈るのです」

 鮎川儷がふうと息を吸う。

「ある日、ピウロが廊下を歩いていると妹のベアトリーゼを見つけました。ベアトリーゼは自分が話しかけることで長兄を困らせたくないと考えて逃げ出します。その時、不幸にもドレスの裾を踏んでしまい、頭を打って、ベアトリーゼは亡くなりました」

「ちょ……死んだ!」

「ピウロはベアトリーゼの遺体を地下室に隠しました。ピウロは死に近い人生を送ってきたというのに死が何かわかりませんでした。ベアトリーゼが再び動き出すように献身的に世話を続けました。何をしてもベアトリーゼは動きません。やがてベアトリーゼの皮膚が溶けていきました。ピウロは諦めてベアトリーゼを荷台に乗せて遺体を湖に捨てました」

「ひどい!」

「ピウロも湖に身を投げて死にました」

「大金持ちなのに悲惨すぎる」

「前世の僕が生まれました。とても美しい僕でした。とにかく顔が整っていました。手足も長く見栄えの良い姿をしていました。五歳の誕生日には国をあげての祝祭が開かれ、毎年恒例の催しに制定されました。僕は国のすべてから愛されました。とくに後継者となる次兄フフレから溺愛されました。やがて次兄から求愛されました。次兄が男の姿を装った女性だと知って驚きました」

 ここでまさかのLGBT。

 しかも実の姉弟という禁忌とは。

「僕は悩みました。苦悩する僕も美しかったです。湖の水面に映る僕も美しかったです。フフレがなぜ男性として育てられたのかとても悩みました。答えが出ないので諦めました。日課にしていた湖の散歩の途中で、前世の僕は彼女に出会いました。運命の人です。とても美しい人でした」

 意外にも異性に興味があるらしい。

「彼女の美しさを例えるなら、そう、僕と同じくらい美しいのです」

「そうきたか」

「僕は一目で彼女に心を奪われました。魂を捧げると決めました。寝ても覚めても考えるのは彼女と僕の美しさばかり。次兄フフレのことはどうでもよくなりました」

「フフレ可哀想」

「僕は毎日湖に通いました。彼女も毎日僕に逢いにやってきました。僕たちは誰にも阻めないほど愛し合っています。僕は星に誓いました。月に誓いました。大空と大地に誓いました。絶対に何があろうとも彼女から離れることはないと誓ったのです」

 鮎川儷がふうと息を吐く。

「彼女とは身分が違いました。僕は貴族です。彼女はどこかの人でした」

「どこかって」

「僕は国中から愛される美しい貴族です。貴族の身分が彼女との縁を邪魔します。誹謗中傷にさらされて炎上しました。だけど僕は屈しませんでした。彼女への想いを貫きました。彼女を愛していたからです。僕たちは愛を誓いあい、互いに抱き合いながら湖に身を沈めました。来世では絶対に離れないと約束しました。そして僕が現世に生まれました。前世の僕と前世の彼女がひとつに混じり合ったのが今の僕です」

「は?」

「前世の僕と愛する彼女がひとつになったのが僕です。二度と引き裂かれることはありません。僕は僕を愛しています。世界で一番僕を愛しているのは僕です」

 鮎川儷がきりりと眉間を寄せて力説する。

 愛する男女の悲恋はありきたりだが、転生して再び出会うとか、手を尽くして相手を探し出すなら話はわかる。ひとつになろうと約束して、本当にひとつの魂とひとつの肉体で生まれたというのか。鮎川儷がナルシストである原因は前世にあったのか。

「僕に必要なのは僕です。僕はあなたを必要としません」

 須藤しえあが鮎川儷の袖にしがみついて、いやいやするように首を振る。

「わたし……わたしは……何も望んでない! 優しくしてくれなくていい。でもお願い、否定しないで。レイが好きなの」

「僕も僕が好きです」

「わたしの方がレイを好きだもん!」

「ペットショップの子犬は容姿で選ばれます。しかし子犬にとって飼い主の顔は重要ではありません。あなたは客と犬どちらですか」

「え……犬……客……?」

「あなたは僕の犬にも僕の飼い主にもならない」

「何言ってるの。待って。私は本当にレイが好きなだけ。好きなの。好き」

 須藤しえあがほろほろと涙を流す姿が憐れを誘い、理闘は適当な慰めを口にした。

「その……ドンマイ」

「違う。本当にわたしは純粋にレイのことを」

「そうムキにならないで。逢ったばかりの人間でしょう? 一時的な熱よ。フラれたから意地になってるだけで」

「フラれてない!」

「そうね。でも鮎川儷の人間性がわかってよかったじゃない。浅い火傷ならいつか傷跡が消えるわ」

「……十年越しなの」

 須藤しえあがきゅっと拳を握りしめる。

「レイが五歳になった画像を見てからずっとレイの成長を追いかけてきたの。ようやく接触して生の声が聞けた」

「五歳から?」

 さすがに気味が悪くなって理闘は顔をしかめた。もはやストーカーじゃないか。

 須藤しえあが強く拳を握りしめて、か弱く鮎川儷の肩を叩く。

「世界で一番わたしが大切に想ってる。誰にも負けない。絶対に絶対にわたしの方が好きなんだから! 絶対に……」

「ぶ」

 鮎川儷がぐいんと首を捻じ曲げて右手を挙げた。感情の宿らない瞳だった。

「傷害罪です。殴られました。現行犯逮捕です」

「どっちかというと監禁罪かストーカー規制法じゃない? 茶番はどうでもいいけど、ここから出る方法を真面目に考えなさいよ」

「わかりました」

 鮎川儷がしえあの手首を掴んで藍色の腕時計を確認したあと、彼女が握っている電子カードキーに掌を差し出す。

「キーをください」

「どうぞ」

 須藤しえあが濡れた瞼を拭いながら素直に渡したので理闘は驚いた。まるで催眠術にかかった人間みたいに無防備すぎる。

 エレベータ扉の境界線でカードを縦に切ると難なく開いた。だが目の前が壁で遮断されている。こんこんと手の甲で叩くと厚みがないことがわかった。押しても効果はないので真横に引くと新鮮な風が吹き込んでくる。

「どいて」

 僅かな隙間に十本の指を突っ込み、全体重を乗せて横に引き寄せる。身体を捩じって隙間から脱出すると、そこは建物を解体する前に室内の内装を解いた殺風景な空間に等しく、剥き出しになった柱と灰色の壁が残されていた。

「八分後」

 エレベータに残った須藤しえあが腕時計を覗いている。涙で重くなった瞼と睫毛と暗い声が彼女の気持ちを表していた。

「今から八分経てば外に繋がる部屋に通じるドアが出てくる。そこから帰るもよし、踏み込んできた警察に保護されるのもよし」

「え、待って!」

 理闘が大声で叫んだ。

「あなたも現場にいたでしょう? あのトラックに乗せられていた女の子たちは握手会に参加してた子かもしれない。連れ去られたのかもしれないの! 助けないと!」

「レイ。好きよ」

 そう言い残し、エレベータが閉じる音と共に須藤しえあが去った。

 ウイインと微弱な機械音がする。足元が振動して横に動いている気もする。

 理闘が呆然と立ち尽くした。

「あんた……なんで……カードキー返したの?」

「脱出しました」

「というか、もっとファンに優しくしなさいよ。好きとか言わなくてもいいから、他にぼんやりした言葉をかけてうまくやってくれないと困るわ」

 疲労のこもった溜息を盛大に吐くと、重苦しい沈黙に支配された。

 謎の建物に放置された不利な状況をどう好転させるか、しばし考えてみるが、須藤しえあが置き土産にしたリミットを待つ他ない。スマホで時間を確認する。握手会のツリーには何度か四文字メッセージが送られてきていた。生存確認ができて安堵した。

 理闘がパンパンと手を叩く。

「ところで次兄のフフレはどうなったの。女だとバレずに領主になれたの?」

「次兄は胸を切除して男として生きました」

 鮎川儷が無表情で頷いた。

「前世で性転換手術! ぶっ飛んでるわね! で、虚弱体質な兄と死んだ妹の話はどこで繋がるわけ?」

「関係ありません」

「関係ないの?」

「ありません」

 鮎川儷が平坦な口調で認めるので、理闘はがら空きの脇腹に拳を叩きこんだ。

「関係ない話は省きなさい! 長いのよ、作り話が!」

「うう……」

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