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その18

 高等部の玄関口が見えてきた。部活へ向かう生徒や帰路につく生徒や待ち合わせする生徒たちで混雑しつつ、呑気な笑声が平和な空気に染めてゆく。

「もー、早く降りてくんない」

 鮎川儷を乱暴に振り落とす。

「演劇部が稽古してる小講堂までは自分で歩いて。行くわよ」

「ビーさん。やぬねめ」

 地べたに腰を落としたままの鮎川儷がしゅっと右手を挙手した。左手にはスマホを握っている。理闘は眉を寄せた。

「あぬてて」

「は?」

「ますけえ」

「何て?」

「なすけね」

 次々と謎の呪文を吐き出すが、それが日本語なのかどうかも怪しい。鮎川儷のスマホがぴこんぴこんと着信音を発しており、それを読んでいるらしかった。画面を覗くと、鮎川儷の裏アカウントではなく、握手会のツリーに呪文が表示されている。

 握手会を楽しみにしているだとか鮎川儷に会えるのが夢みたいだとか、幼稚で表面的なメッセージで埋まっていたツリーが再稼働したと思いきや、嫌がらせにも等しいカタコトが溢れ出した。

「方言かしら。どすえ、みたいな」

「これらに共通するのは四文字であり、四つの母音がa、u、e、eであること。送り主は画面を見ずにフリック入力したか、もしくは意識が朦朧としています」

「は? 何いきなり。どういうこと?」

 鮎川儷が顎を指でさすりながら目を細める。ここまで真剣な顔もできるのかと驚きを隠せなかった。その間にもピコンピコンとメッセージの着信を知らせる音が届く。

「四つの母音を組み合わせて言葉になりそうな候補が幾つかあります。かつてね。なくせえ。まぬけめ。――たすけて」

「助けて?」

 心臓が跳ね上がる。悪戯にしては笑えないメッセージだ。

「何が? 誰が誰に? どうして握手会の連絡ツールで?」

 急展開についていけず、理闘は混乱した。

 スマホをもぎ取って呪文にリプライしてみるが応答がない。

 緊急事態の救助要請なら迷うことなく一一〇番に通報すべきだが、そこまで頭が回らないほどパニックになっているか、国家権力に頼れない事情があるのか、そもそも声を発することができない状況なのか。

 それでも一一〇に信号を送れば足跡を残すことができる。緊急ならば。

「どういうこと……?」

 詳細を探ろうと質問し続けるが送り主の現在地すらわからない。こちらに返信できない状態にあるのならば、一方通行の情報を待つしかないようだ。

「SNSは誰でも参加できるから見知らぬ他人ってこともありうるけど……」

 ピコンと音が鳴る。今度はしっかりとたすけてと書いてあった。

 理闘はごくりと息をのんだ。

「あんたは有耶無耶にするけど、赤い腕章の男たちの正体は何なの。どうして狙われてるの。そうよ。握手会の場所なんて、あんたに興味がなければ知りようがないじゃない。メディアホールは私が無断使用したんだから」

 鮎川儷は地べたに座ったまま理闘を見上げている。

「赤い腕章はボリシェヴィキの証です」

「ボリ……?」

「多数派です。ボリシェヴィキは少数派や否定派を排除する集団です。僕は美しいです。突出して目立つものは排除される対象となり得ます。ボリシェヴィキは非公認のいわば私設の風紀委員です。僕は美しいです。本来ボリシェヴィキはロシア社会民主労働党の多数派で、ロシア革命でプロレタリアを実現させた後に共産党と名を改めました」

 ちょくちょく挿し込まれる自画自賛のせいで説明が頭に入ってこない。

 鮎川儷の目立つ容姿、そして突出して人気があることに不満を募らせて暴力に訴えているのか。思い起こせば、最初に玄関で理闘に絡んできた時も、外部からの入学生という理由だけで絡まれた気がする。風景に馴染まないもの。他とは異なるもの。少数派がとにかく嫌いらしい。

 つまりは逆恨みや嫉妬の念に近いわけだ。

 いじめじゃないか。

「ボリなんとかって腕章の奴らが犯人なのね?」

「わかりません」

 鮎川儷がふるふると首を振った。

「握手会に乱入してきたってことが証拠じゃないの!」

「そうとは言い切れません。先日の、僕の身体の一部を自由にする権利を金で売るアルバイトについてですが」

「握手会って言って」

「ぶ……あの時、僕が襲われたのではなく、逆も然り、僕をお金で買った人々を連れ去ることを目的としている可能性もありえます」

「あんたじゃなくファンを狙ったってこと……? どうして?」

「わかりません」

「学園の生徒はどこぞのご令嬢ばかりだから金目当ての誘拐でもおかしくないか……」

 鮎川儷へのプレゼント配達を注文したファンの一人がミニスカニーソ姿で恥ずかしそうに身を縮めて握手会にも参加していた。同じクラスの女子だ。氏名とプレゼント内容と一緒に連絡先を記録してある。

「ちっ」

 ファンに連絡がつかない。彼女の実家や交友関係がわからない。理闘は深刻な顔で考え込んだ。自分の小遣い稼ぎが深刻な事件に巻き込まれている可能性がある。

「問題はどこから救助サインを出してるのかってことね。早く助けないと。行くわよ」

「ぶ」

 鮎川儷がしゅっと手をあげた。

「僕は行きません。ここまでのすべてが僕をおびき寄せる罠かもしれません」

「そこまで回りくどいことしないでしょ。いいから行くわよ」

「行きません」

 鮎川儷がふるふると首を振った。

「僕は美しい。世界で一番美しい。だけど僕は体力がありません。腕力もありません。根性は嫌いです。痛みには耐えられません。僕が同行しても役に立ちません」

「はあ?」

 理闘は心底呆れかえった顔で腕を組んだ。

「体力や腕力なら私に任せなさい。いいから一緒に来るのよ」

「行きません」

「どうして」

「僕が行っても解決しません。僕は頭脳派です。知性派です。眉目秀麗な人間です。行くだけ無駄です。無駄は嫌いです。僕は行きません」

 その瞬間、理闘のこめかみの血管が切れた。

 子供のように駄々をこねる鮎川儷の長髪を鷲掴みにして立ち上がらせる。引っ張られる頭皮の痛みに抗えず、鮎川儷は無様な操り人形のように腹をくの字に折り曲げた。

「いい? よーく聞きなさい」

 理闘が鮎川儷の耳元で囁き、声の音量をあげてゆく。

「女の子が」

 髪を引き上げてぐいんと顔を上に向かせる。

「あんたに」

 血走った眼球を剝き出しにして、

「助けてって言ってるの」

 鋭利な声を鮎川儷の脳みそに刻みつける。苦痛に歪む鮎川儷の額にデコピンすると、ぴしゃりと乾いた音がした。

「目の前に死にそうな人間がいたら手を差し伸べる。人として当たり前のことだわ。どうしてそれが出来ないの? あんた男でしょ?」

「……男だからは理由になりません」

 鮎川儷が奥歯を噛みしめながら言葉を絞り出す。

「男だから女だから。性別で役割を決めることに意味がありますか。僕は戦えない。殴り合ったことがない。例え行っても人質になるか足手まといになるのが関の山です。僕には何もできない」

「あんた馬鹿なの?」

 理闘はゴミ袋を叩きつけるような乱暴さで鮎川儷を地面に突き飛ばした。

「彼女たちはあんたに助けを求めたのよ。警察でも軍隊でもなく、家族でも学校でもなく、顔しか取り柄のない貧弱なあんたにね。他に縋れるものがなくてあんたに伸ばされた手を払えるの? 崖から落ちそうな人間を引き上げる自信がないからって、崖先にしがみついてる手を靴底で踏みつけられるの?」

「ぶ」

 鮎川儷がキっと睨むように見上げてくる。僅かな炎を宿らせる眼だった。

「顔だけが取り柄ではありません。僕は全身が完璧です。訂正してください」

「そんなことどうでもいいわよ! くだらない!」

「訂正してください。訂正しないと一緒に行きません。絶対に行きません」

 鮎川儷が悔しそうに自分の膝を拳で叩く。理闘は面倒くさそうに溜息をついたあと、目線を合わせるように膝を折り、鮎川儷の両頬を右手だけでむにゅりと押し潰す。

「あんたにやってもらうことはたくさんある。認めるわ。あんたは顔だけじゃなく頭もいい。あんたは優秀な男よ」

 理闘はスマホを本人に返して、部下を労わるようにポンポンと肩を叩いた。


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