その17
放課後。廊下に出るなり丸い眼鏡をかけた女子に引きとめられた。
これまで同じクラスになったことがない子で、記憶違いでなければ、中等部では三年間図書委員をやっていた。卒業式まで一貫して素っ気ない黒ゴムで後ろでひとつにまとめるという地味な恰好を続けた真面目な文学少女だ。
今は束ねた後ろ髪をリボン風のバレッタで飾っている。若干メイクもしているらしく口唇に艶があった。緊張しているのか、マスカラを塗った睫毛が微かに震えている。
「あの、上条君……あの……」
スマホを持つ両手がぶるぶると震えていた。怯える小動物みたいで可愛い。
上条迅晴は自分のスマホを取り出して鷹揚に笑った。
「スマホ持ってんね。いい機会だし俺と連絡先交換しとこ?」
「えっ」
「いいじゃん。連絡先だけ」
連絡先のアプリを開いて、登下校で待ち合わせるカノジョの項目のひとつに「ごめん。ちょい遅れるけど待ってて」と手早くメッセージを送った。
文学少女と連絡先の交換を終えると彼女が眼鏡の奥ではにかんだ。小動物というより羊みたいだなと思った。全体的に丸みを帯びたい体型で、スポーツに縁がなく、食べることが好きそうなインドアタイプ。喋る口の動きが草をもぐもぐ噛んでるみたいだ。
「登録できたか試しに俺んとこ送ってみ」
「うん」
文学少女がフリック入力を間違える度に、すみませんすみませんと謝っている。
白い首。肩から二の腕にかけての肉がむっちりしている。巨乳だ。体型を誤魔化すためにふんわりした服装をしているが、脱いだら、腹がぷにぷにしているに違いない。つまんだら怒られるかもしれないが、指でつつくくらいなら笑って許されるかな。
「送ったよ。届いた?」
「待ってね。お、来たわ。んじゃこっちからも送るっと」
初メッセージは「登録しました。これからよろしくお願いいたします」という硬い文面で、外見から想像するそのまますぎて、つい吹き出した。
文学少女の着信が鳴ると、えっと驚きの声があがり、躊躇いがちに迅晴を見上げてくる。迅晴はからからと笑って、挨拶がてらさっと片手をあげた。
「んじゃ、そういうことで」
「……うん」
下校の準備や放課後スケジュールの相談で騒がしい廊下の雑踏を抜けて、迅晴は非常階段へ足を向けた。文学少女宛に、五分後そこで仕切り直そうとメッセージを送っておいたからだ。
喫煙や不良行為を防ぐために非常階段は施錠されている。その手前にある薄暗いスペースで迅晴は電子タバコをくわえて暇つぶしに蒸気を吐き出した。
「上条君?」
「早いじゃん。友達とか大丈夫?」
「うん、けど……なんか……ええと……」
文学少女が居心地悪そうにもじもじしている。
「ここが落ち着かないなら場所移動しようか?」
「ううん、いいの。えっとね、上条君に話があって」
「はい」
「上条君ってお付き合いしてる女の子……いるよね?」
「いないけど」
迅晴が即答すると文学少女がほっと胸を撫で下ろす。浅い呼吸でも胸が上下するので無意識に視線を奪われてしまう。が、それを気取られないよう真顔を維持した。
文学少女がごくりと息を飲む。
「本当は中等部の卒業式に伝えるつもりだったんだけど勇気がなくて……その……良かったら私とお付き合いしてもらえませんか」
スマホを両手で握りしめて、奥歯を噛みしめながら目を瞑っている。上擦った声が震えていた。きっちり脇を締めているから巨乳が目立つ。Eはあるかな。夏服なら良かったのに。
文学少女が恐る恐る目を開けたので迅晴はにっこりと微笑んだ。
「よろしく」
「……え、それって」
「彼氏彼女でしょ。付き合うことはみんなには知られてもいい感じ? 隠しとく?」
「どっちでも……あ、けど……」
「恥ずかしい? 時期を見て友達に話すでもオープンでも俺はどっちでもいいけど」
「じゃあ良いタイミングで話す」
「了解」
緊張のとけた文学少女がへなへなと床に潰れた。
「緊張した……良かった……」
「良かったって?」
迅晴も目線を合わせるようにその場に屈みこんだ。
「上条君は派手で目立つ男の子だから相手にしてもらえないかもとか、私みたいなのに告白されて嫌がるかなとか、笑われるかもとか……フラれる覚悟で告白したから……」
「派手な男が嫌いなん?」
文学少女が否定するように首を振る。
「オレンジ髪の男子を初めて見たの。ずっと格好いいなあって思ってて、気づけば上条君を見つけちゃう。それに比べて私は地味で目立たないから……世界が違うっていうか、同じ学園にいても遠い場所にいるような感覚があったんだ。私には魅力らしい魅力なんて何もないし……」
清楚顔でその巨乳とかすげー武器じゃん。という本音は胸の内に秘めておく。
「俺が遠い場所にいる存在?」
迅晴は重大な決め台詞を諳んじる為にすうと息を吸った。
「――身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ」
「それは!」
文学少女が戦慄に顔を強張らせ、身構えながら硬直する。
「イヴァン・フョードロウィチ・カラマーゾフ」
「すげ。やっぱ知ってんだ? 図書委員だもんな。知ってっか」
文学少女が目をぱちくりさせているが、意外な共通点を見つけたことに歓喜する光が滲んでいる。
「ドストエフスキーの遺作【カラマーゾフの兄弟】に出てくる、天才で無神論者の次男イヴァンが言った有名な言葉だもの。待って。動悸と眩暈がする。上条君がロシア文学を読むなんて……びっくりして……」
「読んだんじゃなくて演劇の台詞を聞いたつーか何つーか、それはいいとして」
軽く訂正しながらぽりぽりと頭を掻く。
「読書家ってフィクションの男にハマったりするじゃん。キャラに惚れるつーか。それに近いんじゃねーのかな。俺を別次元に感じるから気になる。けど現実の俺を知ったら嫌になるかもしれない」
「そんなことない……!」
文学少女が縋るような必死な目で訴えてくる。軽口のつもりだったので驚いていると、
数秒の沈黙のあとに目をそらしながらとつとつと語りだす。
「こんな話をして馬鹿みたいだけど……聞いてくれる? 物語にはよくあるベタな展開だから言いにくいんだけど」
「はい」
「上条君が捨て猫を世話してるところを見ちゃったの」
「は! 猫! いつ! 最近?」
あまりの動揺で声が裏返った。猫と言われて、咄嗟にロクから受け取った子猫を思い出していた。
「ううん、中等部の頃」
「あ……あー……うん。なるほど」
「中等部の校門を出てすぐの信号を渡ったところにあるお店の横で」
「うん」
「生まれたてだったのかな。こーんなに小さな仔猫にペットフードの缶詰をあげてたの。わざわざ買ってきて偉いなと思って……そんな男子がいるんだなって……」
「オレンジ頭の野郎がしなさそうな行動ってか」
迅晴は自嘲気味にくくくと笑った。
先日と同じく――去年も佐富と天和が学園を訪ねてコンドームとペットフードの試供品を置いていった。タイミングよく捨て猫を見つけたので缶を食べさせた。缶が減って荷物が軽くなったと喜んだ程度のこと。その捨て猫さえ今はどこでどうしていのか全く知らないし、ここで話題が出なければ一生忘れていた些細な出来事だ。
「あれが強く印象に残ってて……あれから私、上条君を見つけるようになったんだ」
「そっか」
上目遣いで見つめてくる文学少女の目が潤んでいる。無意識かもしれないが、腕の位置が絶妙で巨乳が強調されていた。マズイ。俺は見てない見てない。
「て、ことで」
迅晴が立ち上がり、手を振るかわりにスマホをふるふる揺らした。
「何かあったら連絡して。すぐに行くし。遠慮しないで」
「わかった。うん、わかった」
重大な決意をするようにこくこく頷く文学少女が可愛い。
「んじゃあまた」
廊下を曲がってすぐの死角に張り付いて、連絡アプリの彼女項目のひとつにメッセージを打ち込んだ。「今いくぜハニー」。




