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その16

 昼の遺恨はなさそうだとほっと胸を撫でおろすと、鮎川儷がぶつぶつと念仏を唱えているのに気づいた。

「笑えば笑えわらわは笑われる謂われはないわい。旅客機百機客各百人旅客機百機客各百人旅客機百機客各百人。ヨボヨボ病予防病院予防棟在中ヨボヨボ病予防病院予防棟在中ヨボヨボ病予防病院予防棟在中。狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。メール二十二通中二十通メール二十二通中二十通メール二十二通中二十通。腹腔鏡手術出張腹腔鏡手術出張腹腔鏡手術出張。庭裏の瓜売り庭裏の瓜売り庭裏の瓜売り月つきに月みる月は多いけど月見る月はこの月の月。桜咲く桜の山の桜 花咲く桜あり 散る桜あり。うちの釣り瓶は潰れぬ釣り瓶 隣の釣り瓶は潰れる釣り瓶。上加茂の傘屋が紙屋に傘借りて、加茂の帰りに返す唐傘。国家区画区間価格国家区画区間価格国家区画区間価格」

「あーうっさい」

 鮎川儷の脇腹に右膝蹴りをねじ込むと、うっと腹を押さえる。

「ファンでしょ。もっと愛想良く対応しなさいよ。握手するとか」

「嫌です」

「サインするとか」

「嫌です」

「一緒に写真を撮ってあげるとか、あんたの写真をあげるとか……うんそれがいい。あんたの画像を送ってあげよう」

 理闘はスマホを構え、鮎川儷の横顔を保存したあと、須藤しえあに送った。間を置かず、喜びを抑えきれない感謝のメッセージが返信されてくる。よし。画像DLの課金システムを作ろう!

 下校時間のピークに向けて買い物セクションの人通りは増していった。

 理闘が使用する玄関から校門の道なりに高等部の生徒しかいないのに対し、この区画は、小学生から大学生年代がランダムで飲食や買い物を楽しみ、他にも教職員や関係者などの大人たちも和やかに散歩している。ソフトクリームを舐めているカップルもいた。

 天然酵母のパン屋、お洒落なカフェ、和の甘味処、軽食喫茶、高級チョコ専門店、全国チェーン店の丼もの、がっつり定食と、あらゆる食べ物を誘致しているようだ。

 店前に展示されたカップケーキに沖田美瑠の面影が重なった。

「最初から思ってたけど、あんた、コミュニケーション能力死んでない? 友達いるの? 人気だからとか余裕ぶっこいてるとみんな離れていっちゃうんだから。現に握手会関連で作ったSNSの書き込みがめちゃくちゃ減ってるのよ?」

 鮎川儷がぴたりと足を止めて自分のスマホを取り出した。文字制限のあるメッセージを交換してゆくツリー形態のSNSだった。

 鮎川儷がずいと画面を突き出してくる。

「架空の裏アカウントです。書き込んでいる人間は、発信者が僕だと信じています。僕が不特定多数の書き込みを特定できてないと思っています。ちなみに僕はここに何一つ書き込んでいません」

 登録者数やメッセージ発信数が膨大な数字になっている。

 理闘は目を細めて流し読みした。

「あんたが返信してるじゃない」

「登録した文字に反応するBОTです。対応しているのは人工知能です」

「BОT」

 って何だろう。機械に疎い理闘はぼんやり思ったが問い返すのはやめておいた。

 鮎川儷がスマホの画面を指ですいすい操作し、再びずいと突き出す。

「ビーさんの裏アカウントです」

「は?」

「僕の裏アカと相互関係で繋げています」

「どういうこと」

 スマホを乱暴に奪って確認する。アイコンはおかっぱ頭をした女児のアニメイラストで、目元が黒線で塗り潰されている。書き込まれたコメント数が多すぎて、とても最初から追いきれるものではない。

 〇ス。○サイク。チ○。幼稚な罵詈雑言は数えきれず、他にも、憎悪を感じさせる硬い文面や多彩なセンスの皮肉が散見される、まさしく敵意の宝庫だった。

 理闘が茫然と立ち尽くしていると通行人が肩すれすれをぶつかってゆく。すみませんと謝る声さえ失っていた。自分の知らない場所で恨みが堆積され、独自進化を遂げて伝播してゆくことに恐怖を覚えた。

「これ……誰が……」

「その他大勢です」

「何でこんなもの作ったの、あんた……」

「ぶ。ガス抜きです。電子空間で毒を吐いているだけなら実害がありません」

「けどこれ、私宛の書き込みとは限らないのよね?」

「裏アカです。断定できない程度にアイコンと発信文で軽く匂わせています」

 画面上では理闘本人が激情に駆られるまま、罵倒と反論を繰り返しているように見える。関与していない本人でさえ認めてしまう。

 理闘はがくり肩を落とした。またしても通行人が接触ギリギリですれ違ったが、すみませんという会釈もできない。

「納得いかない。どうして私が嫌われてるわけ。心当たりがないわよ」

「それは僕が美しいからです」

 鮎川儷が無表情で理闘を見下ろしている。濁りのない眼差しだった。いつもなら拳で殴ってやるところだが、精神的なダメージに打ちのめされて疲れた溜息しか出てこない。

 理闘は大袈裟な動作で顔面を覆った。

「病みそう。というかなんでこんなもんわざわざ作ったの。嫌がらせ?」

「それは違います。何もしなければ、ぶ……ビーさん本人またはビーさんの連絡先が攻撃されます。ビーさんがこっそり作った裏アカがあれば、それを見つけた人間は探し出した達成感に満足します。ごく私的なものだと思い込み、そこに攻撃を集中します。攻撃にはBОTが相手をします。悪い言葉には悪い言葉で返しています」

 理闘は思わず咳き込んだ。

「はあ? どういうこと? ブスって言われたらブスって言い返してるってこと?」

「正しい報復です」

「煽ってどうすんのよ!」

 理闘は強く強く地団太を踏んだ。行き場のない怒りをどこにぶつければよいかわからなかった。鮎川儷が再びスマホ画面を滑らかにスクロールし、ずいと差し出してくる。

「僕の身体を売るアルバイトの連携ツリーです」

「嫌な言い方しないでくれる。握手会でしょ。というかあんた、握手会で一分間ファンの相手してたじゃない。あの時はきちんと対応してたわけ?」

 鮎川儷は無表情のまま回答を避けた。

「で、握手会のSNSがどうしたって?」

「書き込みが減ったのではありません。アクセス数が減っています」

「同じことじゃない」

 鮎川儷がふるふると首を振った。

「百人がビーさんの自宅に行きます。九十人が扉に落書きして帰ります」

「何それ怖い」

「二人がビーさんの自宅に行きます。二人が落書きします。その違いです」

 どっちにしろ落書きされるのかい。

 鮎川儷の理論が正しいのなら、ファンが自発的にアクセスをやめたことになる。ファンが減ったのだろうか。

 その時――首にぬるりとした液体の感触があり、咄嗟に首を拭う。幸い血ではなかった。安堵したと同時にキッと目に力を込めて周囲に首を巡らせる。

「鳥の糞です」

「違うわよ! 黒いでしょ! 墨汁よ!」

 自分の声にハッとする。墨汁? 

 左右前後、近距離と遠距離に不審者を探したが、呑気に談笑しながら歩く生徒たちばかりだ。

「あの」

 通行人が困惑した面持ちで話しかけてくる。

「背中にペンキがついているようですが……」

「えっ!」

 鮎川儷がどこからか取り出した胸部用の鏡を理闘に持たせた。近くにある店舗の窓に張り付き、鏡を使って、美容室で後頭部を確認する要領で背中を映す。オレンジの液体がべっとりと付着している。ペンキではなく、添削用の赤い墨汁らしかった。

 理闘は屈辱のうめき声を落とした。

 相手が何者かは知らないが、攻撃に反応できなかった自分の無能に苛立つ。刃物で狙われたなら、首をすっぱり切られているではないか。

 行き交う生徒たちの笑顔が不気味だった。会話している声が理闘への中傷に聞こえ、くすくすと嘲笑しているように感じる。理闘はぶんぶんと頭を振った。

 冷静になれ。刃物で命を狙っているわけじゃない。すーはーすーはと大きく呼吸する。落ち着けば、嫌がらせの犯人くらいすぐに捕まえられる。

 気持ちを切り替える直前、こめかみに軽い衝撃を受けた。生卵をぶつけられたようだ。衝撃で割れた外殻から白身がどろりと髪を滑り落ちてゆく。

 飛んできた方向を探るが慌てて逃げる人間はいない。悪意を隠したまま素知らぬ顔で人込みに溶け込んでいるのだろう。いっそ命を狙ってくれたら、その殺気で犯人を見つけられるのに。

「……上等だわ」

 理闘は不敵に笑い、鮎川儷の腕にべったりと絡みついた。全身に巻きつくアナコンダになりきってやる。売られた喧嘩を買ってやる。

「儷。おんぶしなさい」

 返事を聞く前に鮎川儷の背中に飛び乗ると視界が開けて遠くまで見通せた。

 ぎょっとたじろいだ人影が幾つか炙り出る。どんどん嫉妬させてやろう。

「ほら儷。さっさと演劇部に戻るわよ」

 ぺしぺしと頬を叩くと鮎川儷がどっしりと重い一歩を踏み出した。だが二歩目で全身が砂のように崩れ落ちた。体力ゴミすぎるだろう。

「無理です。ビーさんが僕をおんぶしてください」

「何でよ!」

 反発したものの、目的は鮎川儷との距離をゼロにすることだ。理闘が騎馬隊になっても不都合はないと考え直して鮎川儷をおぶる。さすがに長身の高校生男子は重い。

 邪魔くさい荷物を背負いながら小走りで買い物ゾーンを抜ける頃、鮎川儷がすんすんと鼻を鳴らした。

「頭が臭いです」

「は。卵が腐ってたのかしら。あんたは頭が腐ってるけどね」

 これも修行のひとつだと自分に言い聞かせて無心で校舎まで戻る。身長差のバランスが悪くてしっかり捕まっていられないのか、鮎川儷の尻がぶらんぶらんと左右に揺れて収まりが悪い。

 背後で複数女子の悲鳴に似た金切り声が轟いていた。さぞ悔しがっているはずだ。ざまあみろ。理闘はけけけと邪悪に笑った。


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