第20話
沈黙を破ったのは拍手の音だった。
足音が背後の闇から近づいてくる。カンテラの灯りに浮かび上がったのは、白いローブ姿だった。
「いやはや、お見事。素晴らしい推理です、認定官殿」
サーラスだ。背後に侍者を数名、従えている。どうやらこちらの話が終わるまで待っていたらしい。舌打ちして向き直る。
「盗み聞きとは随分、趣味が悪いね」
「ここは声が響くんですよ。あなたこそ、誰かに聞かれるとは思わなかったんですか。私と食事をしている時は、あれほどのらりくらりかわしていたのに」
「夕方まで誰も下りてこないと聞いていたからね」
責めるような視線にアリアドナが首を振る。サーラスは笑った。
「彼女の言うことは正しいですよ。確かにこの坑道に我々が入るのは、朝夕の二回だけです。あまり頻繁に出入りすると、いらぬ関心を引きますからね。ただ今回は非常事態だったんです。何せ〈聖勇者〉様がどこにも見当たらなかったので」
「え?」
あ、とアリアドナが口を押える。
ちょっと待った。ひょっとして、自分がいなくなったあとのことを考えていなかったのか? 隠蔽工作なしで僕の部屋を訪れたのか? 騒ぎになるに決まっているじゃないか。普通、替え玉くらい準備しておくものだろう。助けてもらった手前どうこう言えないが、あまりに初歩的なミスだ。一瞬でも彼女を有能認定した自分が恨めしくなる。
サーラスは口角をもたげた。
「まぁ、でもこんなところにいるとは思いませんでしたよ。部屋にいるはずの認定官殿まで消えていたので、念のためにと思って下りてきたのですが」
「できればそういう用心深さは、別の機会に取っておいてほしかったけどね」
サーラス達に向き直る。やや上目遣いに彼を見つめた。
「で? 僕の仮説はどうだったかな。間違いがあればご指摘いただきたいんだけど」
「いえいえ、まったく見てきたように正確でしたよ。正直、まだあなたという人間を過小評価していました。まさかここまで見抜かれるとは。分かっていたら早々に始末していましたよ、変に懐柔など考えずにね」
細めた目に酷薄な光が浮かぶ。
「ですが我らの神は寛大です。最後にもう一度チャンスを差し上げましょう。投降なさい、そして我らの使命に協力するんです」
「嫌なこった、と言ったら?」
「会話がここで終わるだけです。二度と再開されることはありません」
背後の侍者達の殺気が増す。脅しの類いではなさそうだ。多分同じようなことを何度も経験しているのだろう。とんだ聖職者達だ。
「司祭様!」
アリアドナが横から進み出る。混乱も露わに双眸を見開いていた。
「い、今の話は本当なのが? この〈勇者〉様の血をオラに移したって。血の混ぜ方、確かめるだめに吸血鬼騒ぎ起ごしたって」
「おやおや、これは〈聖勇者〉様」
サーラスは皮肉っぽく口角を歪めた。
「何を驚いているんですか。別に大した話じゃないでしょう? 全ては神のお導きです。我々は偉大なる主のために働いているだけですよ。少々の犠牲は仕方ありません」
「え、え加減にしでぐれ!」
アリアドナの語気が強まった。
「こんなごど続げで神様が喜ぶわげねぇ。人、騙したり傷づげだりしたら地獄さ落ぢるってオラでも知ってら。悪いごど言わね。これ以上、罪重ねるのやめて、今すぐみんな自由にしてぐれ。本物の〈勇者〉様も一緒に」
サーラスは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「少し見ない間に、随分こざかしい口を叩くようになりましたね。そんな台本を渡した覚えはありませんよ。……はて、その男に妙なことを吹きこまれましたか? 馬鹿な娘ですね。彼は己の任務にあなたを利用しているだけですよ」
「だどしても、人、閉じごめだり勝手に血抜いだりしねぇ。悪人度合いで言えば、司祭様達の方がずっと上だ」
「ふむ」
否定する気はないらしい。サーラスは愉快そうに首を傾けた。
「だったらどうすると言うんですか。言葉は力が伴って初めて意味を持ちます。あなたがどれだけ綺麗事をわめこうと、押えつけて縛り上げればそれで終了だ。それともなんですか? 何か起死回生の一手を準備しているとでも?」
「……」
「ないですよね、あるはずがない。さ、操り人形はおとなしく横で待っていなさい。私はそこの認定官殿と話がある」
続くアリアドナの行動は、まったく予想外のものだった。懐から小刀を取り出すと鞘を抜き払う。ぎょっとする間もなく、切っ先が突きつけられた。サーラス達に……ではない。自身の胸元に。
「アリアドナ!?」
彼女は固まるサーラス達を睨みつけた。
「少しでも動いだら、刺す」
押し殺した囁き。
「脅しでね。オラ、本気だ。ミゲルさ達、解放しねぇのならこの場で胸突いて死ぬ」
「やめろ、アリアドナ」
無意味だ。なんの切り札にもならない。
「言っただろう。彼らにとって君は替えのきく部品にすぎない。使えなくなったら別の〈勇者〉を仕立てればいいだけだ。君が死んだところでなんの問題も」
「そうだ! 私は女子供に守られるほどか弱くないぞ。下がっていなさい、この悪漢どもは私、〈勇者〉ヘロニモが颯爽と打ち倒して――」
「だまらっしゃい! また血を抜かれたいのですか」
サーラスの一喝でヘロニモ卿が沈黙する。サーラスは侮蔑も露わにアリアドナを見下ろした。
「認定官殿の言う通りですよ。あなたの命はなんの取引材料にもなりません。結果は変わらず、余計な血が流れるだけです」
「本当に何も変わらねが?」
「はい?」
アリアドナの口元が歪む。どこか凄みさえ感じられる笑みだった。
「聖餐の予定は一ヶ月後まで入ってる。巡礼の人達はもうお金も払ってるはずだ。こごでオラ死んだら皆にどう説明する? オラど同じ条件の娘なんてそうそう見づがらねぇぞ。〈聖勇者〉は自殺したがら、しばらぐお休みにさせでくれで言うのが? それども、あれは偽物だから奇跡の効果には影響ねぇとでも?」
「……」
「なぁ司祭様。一人目の〈聖勇者〉が死んだ時は、まだ噂が広まっていながった。だからぽっと出のオラが取って代わっても問題にならねがった。んだども今はどうだ? フェリシダの〈聖勇者〉と言ったら、外国の人でさえ知ってで、わざわざ見に来るぐらいだ。こんな状態で〈聖勇者〉の交替がでぎるど本気で思ってるのが? ミゲルさんの言葉借りるだば、オラはもうあだがだの象徴になりづづあるんだ。その象徴がコロコロ変わるような教団を、本当にみんな信用するが?」
!
動揺が空気を揺らす。サーラス達は無言だったが、気圧されているのは明らかだった。思ってもいない反撃に動きを止められている。
(へぇ)
片目をすがめてアリアドナの横顔を見る。頬に汗こそ浮かんでいるが、呼吸の乱れはない。唇も震えていなかった。なかなかの胆力だ。普通、危地に臨んでここまで口が回らない。自らの価値を冷静に判断もできないだろう。
(やっぱり有能かな?)
首を傾げて場をうかがう。
ひょっとして本当に解放してもらえるかも、この場を切り抜けられるかもと思った時だった。
「仕方ないですねぇ」
溜息交じりの声は、わずかだが陰惨な空気を孕んでいた。
サーラスが指を鳴らす。彼の背後から重い音が響いてきた。ずりずりと、何かを引きずるような音。
多少予想はしていたが、出現した光景にミゲルは眉をひそめた。一瞬遅れてアリアドナが悲鳴を上げる。
小柄な旅装の人物が地面に転がされていた。ずっと引きずられてきたのだろう、服はところどころ破れて泥塗れになっている。自分で歩けない理由は明白だ。両手足が縛られている。手首に縄がきつく食いこんでいた。
ずりっ。
縄の先端が引かれる。剥き出しの肌が岩壁に擦られた。低い呻きが人影から上がる。
「ディアさ!」
「はーい、動かない動かない」
おどけた声の主は立て襟コートの男性だった。派手に髪を逆立てた道化じみた外観、耳元に光る大振りなアクセサリー。
〈煤かぶり〉のロレンソ。
彼はディアに繋がったロープを持ち上げた。
「これ、絡まらないように引っ張るの結構難しいのよ。すぐあっちこち引っかかってさ。だから余計な真似して気を逸らすと、首のあたり絞めちまうかもだぜ。ぎゅっとな。実際、何回か絞まってたし」
「おめ!」
激昂するアリアドナをミゲルは押しとどめた。深呼吸を一回、ボロ雑巾のようになったディアを見下ろす。
「話が違うんじゃないかな、司祭。丁重にもてなすと言っていなかったっけ?」
「もてなそうと思いましたよ。ただお連れ様はなかなかお転婆でして」
肩をすくめる。
「隙あらば抜け出そうとするんですよ。廊下に出ただけで走り始めますし、窓も何度、叩き割られそうになったことか。なので仕方なく拘束させてもらいました」
「……そう、か」
彼女に与えた最後の指令は『退路を確保』だ。ミゲルが拘束された以上、行動を改める理由はない。自分がどうなるか考えず、ひたすらに脱出を試みたのだろう。その結果が目の前の惨状というわけだ。
沈黙をどうとらえたのか、サーラスは両手を広げた。
「さぁアリアドナ、刀を捨ててください。さもないとこのロレンソが何を始めるか分かりませんよ。自分の仕事にケチをつけられたことで大層頭にきているようですから。先ほども、彼女を焼き尽くさないように大分、注意したんですよ。この男ときたら、滅ぼす村や殺す相手を間違えても報告一つですまそうとしますからね。どれだけ後始末に苦労させられたことか」
「ん、んだどもオラは」
バリッと火花が散った。ディアの身体が海老反りに痙攣する。ロレンソの手に雷がまとわりついていた。
「なぁ、もういいだろう? 司祭様。こういう時は実際にやってみないと伝わらねぇのよ。表の世界にいる連中はさ、頬を張り倒されるその時まで、俺達みたいな人種がいると分からねぇんだよ。腕の一本でも消し炭にしてみろよ。一気に素直になるぜ」
「やめれ!」
アリアドナの声が鋭くなる。だがその顔に先ほどまでの不敵さはなかった。恐怖が手元を震わせている。
「やめでぐれ。でねぇど、この刀で自分を」
「おう、やれやれ」
ロレンソがぐっと顎を出す。紅を引かれた唇を歪めながら、
「俺っちはよぅ、教会の権力争いとか〈聖勇者〉の信用がどうとか、全然興味がねぇんだ。金もらって人を焼ければそれでいい。だからあんたが自分でおっ死ぬならどうぞどうぞだ。だって、そっちの方がとっとと他の連中、ぬっ殺せるだろ? 司祭様が四の五の言う余地もなくなる」
「そ、そんな」
「ほら、やれよ。やれったら、なぁ」
サーラスが苦笑した。
「すみませんねぇ、アリアドナ。こういうどうしようもない男なんですよ。だから諦めなさい。私の指示がまだ彼に届いているうちに」
アリアドナの目から涙があふれる。絶望が彼女の心を突き崩していた。しゃくり上げるように喉を震わし、それでも刀の柄を握り直そうとする。
「――もういいよ」
肩に手を置く。ミゲルは優しく彼女の得物をつかんだ。切っ先を胸元から逸らす。
「潮時だ。交渉は僕らの負けだよ」
「み、ミゲルさ」
「君は本当に勇敢で、高潔で、聡明だ。だけどそれだけじゃどうしようもないんだよ。正論は力に負ける。いとも簡単にね。叩きつけられて、踏みにじられて、息絶える。例外はない」
「……」
「君の協力には感謝する。だけどここまでだ。これ以上は本当に、ただの無駄死にだ」
刀を握る手を剥がす。それで彼女の気力は潰えたようだった。へにゃりと膝を折る。遅れてか細い嗚咽が響き始めた。
背後のヘロニモ卿も呆然としている。なんとも言えない空気が場を満たしていた。
ミゲルは一歩、前に進み出た。
「一つ訊いてもいいかな」
サーラスは辟易したように片眉をもたげた。
「時間稼ぎはうんざりなんですがね」
「時間稼ぎのつもりはないよ。さっきも言った通り、交渉は僕らの負けだ。今更口先三寸でどうにかなるとは思っていない。だからこれは単純に、敗者のつぶやきだ」
ふむと細い首が傾いだ。やや興味深そうになり、
「聞きましょう」
ミゲルは息を吸った。
「あなたは〈聖勇者〉を旗印にして既存権力を打ち倒すと言った。その中には国教会だけじゃなく、僕ら王国の行政機関も含まれてくるだろう。何せ本物の〈勇者〉が見つかったわけだからね。無駄金をかけて他の〈勇者〉を探す理由がない。今までの〈勇者〉行政は、大幅な変革を強いられるだろう」
「かもしれませんね。で?」
「〈勇者〉認定制度がなくなり、ただ一人〈聖勇者〉が残された状態で〈魔王〉が復活したとする。さぁどうする? プエルタ派は全力を挙げて、民草を守ってくれるのかい?」
「何を言うかと思えば」
嘲笑が響いた。
「〈魔王〉! 〈魔王〉ですって、あんなものはお伽噺の道具立てだ。災厄から一体どれほどの月日がたったと思っているんです。我々は進歩して、多くの知恵と技術を手に入れた。次はもっとうまくやれますよ。〈勇者〉なんて得体の知れないものに頼らずともね」
「……」
「そうでなくても、我々の世界には地震や雷、疫病などの災厄があふれているんです。何か起こるかも、だから何もしない、では話になりません。起きたら起きたで対処を考える。〈魔王〉に対しても同じようにするだけです」
ああ。
ミゲルは天井を仰いだ。
ああ、やっぱりそうなるのか。人間という生き物は、本当にどいつもこいつも。
――学ばない。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。火傷して後悔して失念してまた火傷して、その繰り返しだ。
「だめなんだよ、それじゃあ」
「はい?」
「司祭、あなたは朝食の時に訊いたね。僕らが一体どういう職業意識で動いているのかと。役人の性質を考えれば、僕の行動はまったく理解できないと。だから国教会のスパイなんて邪推もしたんだろうけど、まぁ的外れもいいところだ」
「何を」
「僕らの職業意識はね、『防げる災厄を防ぐ』だ。〈魔王〉は現実の脅威だし、それを倒す術もある。だから必死になって〈勇者〉を探す。手を抜けば、自分達もろとも世界を滅ぼされてしまうから――。怖いんだよ、単純に恐怖だけが僕らを突き動かしている。損得勘定なんて考えてる余裕もない。だから」
だから――とミゲルは司祭達を見回した。
「あなた達に〈勇者〉のお守りは任せられない。ご退場いただく」
手の中の小刀を回す。逆手に握り直し、
ぐっと力を込めて、
鎖骨の下に、
突き刺した。
「はぁっ!?」
「み、ミゲルさ!?」
立ち上がりかけたアリアドナを手で制する。肌を切り裂きながらにっこりと笑った。
「ごめんね、アリアドナ。回りくどいことをして巻きこんでしまって。君が伝説の〈勇者〉の生まれ変わりじゃないことは、最初から分かってたんだ」
「え……」
「なぜなら伝説の〈勇者〉は、現在進行形で使命を遂行中だからだ。死ぬことも老いることも許されず、化け物のようになってこの世をさすらっている。滅ぼすことのできない災厄を抱えたままね」
「ミゲルさ」
「お眠り。ここから先は君達が見るようなものじゃない」
首筋をつかむと彼女は呆気なく気を失った。肩越しに振り返れば、ヘロニモ卿も泡を食った様子で奥に引き揚げている。壁にしがみついてぶるぶると震えていた。まぁ、あれなら問題ないだろう。
ざく。
ざく、ざく、ざく。
肌が切り裂かれて血が噴き出す。〈刻印〉が壊れていく。途端、突き上げられるようにディアの身体が跳ね上がった。がくがくと壊れた人形のように震え出す。痙攣。両目を見開いたまま、彼女は無表情に顔を上げた。
「っ!」
ロレンソが電撃を放つ。
だがまばゆい光は瞬時に弾け飛んだ。逸らされるのでも防がれるのでもなく、彼女の身体に触れる寸前に消滅する。
「あぁっ?」
ロレンソが目を剥いた。信じられないように顔を歪めて、
「なんだ、何しやがった、おめぇら」
「ロレンソ、貴様、ふざけてる場合では――」
やりとりに構う理由はない。ガラス玉のようなディアの目を見つめる。
「傾聴。王国〇号特種認定〈勇者〉、ミゲル・イバルラが宣する」
小刀に力を込める。壊れかけた〈刻印〉から聖なる光が噴き出す。
「第三制約、〈従属〉を解除。第四制約〈均衡〉を無効化。第七制約〈守護〉についての付帯事項を変更。半径十バールの領域において、不可侵対象をミゲル・イバルラとアリアドナ、ヘロニモ卿に限定。その他全ての目標を攻撃可能とする。十二階梯までの全霊装使用自由」
「はぁ」
ディアはあくまで気の抜けた口調で応えた。こくりと首を傾げてくる。
「いいんですか? ミゲル様、本当に」
「いいよ、好きにやりなディア……いや」
――〈魔王〉
小刀の切っ先が〈刻印〉の輪を断ち切る。身をもって施した封印を解き放つ。
途端、悪夢があふれた。
腕、腕、腕、腕、腕。
口、口、口、口、口。
鼻、羽、柱、翼、尾、屋根、嘴、窓。
草、鰓、岩、爪、木、雲、鱗、扉、鬣、目。
ルビー、サファイア、銀鉱石、鉄、笛、太鼓、フィドル、触角、槍、煤、炎、盾、骨、粘液、葡萄酒、果実、針、城壁、橋、棺、墓標、鎖、角、歯、車輪、麦の穂、首つりの縄、王冠、水車、玉座、杯、牙、フクロウ、猫、カラス、女、子供、男、赤子、老人、顔、顔、顔、顔!
先ほどまでディアがいたところに混沌が立ち上っていた。何もかもが歪み、重なり、矛盾しあっている。見ている間にも次々と姿を変えて、全貌を捕らえられない。だがその芯には確かに『闇』があった。根源的な悪意と憎悪。生きとし生けるもの、全てに対する破壊の意思。
――絶対悪。
鳴き声の一つで侍者が倒れた。目鼻から血を流して痙攣する。それが合図だったように、悲鳴と逃走の足音が坑道を満たした。
「お、おい待て」
サーラスの静止を聞く者はいない。我先にとこの修羅場から逃げ出していく。
「上等だぁ、おら!」
一歩踏み出してきたのはロレンソだ。吊り上げた双眸が爛々と輝いている。紅の引かれた唇が歪んでいた。
「一度思う存分、魔力を解放してみたいと思ってたんだ。人間なんかすぐ消し炭になっちまうからよぅ。是非受け止めてくれや〈魔王〉様っ!」
広げた両手が光を放つ。まばゆい稲光を往復させて、詠唱を始めかけた時だった。
「は?」
コートの肘から先が消滅していた。真っ黒い切り口が虚空を睨めつけている。破れた袖から粘性の液体が滴っていた。ロレンソは信じられないようにまばたきして、それから泣き笑いの顔になった。
「まいったな、こりゃ。ちっと規格外だ」
風が彼の頭をさらう。続いて二、三回の風切音でロレンソの身体はすっかりなくなってしまった。あとにはただ、くるぶしのところでカットされたブーツが残る。
坑道の奥でいくつもの悲鳴が上がった。逃亡した侍者のものだろう。闇が――邪気が荒れ狂い、動くもの全てを切り刻んでいく。
「ひっ……ひぃっ!」
尻餅をついて後じさったのはサーラスだ。笑顔の仮面が剥ぎ取られている。左右の頬を非対称に引きつらせて、彼は首を振った。
「やめろ、やめさせてくれ! あ、あんた〈勇者〉なんだろ。〈勇者〉がこんな惨いことしていいのか。〈魔王〉の、悪魔の力なんかを使って」
「今更何を言ってるんだい、司祭」
ミゲルは眉尻を下げてサーラスをのぞきこんだ。
「僕は何度もチャンスを与えたよ。なるべく穏便に片づけられるよう、人の手で事件が終わらせられるようにね。それを振り払って剣を抜かせたのは、他でもないあなただろう。申し訳ないけど今の僕にはね、彼女を使うくらいしか荒事の術がないんだ」
全ての魔力と命を封印に使っているから、使い続けているから。
他のことをやっている余裕がない。自分の身を守る方法がない。
「僕はね、なるべく早く次の伝説の〈勇者〉を見つけなきゃいけないんだ。こんな無茶がいつまで続けられるか分からないからね。一分一秒を惜しんで、後継者を探さないといけない。世界と人類が滅ぶ前にね。君らみたいな紛いものに関わっている余裕はないんだ」
「わ、私は」
「さようなら司祭、あなたとの会話は少し面白かった。〈勇者〉なんかに手を出さなければ、もう少し親しくなれたかもしれないけどね。次に生まれ変わったら、何か他の悪事に関わるのをお勧めするよ」
背後で闇が伸び上がる。ぼろぼろと侍者達のパーツを落としながら、照明の明かりを遮る。その影がサーラスに落ちて彼を絶叫させた。
「慈悲を! 神のお慈悲を!」
叫び声は唐突に断ち切られた。津波のような塊がサーラスを呑みこむ。そのまま肉とローブをコンパクトに折り畳みながら奥へと押し流していった。
「悪いね、司祭。多分だけど神様なんていないよ」
ミゲルは肩をすくめた。血に染まった小刀を下ろす。
いたら自分はきっと、こんな地獄を味わっていない。




