第11話
十分ほど走って立ち止まる。
さすがに息が切れていた。心臓がバクバク言っている。両足の筋肉が痙攣気味に震えていた。
ふぅと嘆息して木の幹にもたれかかる。色々情報過多だが今は考えたくない。とにかく回復に専念したかった。一分か、二分か。休んだらすぐ遁走にかかる。ロレンソとの距離は、どれだけ稼いでも稼ぎすぎということはない。
ふっと視線を感じた。顔を上げる。アリアドナが顔面蒼白でこちらを見ていた。唇が凍えたように震えている。ミゲルはつとめて余裕のある笑みを向けた。
「大丈夫かい? 怪我は?」
アリアドナはごくりと唾を飲んだ。
「オラは……ねぇげど」
「そうか、よかった」
「ミゲルさは平気なのが?」
「ん?」
「その……胸んどご」
「ああ」
確かに上着に大穴が空いている。心臓に直撃した感じだ。ぎゅっと破れた生地をつかんで破口を閉じ合わせる。
「思ったほど強い魔法じゃなかったみたいだ。少しヒリヒリするけどね。放っておけば治るだろう」
「ばしだ」
「……え?」
「嘘こぐでねぇ!」
のしかかるようにして押し倒された。不意打ちで跳ね返せない。月明かりを背にアリアドナは眉尻を吊り上げた。
「あんなすごい音がして無事なわげねぇ! ミゲルさ、吹っ飛んでだでねが。見せでみ、オラが手当でするがら」
「いや、本当に大丈夫だから! うわっ! ちょっ!」
想像以上に強い力で服をつかまれる。むんずと強引に上着をはだけられた。
「アリアドナ! やめろ、やめろってば、おおおい!」
肌着がまくり上げられる。素肌に冷気を覚える。瞬間、凍りつくように彼女の腕が止まった。
あああ、もう。
「だからやめろって言ったのに」
溜息交じりにアリアドナを押し返す。彼女は憑きものが落ちたようにぺたんと腰を落とした。
「……な、なんだべ、それ」
視線の先に無数の刻印がある。胸から腹、脇、襟元、二の腕、ミゲルの上半身を埋め尽くすように複雑な紋様が刻まれていた。火傷のあとはない。だがのたくる印はもっと禍々しいものに見えたようだった。
「ミゲルさ、罪人なのが?」
入れ墨と思われているのだろう。確かに王国の牢に入れられた犯罪者は、罪の多寡に応じて印を刻まれる。ミゲルは複雑な笑みを浮かべた。
「違うよ。僕は王国の法を侵したことはない。役人だからね。身辺は綺麗なもんだ。これは昔受けたおまじないのあとだよ。お守りの類いと思ってもらえばいい」
「お守り」
「災いを防いだり、厄を払ったり」
「ああ」
アリアドナの顔に理解の色が浮かんだ。
「それで魔法防いだのが? 鎧どが盾どがみだいに、カーンって」
「ん? ああ」
そういう理解になるのか。少し違うが、否定するのも変に思えてうなずく。アリアドナの緊張が見る間に解けた。肩の力を抜いて、
「んだなぁ、ミゲルさみたいな人が罪人なわげねぇ。すまねがった、失礼なごど言って。オラのごど守ってぐれだのに」
「いや、いいよ。いきなりこんなもの見たら誰でもびっくりする」
罪人なわけない、か。
我知らず苦笑が漏れた。
改めて考えるとどうだろう。確かに王国の法は侵していない。天に恥じるような真似はしていないが。
「……咎を背負っているという意味では似たようなものか」
「え?」
「なんでもない」
首を振って立ち上がる。襟をつかんで、はだけた上着を整える。
「それより移動しよう。あまり一箇所に留まっていたくない」
予定より時間がたっている。身体ももう十分に回復していた。だが移動しかけたミゲルを、アリアドナは慌て気味に引き留めてきた。
「な、なぁ、どこさ行ぐんだ」
「どこって、フェリシダに戻るんだよ」
「ディアさ、どうするんだ。置いでぐのが」
「仕方ないだろう。戻ってゴーレムやロレンソと出くわすわけにもいかないし」
「ん、んだども」
取りすがるような眼差し。
「可哀想でねが。オラ達のごど逃がして、亡骸一つ拾ってもらえねぇなんて、あんまりにも薄情だ。化げで出られでもおがしくね」
「ん?」
化けて出る?
「あんな風に石で押し潰されで、女の子が。気の毒すぎる」
あー。
「えーっと、アリアドナ、彼女なら」
「ただいま戻りましたぁ!」
大音声にびくりとする。団栗眼の女の子が敬礼していた。ライムグリーンの髪はぼさぼさで服もあちこち破れている。だが見た限り大きな怪我はないようだった。放心気味に尻餅をつくアリアドナの前で彼女は口角をもたげた。
「探しましたぁ。いやぁ、ここ暗くて分かりづらいですね。灯りくらいつけて待っていればいいのに」
「ディア、静かに。僕らは隠れているんだよ」
「あ、そうなんですか、失礼しました」
悪びれずに謝るのだから肩の力も抜ける。だが傍らのアリアドナは幽霊でも見たように口をぱくぱくさせた。
「でぃ、ディアさ?」
「はい?」
「本物が? 生ぎでるのが」
「はぁ、まぁこの通りで」
「よ――」
「よ?」
「よがったぁ!」
感極まったように抱きつく。ディアが「ひゃっ」とよろけた。だが構わずにアリアドナは顔を擦りつけた。上着の背中をつかんで乱暴に揺さぶる。
「てっきりゴーレムに殺されだのがで思った! 岩ぶづげられだりして、腕どがもバキバキ折れでだし」
「あー、あれは関節が外れだけです。ねじって入れ直せば元通りですよ。ほら、元気元気」
「わぁっ! 動がしたらだめだ。腫れでるでねぇが!」
「あ? 本当ですねぇー。真っ赤――紫だ、あははは」
頭痛を覚えるやりとりの末にアリアドナが離れる。やや冷静になったのか、目に怪訝な光が宿っていた。
「んだども、ディアさも普通の女の子でねぇのが? あんな化け物とやりあって普通に帰ってぐるなんて。あれが? ミゲルさみだいにおまじないをしてもらってるのが?」
「おまじない?」
「肌さ、入れ墨みんた模様を入れで」
ディアが弾かれたようにミゲルを見る。その目にわずかな驚きを認めて、ミゲルは首を振った。
「アリアドナ、彼女は違うんだ。護衛として剣や体術をたしなんでるだけで、何か特別な加護を受けてるわけじゃない」
「そうなのが?」
「うん、はい、加護は受けてないですねぇ」
微妙な言い回しに気づかなかったのか、アリアドナは「はぁ」と口を開けた。信じられないような目つきになって、
「だったら生身で突っこんでいったってごどが? あんな化け物相手に、まったぐだめらうごどなぐ」
「ええ、まぁ」
ディアは夕餉の献立を答えるように、あっけらかんと言った。
「だって、ディアの仕事はミゲル様の言うことを聞いて、ミゲル様の身をお守りすることですから。死んじゃったらまぁ、その時はその時です」




