第10話
あれだけ思い切ったことをした割には、アリアドナはトロ村までの道をちゃんと把握していなかった。
昏睡中に運ばれたからと言われれば、なるほどそうかとも思えるが、果たして自分達がいなかったらどうするつもりだったのだろう。悪天候の中、飛び出して大怪我をした件といい、あまり後先考えて動いているようには見えない。教会の人々もさぞかし手を焼いていることだろう。
とりあえず、おおよその村の場所を聞いてあたりをつける。ヒラソル地方の地図を見ながら山道を進んでいった。
街道から外れた小路は荒れ果てており、ところどころ山麓に向かって崩れていた。冴え冴えとした月明かりが、陥没孔に影を生みだしている。道幅自体が狭いこともあり、なかなか心臓に悪い。それでも小一時間歩くと他の道が合流して歩き安くなってきた。勾配も緩やかになり周囲に背の高い木々が増えてくる。
「とごろで今更だども、名前、訊いでもええが?」
アリアドナの問いに「ああ」と呻く。そういえば自己紹介がまだだった。先頭を進むディアの背を見ながら答える。
「僕はミゲル、彼女はディア。何度か説明している通り王都の役人だよ。二人で〈勇者〉を探す旅をしている」
「〈勇者〉を、探す」
彼女は言葉を吟味するように舌の上で転がした。しかつめらしく眉根を寄せて、
「なぁミゲルさ、オラ、まだよぐ分がらねんだげど、〈勇者〉でいうのはづまりなんなんだが? 普通の人と何が違うんだが?」
「うーん、まぁ一言で言えば〈魔王〉を倒す力を持つ者ってことだけど」
素人に理解してもらうにはどう伝えればいいか。考えながら言葉を継ぐ。
「まず大前提として、普通の人間は〈魔王〉に太刀打ちできない。単純に大きさや力が違う以前に、まとっている邪気を打ち破れないんだ。どんな武器や魔法でも、触れただけで威力を失い腐り落ちてしまう。百年前の戦いじゃ、一個軍団の突撃さえ呑みこんでしまったらしい」
馬が、歴戦の勇士が、老練な魔術師がなすすべもなく侵されて立ち枯れていったという。恐ろしい光景だったはずだ。生き残った者も大多数が廃人同然になったと聞く。邪気の充満した土地には、しばらく人が立ち入ることもできなかったらしい。
「だけどそんな障壁を突破できる者がいた。体質の問題なのか、魂のありかたなのか分からないけれど、邪気を払いのけて〈魔王〉の本体に触れられる人間がいたんだ。彼らのことを大昔の人々は〈勇者〉と呼んだ」
「……」
「もちろん邪気を払いのけられても、それだけじゃ魔王を倒せない。たとえば僕らはこの山や崖に近づけるけど、突き崩せるかといったら別問題だ。相手の鎧を剥ぎ取った上で、更に傷つける手段が必要になる。それが〈聖具〉だ。代表的なのは〈聖剣〉だけどね、〈勇者〉の持つ破邪の力を吸収・増幅して放出する。で、放たれた力は青白い光と化して目に見えるようになる。所謂『退魔の輝き』ってやつだ」
「んだば教会で渡されだ杖も」
「〈魔王〉を倒すための武器だよ。いや、強化・弱体系の補助装備かもしれないな。そんなに破壊的な力は感じなかったし」
「はぁ」
「つまり〈勇者〉というのは〈魔王〉の邪気を打ち破れる者、且つ〈聖具〉を操れる者というわけだ。副次的な要素で怪我が治りやすかったり、魔法の習得が早かったりするけどね。大きくはその二つ」
ほへぇ。
アリアドナは途方に暮れた様子で天を仰いだ。喉の奥から深い溜息が漏れる。
「全然実感わがね。オラが〈魔王〉ど戦うどが、近所の野良犬相手でも逃げ回ってだのに」
「まぁ〈勇者〉と言っても色々だからね。腕っ節が強いのもいれば、頭のよさで危地を切り抜ける者もいる。そのあたり含めてもう少し君を調べたいんだ。もちろん、トロ村行きの件が落ち着いてからでいいんだけど」
「あまり期待さ応えられるど思わねげどなぁ」
「大丈夫ですよ!」
場違いな歓声が会話を遮る。ディアが目をキラキラさせていた。両手をつかまんばかりに密着して少女を見つめる。
「アリアドナさんはきっとすごい〈勇者〉になります。なんと言っても、と、と、トンデモ〈勇者〉なんですから!」
「トンデモ?」
「あれ、トンチキでしたっけ」
どうやら特種〈勇者〉と言いたいらしい。訂正しようと思ったが、その前にディアが畳みかけた。
「儀式の時、あんなに素敵でしたし。神様の声も聞こえて怪我まで治せるんですから。他のどんな〈勇者〉さんにも負けないですよ! ディアが保証します!」
「いんやぁ」
アリアドナはバツ悪げに頭を掻いた。眉尻を下げて、
「オラはただ、言われだどおり喋ったり動いだりしてただげで、何起ぎでだのが正直よぐ分がってねんだ。気づいだらみんなの怪我や病気治ってだ感じで。神様の声だって、向ごうがら一方的に喋ってだだげで、他の人に何言ってだのがも聞ごえねし」
「そうなのかい?」
てっきり彼女が神に助勢を請うているのかと思っていた。違うのか。本人の意思とは無関係に、しかも一対一でしか託宣が起きないのだとしたら、これはなかなか不便だ。何せ自分と他人に託された言葉が真逆かもしれないのだから、不安にもなるだろう。
だがディアは話の流れを理解しているのかしていないのか、「うんうんうん」とうなずいた。
「よく分からないのにそこまでできちゃうのがアリアドナさんの偉いところですよー。まさに生まれながらの〈勇者〉ですね!」
だから怪我を境に〈勇者〉に目覚めたんだろう、生まれながらじゃない、と突っこみかけたが、アリアドナは満更でもなさそうに「えへへ」と笑った。素の自分を褒められることが少なかったのだろう。「そんなごどねぇよ」と指をもじもじさせる。
「そういうディアさもすごいでねが。オラとそんなに年変わらねぇのに、王都の役人様だなんて」
「ディアはミゲル様に拾っていただいたようなものですからー、大したことないですよ。今だって認定官らしい仕事はほとんでできてませんし」
「はぁ、そうなのが?」
「はい! むしろ何もしていません!」
得意げに言うことではない。間の抜けた応対に、だがディアはかえって緊張が溶けたようだった。好奇心も露わに身を乗り出してくる。
「なぁなぁ、ディアさとミゲルさはどんな関係なんだが? もう夫婦の契り交わしてるんだが?」
ぶっと噴き出しそうになる。咳きこみながらアリアドナを見返した。
「な、なんでそうなる?」
「だって男の人と女の人が二人ぎりで旅してるなんて、絶対間違いの一づや二づ起ごるべ。夜も一緒に寝でるんだべ?」
「まぁ」
あえて宿の部屋を分けたりはしていない。ただ、そのあたりの事情に触れるともっとややこしくなりそうだった。
「仕事上の関係だからね、ちゃんと公私は分けてるよ。業務に支障が出るような真似はしていない」
「そうなのが?」
話を向けられたディアが「んー」と首を傾げる。アヒル口を尖らせて、
「確かに、恋人とか夫婦にはなれませんねー。ディアにとってミゲル様は飼い主ですから」
「飼い主!?」
「あれ? 違いましたっけ。なんでしたっけ、雇用主、監守、奴隷商人――」
「ディア」
慌てて遮る。頭痛を覚えながら、引き気味のアリアドナを見た。
「先輩・後輩だよ。上司・部下ってほど、等級が離れてるわけでもないしね」
彼女は曖昧にうなずきつつ視線を逸らした。虚空を眺めながら「奴隷」「奴隷」とつぶやいている。
(……)
妙な誤解を与えてしまった気がする。心なし距離を置かれている感じもした。
ただ、いずれにせよ詮索はやんだ。
気を取り直して先に進む。
既に周囲は林と化して、黒々とした枝葉が夜空を覆っていた。白い月がわずかに現れては葉陰に隠れる。背後にはフェリシダの山が壁のようにそそり立っていた。ここからではもう町の灯りも見えない。気づかぬうちに随分長く歩いてきたようだ。
湧き水の音がどこかから響いてくる。蛙が求愛の鳴き声を漏らしていた。静かだ。とても人里が近いようには思えない。
地図を取り出す。
確かにトロ村はこのあたりのはずだが。
「あ」
アリアドナの声が響いた。小走りに進み出て木々の根元にしゃがみこむ。
「これ、道標だ。村さ続ぐ道で」
確かに小さいが石造りの人工物がある。表面に何か描かれていた。おそらく方角と距離を示しているのだろう。矢印と思しきものが道の先を指している。
「あとどのくらいだい?」
「もうすぐだ。そこの坂、下れば」
指さした先の道が崖下に落ちこんでいる。空が若干開けていた。
(……ん)
わずかに覚えた違和感が何か、考えている余裕はなかった。アリアドナが走り出した。息を切らして坂に向かっていく。
「あ、ちょっと待って」
焦燥のままに注意するが、止まってくれない。あっという間に距離が開いていく。舌打ちしてあとに続いた。湿った地面に足を取られながら、崖の縁にたどりつく。
「おー」
ディアの目が見開かれる。窪地の底に人家が並んでいた。大小二十戸ほど、いずれも簡素な造りで煙突のない家も多い。村はずれには放牧地、小川には水車。典型的な僻地の農村だ。一見妙なことはなさそうだが――
「ディア、警戒」
「はい?」
「灯りが一つもついていない。このあたりじゃ油は貴重品だけど、全部の家が真っ暗ってのは変だ。何かが起きてる」
「はぁ」
先ほどの違和感の正体もつかめた。人里が近いのに、あれほど空が暗いわけがない。煮炊きの煙が一筋でもあれば大気は澱むものだ。だが周囲の景色はガラス細工のように冷たく澄みわたっている。人や家畜の気配がまったくない。
そのあたりの不審が伝わったのか、ディアは腰の鞘から短刀を抜き放った。無言のまま視線を巡らせ始める。
足を速めてアリアドナの背中を追った。転がるように坂道を駆け下りていた彼女は、いつしかスピードを緩めていた。様子がおかしいと気づいたのだろう。きょろきょろと家々を見渡している。
「アリアドナ」
肩越しに振り返ってきた顔は困惑気味だった。
「なんが……変だ」
ミゲルは『分かっている』という風にうなずいてみせた。
「あまり大声を出さない方がいい。たまたま今日は皆、寝入るのが早かったのかもしれない。叔父さん叔母さんの家は? どれだい」
「あれ」
と指された家は水車の近くだった。納屋つきの少し背高な建物だ。他の家と同様灯りはついていない。
周囲を警戒しながら近づいていく。水車の稼働音が夜闇の奥から響いてきた。水量が少ないせいか、ゆったりとしたペースだ。小川のせせらぎもコポコポとしか聞こえてこない。
アリアドナは戸口に立つと扉をノックした。
「叔父さ、叔母さ、オラだ。アリアドナだ」
返事はない。もう一度、少し強めにノックする。
「叔父さ、叔母さ」
「ちょっといいかい」
横から進み出て扉を押す。かんぬきは――かかっていなかった。軋み声とともに外の光が差しこむ。埃っぽい匂いが鼻を突いた。目がチクチクと痛みを訴える。嫌な予感が膨れ上がった。人が住んでいる家でこんな匂いはしない。
「入るよ」
形式的な許可だけ求めて中に進む。だだっ広い居間、台所、寝室。人の姿はない。調理用具や食材が無造作に置かれている。テーブルには食器が並んだままだ。衣類の何着かは洗濯待ちのように棚にかけられている。
単純な構造の家だ。何分もたたないうちに全室を捜索し終えてしまう。戸口まで戻ってくると、アリアドナは途方に暮れた顔をした。
「なして? 叔父さ、叔母さはどこさ行ったんだ?」
「……」
「ミゲルさ?」
「叔父さん、叔母さんだけじゃないかもしれないよ」
「え?」
「他の家も見てみよう。多分、同じことになっていると思う」
家を出る。三人で手分けして各戸を回ってみた。
予想は当たった。トロ村の住人は一人残らず消え失せていた。それもここ数日の話ではない、おそらく消失から数週間は経過しているだろう。でないと、積もった埃の量が説明できない。
「わげ分がらね」
アリアドナの顔は強ばっていた。眉根に深い皺が刻まれている。
「みんな、どこさ消えたんだが」
答える材料はない。ただひどく嫌な感じが膨れ上がっていた。いっそ死体か争った形跡でもあれば、野盗にでも襲われたと思うところだろう。だが、現実は違う。村人全員が一斉に姿を消した。生活の痕跡を残したまま、抗う間もなく、ほぼ一瞬で。
異常だ。
だとすれば、そこには尋常ならざる力が働いていたと考えるべきだろう。そしてその力がもう消滅していると判断する理由はない。
「一度村を離れよう」
アリアドナが目を剥く。反発しかけた彼女をミゲルは目で抑えこんだ。
「叔父さん叔母さんの捜索はあとからでもできる。ここはどうにも視界が開けすぎだ。村をこんな風にした何かがうろついていたら、一瞬で見つかってしまう」
「んだども」
「大丈夫、皆、無事だよ。略奪や焼き討ちを受けたら、もっとひどい眺めになってる。多分危険を感じて逃げ出したんだ」
根拠はない。だが、ありえるかもしれない予想はアリアドナの足を軽くしたようだった。
崖の上を確認する。人影はない。大丈夫、退路は確保されている。
「行こう」
周囲を警戒しながら走り出す。建物の影伝いに村の入り口へ、ブーツのつまさきが境界石の脇を踏んだ時だった。
BEEEEEEP。
光の線が大地から浮かび上がった。複雑な紋様が次々に現れて広がっていく。条件式だ。侵入者の滞在時間を測定、一定期間を超えた場合、且つ特定住戸に立ち入った場合、警戒処理を実行。後続の召喚プロセスが起動される。
――EJECUCION(実行)。
「くそっ!」
罠だ。
アリアドナの肩を抱いて後退する。光が湧き上がった。鞭のようにしなり、蛇のようにのたくりながら、地面を掘り起こしてこね上げる。どんと重々しい足音が大地を揺らした。連結された岩石が軋み声を上げる。
咆哮。
二階建ての家ほどもありそうな巨人が現れていた。寸詰まりな足と地面まで届きそうな手。顔の部分は大小の岩で組み上げられて、目鼻らしきものは見て取れない。ただ額には『真理』を示す魔術文字が刻まれていた。
「な、な、なんだべ、あれ!」
アリアドナが肝を潰した様子で巨人を指さす。ミゲルは舌打ち混じりに応じた。
「ゴーレムだよ。与えられた命令通りに動く魔術人形だ。多分、魔術師が仕掛けていったんだろう。侵入者を逃がさないためにね」
「は? え? 魔術師?」
説明している余裕はない。「ディア」と肩越しに呼びかけた。
「あいつの注意を逸らせ。まともにやりあう必要はない。僕らが脱出する時間を稼げればそれでいい、できるかい?」
「もちろんですとも!」
ディアは勢いよく短刀をかざした。
「ディアの役目はミゲル様をお守りすることですから。全身全霊、粉骨砕身の覚悟でご期待に応えてみせます。いざ尋常に、勝負!」
言うが早いか、なんのためらいもなくゴーレムに突っこんでいく。
そして腕の一振りで吹き飛ばされた。
「で、ディアさ!?」
「いいから! とにかく走って!」
振り向いている余裕はない。アリアドナの手を引きゴーレムの横を駆け抜ける。崖下に到着、つんのめりそうになりながらつづら折りの坂を上っていった。一拍おいて、背後から地響きが近づいてくる。震動で崖の表面が崩れて降りかかってきた。
「追いづがれる!」
「大丈夫。あの図体じゃこの道幅は登れない」
取りつかれるとやばいが、道を崩すにはそれなりの時間がかかる。脇目も振らずに駆け上れば、と思った瞬間だった。
正面の岩肌が爆発した。押し寄せる砂と破片でひっくり返りそうになる。必死に踏みとどまろうとして、ちらと村の方が見えた。ゴーレムがしゃがみこんでいる。中腰になって石畳をひっくり返そうとしている。
(投げやがった)
地面を掘り返して、石か岩を投げつけてきたのだ。ぞっとする。想像以上に高度な制御がなされていた。目標の位置を測定、到達可能か否かを判断して、攻撃手段を切り替え。明らかに凡百のゴーレムではない。
目の前の道は粉塵で覆われている。進んでいいものかどうか判断がつかない。だが後ろに下がってもジリ貧だ。どうする? アリアドナだけでも崖の上に押し上げるか。あるいは運を天に任せて前進するか。考えているうちにゴーレムは第二撃の投擲動作に入っていた。軸足を踏んばり、腕を後ろに引く。
っ!
「っらぁ!」
いつの間に駆け上ったのか、ゴーレムの頭にディアが取りついてた。左腕が変な方向に曲がっている。が、彼女は気にした様子もなくゴーレムの目の部分に短刀を突き立てた。
「ミゲル様、今のうちに!」
皆まで言う余裕はなかった。ゴーレムが、手の中の石畳を頭部に叩きつけたのだ。
「ひっ」とアリアドナが悲鳴を漏らす。
だが一緒に凍りついている暇はなかった。眼前の粉塵は収まっている。道は崩れていない。行くなら今だ。
「目を閉じて、息を止めて」
口元を覆って砂煙の中に突っこむ。無我夢中で駆けていき、何度目かの屈折部を抜けると視界が開けた。崖の上だ。
「やった」
逃げ切れた。
激痛が肩を貫いたのはその時だった。天地が逆転。仰向けに吹き飛ばされて目を剥く。痛みもさることながら、自分が飛ばされた方向に混乱した。なんで、どうして後ろに倒れる? ゴーレムの投擲を食らったのならうつ伏せになるはずだ。逆方向、前からの一撃? ということは。
「……っ!」
片手で受け身を取って起き上がる。呆然としているアリアドナの腕をつかみ、木陰に飛びこんだ。
瞬間、今いたところを白い光が焼いた。バチバチと空気の焼ける匂いが鼻を突く。
「あー? 避けられたぁ? なんだよ、随分活きがいいじゃねぇか」
軽薄な声がかけられる。木立の奥から現れた姿は異様だった。高々と逆立てられた髪、大柄な耳飾り、派手な色合いの立て襟コート。道化めいた見た目に反して、抱いた感情は戦慄だった。装飾過多な服装、高度な魔術式、そして雷撃魔法。
「〈煤かぶり〉のロレンソ」
「え?」
「フリーの魔術師だよ。金次第でなんでもやる外道だ。もともとは正規のギルドに所属していたけど、希望の術を継承できないと見るや、導師全員を焼き尽くして、巻物を強奪した。犯行現場の部屋が死体の煤で真っ黒になっていたから、ついたあだ名が〈煤かぶり〉」
「……」
「見た目はあんなだけれど、魔術師としての能力は一級品だ。まいったな、よりにもよってこんな逃げ場のない場所で出くわすなんて」
背後は崖、その下にはゴーレムが待ち受けている。高台の際のこのあたりは木々もまばらだ。物陰を伝い脱出することもできない。何より林の奥に続く道にはロレンソが陣取っていた。
肩口を見る。袖は焼け焦げていたが腕は無事だ。どうやらわずかに的を外してくれたらしい。それであの痛みかと思うと正直、肌が粟立った。
「おーい、時間の無駄だからさぁ、出てきてくれねぇかな。俺っち、山火事とか起こしたくねぇのよ。もう魔法撃たねぇから顔見せてくれねぇかなぁ。ちっと話を聞くだけだからさぁ」
「ど、どうするんだべ」
アリアドナがしがみついてくる。すがるような顔で、
「ああ言ってるげど」
「嘘に決まってるだろう。出てった瞬間、ズドンだよ。尋問されるにしてもそのあとだ」
「ん、んだば」
「隙を突いて突破する。大丈夫、あいつの魔法は射程が短い。一撃避ければ二度目はない」
炎や風と違い雷は減衰が激しい。有効な間合いは、せいぜい十五歩か二十歩程度だ。全速力で駆け抜ければ逃れられる。
「避げられるのが?」
「まぁ、なんとかするさ」
足下を探る。手頃な大きさの石を取り上げる。
「いいかい、合図をしたらあの道の奥に向けて走るんだ。絶対立ち止まらないようにね」
「ん、んだ」
「僕がどうなっても止まらない、いいね」
「分がった」
「おーい、燃やしちまうぞー。あと五秒だからな、よーん、さーん、にー」
左手の木の根を目指して投擲。空気の唸りにロレンソが反応した。バチリと雷撃が走る。網膜に光の軌跡が残った。
「今だ!」
木陰から飛び出す。泥を撥ね飛ばしながら林の奥に向かった。ロレンソが舌打ちして振り向いてくる。腕を引いて詠唱動作、だが遅い。これなら行ける、逃げ切れると思った時だった。
「あ」
外套の裾が舞う。視界の端で小柄なシルエットが手を突いていた。アリアドナだ。木の根に蹴躓いたのか、前のめりに倒れこんでいる。
「アリアドナ!」
「ほい、そこねー」
助け起こしている余裕はない。ぎりっと歯を食いしばって射線に割って入る。刹那、太陽でも落ちたのかというくらい激しい光が視界を焼いた。衝撃と激痛、全身の血液が沸騰したようになる。三半規管が異常を訴えていた。上下左右前後の空間識がことごとく失われている。だが辛うじて地面に叩きつけられたことは分かった。
指先、足、動く。呼吸、心音、正常。アリアドナは……すぐそばにいる。
「おろっ?」
ロレンソの声が上ずる。ミゲルは即座に横転して立ち上がっていた。アリアドナの腕をつかみ地面を蹴る。地を這うようにして林の奥に駆けこんだ。
「おいおい、なんだよそれ。マジか。手加減してねぇぞ」
呆れたような声が飛んでくる。だがそれ以上、追いかけてくる気配はなかった。闇の中、溜息混じりのつぶやきが響いてくる。
「まいったなぁ、まーた報告かよ。お父様、なんつーかな。ったく、めんどくせぇ」




