最終話 最後の戦い、そして約束の食卓へ
「――ここが、貴様らの墓場だ。そして、我が理想郷が生まれる、産室でもある」
古の賢者、リヒトの言葉と共に、俺たちが立っていたはずの玉座の間は、完全にその姿を消した。
床も、壁も、天井もない。あるのは、ただ、純粋な魔力が、銀河の星雲のように渦巻く、混沌の空間。世界の法則そのものが、まだ生まれる前の、原初の魔力炉。ここが、王都ソラリスを、そして人間たちの支配を支えてきた、『神の天蓋』の、心臓部だった。
「この空間において、理は、私だ」
リヒトが、静かに告げる。彼は、この世界の理を書き換える「作者」。そして、俺たちは、その盤上に乗せられた、駒。
「第一の理を告げる。――ここでは、炎は、氷を生む」
「なにっ!?」
リヒトの言葉に、イフリートが、咄嗟に、牽制の炎を放つ。だが、その紅蓮の炎は、リヒトに届く寸前で、その性質を、真逆の絶対零度の氷塊へと変貌させ、凄まじい速度で、俺たちへと襲い掛かってきた。
「『ウォール・オブ・ゴーム』!」
ゴームが、間一髪、土の壁を作り出し、その氷塊を受け止める。だが、壁には、深い亀裂が刻まれた。
「第二の理。――ここでは、大地は、重力を失う」
リヒトが、指を鳴らす。すると、ゴームが作り出した壁が、ふわりと宙に浮き、ただの無力な岩塊となって、混沌の空間を漂い始めた。
「第三の理。――ここでは、光は、闇を呼び、闇は、光に焼かれる」
レイの聖なる光が、濃密な影を生み出し、ダークの潜む影が、聖なる光に焼かれて、その身を苛む。
「第四の理。――ここでは、水は、その形を保てず、風は、その流れを失う」
ディーネの操る水は霧散し、シルの巻き起こす風は、どこへともなく掻き消えていく。
あまりにも、一方的な、絶対的な支配。
俺の眷属たちの、その元素の力そのものが、リヒトの言葉一つで、その意味を、その法則を、捻じ曲げられていく。
「無駄だ」
リヒトは、まるで子供の遊びを眺めるかのように、静かに言った。
「この空間は、私の脳内そのもの。私の思考こそが、世界の法則なのだ。お前たちは、私の手のひらの上で、踊ることしかできん」
「……本当に、そうでしょうか」
その、絶対的な絶望の中で、静かに、しかし、凛として響いたのは、パティの声だった。
彼女は、自らの杖を、強く握りしめていた。
「あなたは、確かに、この世界の理を書き換える力を持つのかもしれない。……ですが、それは、あなた一人の、独善的な理屈ですわ!」
彼女は、杖を天に掲げた。
「私たちの絆は、私たちの意思は、あなたのちっぽけな理屈なんかに、決して屈しはしない!」
彼女が放ったのは、炎でも、風でもなかった。彼女の、魂そのものを燃やすかのような、純粋な魔力の奔流。
その奔流は、イフリートの炎と混じり合い、ディーネの水を纏い、ゴームの大地を足場とし、シルの風に乗り、レイの光に導かれ、ダークの闇を振り払い――七つの心が、一つの、巨大な虹色の光となって、リヒトへと殺到した。
だが、リヒトは、動かなかった。
「――理を告げる。その絆とやらは、無意味と知れ」
彼がそう告げると、虹色の光は、彼に届く寸前で、泡のように、虚しく、弾けて消えた。
「……なっ!?」
「言ったはずだ。この空間では、私が、理だと」
絶望。
仲間たちの心が、折れかけた、その時だった。
「……そうか」
俺は、静かに、呟いた。
「ようやく、分かったぜ。あんたの正体が」
俺は、一歩前に出た。
「あんたは、この世界の『作者』みたいなものだ。ルールブックを、自分で、好きなように書き換えられる。……でもな、リヒト」
俺は、リヒトを、真っ直ぐに見据えた。
「俺は、この世界の『登場人物』じゃない」
俺は、異世界からの転生者。
この世界の理の外から来た、イレギュラー。
「俺は、あんたが作った物語を読んでる、『読者』みたいなものだ。あんたが、どんなに面白いルールを書き足したって、そのルールは、本を読んでる俺自身を、縛ることはできない」
その言葉に、リヒトの、何千年もの間、動くことのなかった、完璧な表情が、初めて、明らかに、歪んだ。
「……貴様……一体、何を……」
「理を告げる、だ?面白い。じゃあ、今度は、俺が、俺の理を、教えてやるよ」
俺は、ゆっくりと、リヒトに向かって、歩き始めた。
リヒトが、慌てて、新たな理を紡ぎ出す。
「理を告げる!貴様は、一歩も動けぬ!」
だが、俺の足は、止まらない。
「貴様のスキルは、全て無効となる!」
だが、俺の力は、一切、衰えない。
俺は、この世界の法則の外にいる。
俺の存在そのものが、彼の作り上げた、完璧な世界の、唯一の、バグなのだ。
「なぜだ……。なぜ、我が理が、貴様には届かぬ……!?ありえない!ありえない!ありえない!」
初めて見せる、リヒトの狼狽。
その姿は、自らが作り上げた完璧なゲームが、想定外のバグで、クラッシュしていくのを、ただ見ていることしかできない、哀れなプログラマーのようだった。
俺は、ついに、彼の目の前まで、たどり着いた。
俺は、彼の、数千年分の孤独と、歪んだ理想に、ほんの少しだけ、同情した。
そして、その胸に、そっと、手のひらを置いた。
「あんたの、退屈な『計画』は、ここでお終いだ」
俺は、俺の、無の魔力を、解放した。
それは、破壊ではない。ただ、彼の、長すぎる、そして、孤独すぎた物語の、ページを、優しく、閉じるだけ。
俺の無の魔力に触れ、彼を数千年も生かしてきた、禁忌の魔法が、その理を失い、解けていく。
リヒトの体は、みるみるうちに、その若さを失い、美しい青年から、皺だらけの老人へ、そして、やがて、風化する砂のように、さらさらと、崩れていった。
「……そうか……。混沌こそが……生命……だった、か……」
最後に、彼は、満足したかのように、そう呟いた。
そして、光の粒子となって、完全に、消え失せた。
―――
リヒトが消滅すると、俺たちを包んでいた混沌の空間もまた、ガラスのように砕け散った。
気づくと、俺たちは、元の、静まり返った、王都ソラリスの玉座の間に、立っていた。
玉座に座っていた、傀儡の王は、糸の切れた人形のように、崩れ落ちている。
そして、王都を覆っていた、黄金の『神の天蓋』が、朝霧のように、静かに、晴れていった。
戦いは、終わった。
この世界を、裏から操っていた、長きにわたる悪夢は、完全に、消え去ったのだ。
俺は、がらんとした、玉座の間を見回した。
竜の試練で見せられた、あの、神となった俺が座るはずだった、玉座。
俺は、それに、ふっと、笑いかけると、背を向けた。
そして、この一年、俺と共に、死線を潜り抜けてきてくれた、かけがえのない仲間たちに向き直った。
心配そうに俺を見つめるパティ。
絶対の信頼を寄せる、六人の、俺の「家族」。
俺は、心の底から、笑った。
「……腹、減ったな」
そして、パティに、そっと、手を差し出した。
「帰ろう。母さんの飯が、待ってる」
彼女は、一瞬、驚いた顔をしたが、やがて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、最高の笑顔を見せると、その手を、強く、強く、握り返した。
俺たちは、人間たちの、空っぽの玉座に、背を向けた。
俺たちが目指すのは、世界の覇権などではない。
ただ一つの、温かい、いつもの食卓。
その、何気ない日常を取り戻すための、俺たちの、長くて、短い戦いは、今、ようやく、終わりを告げたのだった。




