56話 盤上の王、そして世界の真実
『――お待ちしておりましたぞ』
その声は、雷鳴のように、俺たちの魂に直接響き渡った。
俺たちが展開していた、あらゆる魔法的防御を、まるで存在しないかのように、いとも容易くすり抜けて。
パティが、はっと息を呑む。眷属たちが、一斉に俺の周囲を固めた。
だが、声に、敵意は感じられなかった。あるのは、全てを見通しているかのような、絶対的な、そして、どこか愉悦に満ちた、静かな自信だけだった。
『さあ、こちらへ。いつまでも、そのような暗がりで立ち話もなかろう』
声に導かれるように、俺たちの目の前の、白亜の石畳に、きらきらと輝く光の粒子が、道を示すかのように現れた。その光の道は、街の遥か中心、壮麗なる王城の玉座の間へと、真っ直ぐに、続いていた。
「……罠、ですわね」
パティが、緊張に満ちた声で呟く。
「ああ。百パーセントな」
だが、俺たちは、足を止めなかった。もとより、そのつもりでここに来たのだ。
俺たちは、まるで招かれた賓客のように、その光の道を、堂々と歩き始めた。
道すがら、俺たちは、異様な光景を目の当たりにした。
あれほどけたたましく鳴り響いていた警報は、完全に止んでいる。街路を固めていたはずの騎士たちは、俺たちの姿を認めても、攻撃を仕掛けてくることはない。彼らは、まるで意思を失った人形のように、道を開け、ただ、静かに、俺たちを見送るだけだった。
この巨大な王都ソラリス、その全てが、たった一人の意思の下に、完全に、掌握されている。
やがて、俺たちは、王城の、巨大な玉座の間の前にたどり着いた。
重厚な扉は、俺たちが近づくと、ひとりでに、ゆっくりと開かれた。
その先にあったのは、どこまでも広く、どこまでも豪奢な、だが、どこまでも冷たい、玉座の間だった。
そして、その玉座には、一人の老人が座していた。豪奢な王衣をその身に纏い、威厳に満ちた顔立ちをしている。彼が、人間たちの王なのだろう。
だが、俺たちの脳内に響いた、あの声の主では、ない。
玉座の王は、まるで、精巧に作られた、魂のない人形のように、ただ、虚空を見つめているだけだった。
俺たちの視線は、自然と、玉座の傍らに立つ、もう一人の人物へと、注がれた。
そこに立っていたのは、純白のローブを纏った、一人の、美しい青年だった。その白銀の髪は、星屑のように輝き、その瞳は、悠久の時を映す湖のように、どこまでも、静かだった。
彼こそが、この場の、そして、この国の、真の支配者。
青年は、俺たちの姿を認めると、その完璧な顔に、穏やかな笑みを浮かべた。
そして、あの、魂に直接響く声で、しかし、今度は、その唇を動かして、言った。
「改めて、ようこそ。我が名は、リヒト。かつて、初代勇者アレスと共に、人魔大戦を終結させ……そして、この世界の、新たなる『計画』を始めた者だ」
リヒト。
その名に、俺は、聞き覚えがあった。
エリアドールの禁断の書庫で見つけた、あの日誌の書き手。初代勇者の、側近魔術師。
だが、目の前の男は、数千年を生きた老人などではない。永遠の時を、その身に刻み込んだかのような、全盛期の姿を保っていた。
「驚いているようだな。これも、計画の一部だ。我が身は、既に、人の理を超越し、この世界の理そのものと、一体化している」
彼は、まるで、世界の真実を、無知な子供に教え諭すかのように、静かに、語り始めた。
「我らは、見たのだ。初代勇者アレスと、私は。魔力という、混沌の力が、この世界に、どれほどの争いと、憎しみと、悲劇を生み出すかを。魔族も、獣人も、精霊も、そして、我ら人間も。誰もが、己が欲望のままに、その力を振るい、血を流し続ける。その、終わりのない、愚かな螺旋を」
彼の声には、深い、深い、悲しみが宿っていた。
「だから、我らは、決めたのだ。この世界から、混沌を、争いの種を、完全に取り除く、と。魔力という、不確かな力に頼るのではない。ただ一つの、絶対的な『秩序』の下に、全ての生命が、合理的に、そして、平和に暮らせる世界。人間という、最も理性的で、最も優れた種族の管理の下に、な」
呪いは、その計画の、第一段階だった。他の種族の力を削ぎ、人間が、その支配体制を確立するための、礎。
龍脈の汚染は、その最終段階。魔力そのものを、この大地から根絶やしにし、神々の時代の混沌を、完全に終わらせるための、仕上げ。
彼は、それを、悪だとは思っていない。むしろ、数千年をかけた、世界の救済だと、心の底から、信じているのだ。
「我らの計画は、この世界の理の内側で、完璧に機能するはずだった。貴様が現れるまではな」
リヒトの、静かな瞳が、初めて、鋭い光を宿して、俺を射抜いた。
「貴様は、違う。貴様は、我らが定めた、この世界の理の外から来た、予測不能なバグだ。貴様の存在そのものが、我らが数千年かけて築き上げてきた、この美しき盤上そのものを、破壊しかねんのだ」
彼は、ゆっくりと、俺に、その手を差し出した。
「だが、貴様もまた、混沌ではなく、理を求める者と見える。……どうだ、イレギュラーよ。我らに、加われ。貴様のその規格外の力、この世界の、最後の混沌を収めるために、使う気はないか?」
それは、究極の、甘い誘惑だった。
世界の支配者からの、共犯者への、誘い。
俺は、その差し出された手を、一瞥した。
そして、静かに、首を振った。
「あんたの言う『平和』は、ただの、人形劇だ」
俺は、背後に立つ、仲間たちを、振り返った。心配そうに俺を見つめるパティ。絶対の信頼を寄せる、六人の眷属たち。
「心がなくて、温かみもない。そんな、綺麗で、静かで、冷たいだけの世界なんて、俺は、いらない」
俺は、再び、リヒトに向き直った。
「俺が守りたいのは、世界じゃない。あいつらが、馬鹿みたいに笑って、喧嘩して、飯を食える、俺の、たった一つの、騒々しい日常だ」
その答えに、リヒトの顔から、すっと、笑みが消えた。
その瞳に宿ったのは、深い、深い、失望の色だった。
「……そうか。ならば、貴様もまた、この世界が生み出した、ただの混沌の一つに過ぎぬということだ。……残念だ」
彼が、その手に持つ、純白の杖を、軽く、床に打ち付けた。
瞬間、俺たちが立っていた、豪奢な玉座の間が、まるで幻であったかのように、掻ききえていく。
床も、壁も、天井も、全てが、渦巻く、純粋な魔力エネルギーの奔流へと、姿を変えた。
俺たちは、もはや、王城にはいなかった。
この都市の、そして、人間たちの全ての魔力の源泉である、『神の天蓋』の、動力炉の、その心臓部の真っ只中に、立っていたのだ。
「ここが、貴様らの墓場だ」
リヒトが、告げる。
「そして、我が理想郷が生まれる、産室でもある」
最後の戦いの舞台は、整った。
世界の理を書き換えようとする、古の賢者と。
ただ、ささやかな日常を守るために、全ての理を破壊する、異世界の少年。
二人の、決して相容れない願いが、今、世界の心臓部で、激突しようとしていた。




