第44話 天衝の聖域、そして龍の賢帝
本日2話目です
門番の竜人――古き名である「イグニス」とだけ名乗った彼は、それきり一言も発することなく、俺たちを先導した。
開かれた巨大な氷の門の向こうは、洞窟ではなかった。それは、まるで巨大な山脈の胎内をくり抜いて作られたかのような、どこまでも続く螺旋の道。壁も、床も、天井も、全てが淡い光を放つ巨大な水晶でできており、その光が乱反射して、俺たちの進む道を神々しく照らし出していた。
空気は、地上とは比べ物にならないほど清浄で、そして、濃密な魔力に満ちている。ここは、まさしく、龍脈の源流そのものなのだろう。
長い、長い螺旋の道を登りきった俺たちがたどり着いたのは、天衝山脈の山頂に広がる、巨大なカルデラだった。
そこは、俺が今まで見てきた、どんな光景よりも、荘厳で、美しい場所だった。
眼下には雲海が広がり、空は、宇宙の深淵を思わせるほどの、深い瑠璃色をしている。
カルデラの中には、都市と呼べるようなものはなかった。磨き上げられた黒曜石の浮島がいくつも宙に浮かび、それらが虹色の光の橋で結ばれている。そして、その中心には、この聖域の太陽として、巨大な龍脈の結晶体が、凄まじい魔力を放ちながら、静かに浮遊していた。
そこに住まう竜人たちの数も、多くはない。
ある者は、浮島の上で瞑想し、世界の魔力の流れを観測している。
ある者は、光の橋の上で、まるで舞踏のように優雅な型で、己の技を磨いている。
彼らは、俺たち闖入者の姿を認めても、一切の動揺を見せない。ただ、その悠久の時を映す瞳で、静かに、俺たちが何者であるかを、値踏みするように見つめているだけだった。
イグニスは、俺たちを、聖域の中心、ひときわ巨大な黒曜石の浮島へと導いた。
その中央には、星の欠片――隕鉄を削り出して作られたかのような、黒く、重厚な玉座が一つだけ、置かれていた。
そして、その玉座に、一人の竜人が座していた。
彼こそが、この天衝山脈を、そして、この世界の均衡を治める、竜人族の長。
その全身を覆う鱗は、磨き上げられた白金のように輝き、背中にたたまれた翼は、雲海全てを覆い尽くさんばかりに巨大だった。
やがて、その閉じられていた瞼が、ゆっくりと開かれる。
現れたのは、肉体の瞳ではなかった。その双眸には、星々が生まれ、そして消えていく、銀河そのものが渦巻いていた。
『…………来たか、理を歪める者よ』
その声は、音波となって鼓膜を震わせるのではない。俺たちの魂に、直接、響き渡る、思念の声だった。
パティが、大使として、緊張に震える声で、口上を述べようとする。
だが、竜人の王は、それを、ただ視線を向けるだけで、制した。
『言葉は不要。我らが問うは、ただ一つ』
その銀河の瞳が、俺一人を、捉える。
『貴様は、そのありえべからざる力で、この世界に、何をもたらす?』
俺は、一歩前に出た。この存在の前では、いかなる駆け引きも、偽りも、意味をなさない。俺は、ただ、俺の真実を告げるだけだ。
「あんたたちの守る『均衡』は、もう、とっくの昔に破綻している」
俺の言葉に、周囲に控えていた他の竜人たちの気配が、わずかに揺らいだ。
「人間だけが繁栄し、他の全ての種族が、病み、奴隷とされ、緩やかに滅びへと向かっている。それは、均衡などではない。ただの、緩慢な死だ」
俺は、言葉を続ける。
「俺がもたらすのは、混沌かもしれない。だが、それは、新たな均衡を生み出すための、一度きりの破壊だ」
俺の言葉に、竜人の王は、初めて、その思念に、感情らしきものを滲ませた。
『我らは、星の運行を見守るが如く、この世界の理を見守ってきた。生命は生まれ、そして滅ぶ。それが理。一つの種族が隆盛し、他が衰退するのも、また、大きな流れの中では、自然な淘汰。我らは、そこに、個人的な感情で介入はせぬ』
「自然淘汰、だと?」
俺は、思わず、笑った。
「その理は、人間が編み出した『呪い』というイカサマによって、不正に捻じ曲げられたものだ。これは、自然淘汰じゃない。ただの、八百長試合だ」
俺は、玉座の王を、真っ直ぐに見据えた。
「あんたたちは、イカサマ師が仕掛けたゲーム盤を、ただ黙って、高みから見物しているだけだ。それは、監視者とは言わない。ただの、無責任な、傍観者だ!」
俺の、不敬極まりない一言。
周囲の竜人たちから、明確な怒りの気配が放たれる。だが、玉座の王は、それを、ただ手を上げるだけで、制した。
彼の思念が、再び、俺の心に響く。
その声には、怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ、深い、深い、興味の色が、浮かんでいた。
『…………面白い。我らに、傍観者、か。数万年ぶりに、我らの存在意義を、正面から問う者が現れたわ』
彼は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。その巨体は、まるで星そのものが、人の形を取ったかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
『異物よ。貴様の言葉が真実か、その魂の在り様、この我が、直々に見極めてくれる』
王の言葉に、俺たちが立つ黒曜石の浮島が、ゴトリ、と大きく揺れた。そして、他の浮島から切り離され、ゆっくりと、何もない虚空へと、上昇を始める。
『これより、我が、この世界の理そのものを用いて、貴様のための試練を創造する。我が生み出す『龍の試練』、それを乗り越えられた時、我らは貴様の言葉を、世界の新たな理として、認めよう』
俺たちの周囲の景色が、急速に歪んでいく。
そして、目の前で、竜人の王の体が、眩い光と共に、その本来の姿――山脈のように巨大な、一頭の、白金の龍へと、変貌を遂げようとしていた。
これは、もはや試練などではない。
世界の理の監視者による、最終試験。
神にも等しい存在との、直接対決が、始まろうとしていた。




