第39話 隠れ郷エリアドール、そして森の賢者
俺たちは、森の番人『葉隠』に導かれ、光る苔の道しるべを辿っていった。
それは、不思議な道行きだった。俺たちが進むと、それまで鬱蒼と茂っていた木々が、まるで意思を持って道を開けるかのように、すっとその枝を上げる。行く手を阻んでいたはずの茨の蔦は、ひとりでに解けていき、せせらぎには、輝く石の橋が架かる。
森全体が、俺たちを歓迎している。その事実に、パティは驚きを隠せないでいた。
「すごい……。書物には、精霊族の森は、許可なき者を惑わし、永遠に彷徨わせる『迷いの大樹海』だとあったのに……」
「兄ちゃんが、森とお友達になったからだよ!」
シルが、得意げに俺の頭の上で胸を張る。あながち、間違いではないのかもしれない。
やがて、ひときわ巨大な木々のトンネルを抜けた先で、俺たちの視界は、一気に開けた。
「……まあ……!」
パティが、感嘆の声を漏らす。
そこは、この世のものとは思えないほど、幻想的な美しさに満ちた場所だった。
壁や門など、野暮なものは一切ない。集落そのものが、森と完全に一体化していた。
千年以上の時を生きる巨大な古代樹の幹には、優雅な曲線を描く住居が穿たれ、その遥か上方の枝々には、まるで果実のように、いくつもの家が吊り下げられている。それらを結ぶのは、生きた蔦で編まれた、しなやかな吊り橋だ。
村の中央には、水晶のように澄み切った川が流れ、その川辺では、見たこともない色とりどりの花々が、自ら淡い光を放っている。人工的な明かりは何一つないのに、村全体が、木漏れ日のような、柔らかく、温かい光に包まれていた。
聞こえてくるのは、川のせせらぎと、木の葉のざわめき、そして、どこからか聞こえてくる、竪琴の澄んだ音色だけ。
村の中を行き交う精霊たちは、皆、長身で、しなやかで、その動きの一つ一つが、まるで舞踏のように優雅だった。彼らは、俺たち異邦人の姿を見ても、驚きや敵意を見せることはない。ただ、その森のように深い瞳で、深い、深い好奇心と共に、静かにこちらを見つめているだけだった。
俺たちを導いてきた銀髪の番人――彼女は「ロレライ」と名乗った――は、村の中央にそびえ立つ、ひときわ巨大な、天を突くかのような大樹の前で、足を止めた。
「長老がお待ちです。こちらへ」
俺たちは、その大樹の根元にある、自然に開いたかのような洞へと、導かれていった。
その先は、玉座の間ではなかった。
洞の奥は、空へと開けており、そこは、壁も天井も、全てが生きた木の根や枝で形成された、神聖な祭壇のような場所だった。
その中央、絡み合った木の根が作り出した、天然の玉座に、一人のエルフが静かに座していた。
その姿は、決して老いてはいなかった。だが、その白銀の髪と、森羅万象の全てを見通すかのような翠色の瞳には、千年や二千年では到底計り知れない、悠久の時の流れが刻まれている。
彼女こそが、この隠れ郷エリアドールを治める、精霊族の長老に違いなかった。
パティが、魔王の使者として、一歩前に出る。
「お初にお目にかかります、精霊族の長老殿。私は、魔王ルシフェリアが娘、パティと申します。本日は、人間族の暴虐に対抗すべく、古の盟約に従い、同盟を結びたく……」
彼女が、練習してきたであろう完璧な口上を述べ始めた、その時だった。
長老は、ゆっくりと、その白く細い手を上げた。
「――言葉は、偽りを纏うものです」
その声は、森の静寂そのもののように、穏やかで、しかし、抗うことのできない響きを持っていた。
「魔王の娘よ。我らが見るのは、言葉の裏に隠された、魂の『真実』のみ」
次の瞬間、長老と、その周囲に控えていた他のエルフたちの瞳が、一斉に、淡い翠色の光を放ち始めた。
『真実の瞳』。
パティの体が、びくりと硬直する。彼女の心の内が、その魂の在り様が、今、丸裸にされようとしていた。俺は、彼女の体が微かに震えているのを感じた。だが、彼女は、決して目を逸らさなかった。魔族の未来を憂う心、スタンという仲間への信頼、そして、この世界に正義を取り戻したいという、純粋な願い。彼女の魂には、一点の曇りもなかった。
やがて、長老の、その翠色の瞳が、俺へと向けられた。
凄まじい圧力が、俺の精神を襲う。それは、魔力による攻撃ではない。魂そのものを、根源から読み解こうとする、不可視の探査。
(……面白い)
俺は、抵抗しなかった。ただ、ありのままの俺を、見せた。
三十年間を生きた、平凡な男の記憶。理不尽な死。そして、スタンとして生まれ、規格外の力を得て、家族を愛し、仲間を得て、今、ここに立っている、その全ての軌跡を。
「……なっ……!?」
「なんと……あの子の魂は……」
「二つの生……?そして、この、途方もない力は……!?」
周囲のエルフたちから、動揺の声が上がる。
玉座に座す長老もまた、その悠久の時を映す瞳を、生涯で初めてと言っていいほど、大きく見開いていた。
やがて、翠色の光が収まる。
長老は、しばらくの間、俺の顔を、まるで信じられない奇跡でも見るかのように、じっと見つめていた。
そして、ゆっくりと、その口を開いた。
「……信じられません。あなたは、この世界の理の外にある存在。……森が、あなたを拒絶せず、受け入れた理由が、分かった気がします」
彼女は、一度、目を閉じた。
そして、再び目を開けた時、その瞳には、深い、深い思慮の色が浮かんでいた。
「魔族の子よ。あなた方の申し出、すぐには答えられません」
「……なぜです!」
パティが、思わず声を上げる。
「あなたの存在は、あまりにも、規格外すぎる。我らが長きにわたり守ってきた森の沈黙を、破るに値する希望なのか……。あるいは、この世界に、さらなる混沌をもたらすだけの、災厄の種なのか……」
長老は、静かに、しかし、有無を言わせぬ力強さで、告げた。
「それを、我らに、見極めさせていただく時をいただきます」
俺たちは、客人として、エリアドールに部屋を与えられた。
拒絶されたわけではない。だが、受け入れられたわけでもない。
俺の存在そのものが、今、この森の賢者たちによって、裁定にかけられようとしていた。




