第40話 賢者の試練、そして蝕む病
エリアドールでの日々は、静かに、そして奇妙な緊張感の中で過ぎていった。
俺たちは、客人として、何不自由ない生活を約束されていた。住居として与えられたのは、巨大な樹の洞をくり抜いて作られた、美しく、居心地の良い家。食事は、食べれば体の中から魔力が満ちてくるかのような、瑞々しい果実や木の実、そして清らかな泉の水。
だが、その穏やかな生活の裏で、俺たちは常に、無数の静かな視線に晒されていることを知っていた。
森の番人『葉隠』をはじめとする精霊たちは、決して俺たちに干渉はしてこない。だが、俺たちが村を散策すれば、木々の影から、家の窓から、その森のように深い瞳が、じっと、俺たちの全てを観察している。
これは、試練なのだ。
長老ファエナラが言った、「見極める」ための時間。俺という「イレギュラー」が、彼らにとって、希望となり得るのか、それとも災厄となるのか。その答えを、彼らは俺たちの日常の、何気ない一挙手一投足の中に、見出そうとしていた。
パーティーの仲間たちも、この独特の雰囲気に、それぞれの反応を見せていた。
シルは、村に住まう小さな森の精霊たちとすっかり意気投合し、毎日楽しそうに遊び回っている。イフリートは、生命力に満ち溢れたこの森の空気が肌に合わないのか、ほとんどの時間を俺の側で、仏頂面で過ごしていた。
パティは、大使としての役目を果たそうと、様々な精霊たちに話しかけ、外交を試みていたが、彼らの態度は、丁寧ではあるが、どこまでもよそよそしく、その心の扉は固く閉ざされたままだった。
そんな日々が、数日続いたある日の午後。
俺は、光の眷属であるレイと共に、村の奥にある泉へと散策に出ていた。
「……スタン様」
不意に、レイが、悲しそうな顔で足を止めた。
「どうした、レイ?」
「……この先の木々から、とても、悲しい声が聞こえます。苦しんでいる、魂の声が……」
光の属性を持つ彼女は、生命の輝きだけでなく、その淀みにも、人一倍敏感だった。
俺たちは、レイが指し示す方へと、導かれるように足を踏み入れた。
そこは、村の中でもひときわ静かで、隔離されたかのような、小さな森だった。そして、その中に、何人かの精霊たちの姿があった。
だが、その姿を見て、俺は息を呑んだ。
彼らは、病んでいた。
肌は潤いを失って、まるで古い木の幹のように、灰色に変色し、ひび割れている。その瞳からは、精霊族特有の、あの深い知性の光が消え失せ、ただ、虚ろな闇だけが広がっていた。彼らの体からは、生命力ではなく、腐敗と、淀んだ魔力の気配が漂っていた。
「……見てはなりませぬ」
静かな声と共に、俺たちの後ろに、番人のロレライが、いつの間にか立っていた。その顔は、深い悲しみに曇っている。
「彼らは、『灰色の病』に蝕まれた者たち。……森が、世界が、嘆き苦しむ声が、我ら精霊の魂を、内側から蝕むのです」
「森の、嘆き?」
ロレライは、静かに語り始めた。
それは、数十年前に始まった、精霊族を襲う、不治の病。人間たちが大陸の各地で森を焼き、川を汚し、そして、この世界の生命力の源泉である『龍脈』を汚染し始めた頃から、この病は現れたのだという。
世界そのものの生命力が汚染され、その悲鳴が、誰よりも自然と深く結びついている精霊族の魂を、直接蝕んでいく。
彼らの癒しの魔法も、この魂の腐敗を、わずかに遅らせることしかできない。そして、長老であるファエナラは、誰よりも深く森と繋がっているがゆえに、誰よりも重い呪いを、その一身に受け続けているのだと。
その言葉に、俺とパティは、獣人族の王、ガル・ラオウから聞いた話を思い出していた。
人間たちの『計画』。魔力の根絶。龍脈の汚染。
全ての事象が、今、一つの、おぞましい真実へと繋がった。精霊族が、この戦いから目を背け、沈黙を守り続けてきたのは、臆病だからではない。彼らは、彼ら自身の種族の存亡を賭けて、必死に、この見えざる敵と戦い続けていたのだ。
俺は、静かに、病に蝕まれた一人の若い精霊の前へと、歩み寄った。
「触れてはなりませぬ!その穢れは、魂に伝染します!」
ロレライが、悲痛な声を上げる。
俺は、その制止を振り切り、灰色の木肌のように変わり果てた、彼の手に、そっと、自らの手のひらを重ねた。
そして、俺は、自らの力の全てを、そこに注ぎ込んだ。
まず、『鑑定』スキルで、彼の魂を蝕む病の正体――汚染された龍脈から流れ込む、負の魔力の構造を、完全に解析する。
次に、レイを呼ぶ。
「レイ、光を」
レイの癒しの光を借り、そして、俺自身の、無限に生成される純粋な魔力を、細い、細い糸のように紡いでいく。
それは、力任せの浄化ではない。汚染された魂という、白く美しい織物の中から、そこに絡みついた、一本の黒い糸だけを、慎重に、丁寧に、抜き去っていくような、あまりにも繊細で、精密な作業だった。
俺の手に、全ての神経を集中させる。
すると、奇跡が起こった。
俺の手が触れている部分から、まるで雪解けのように、あの忌まわしい灰色の色が、すうっと引いていく。そして、その下から、本来の、白く、潤いのある肌が、現れたのだ。
何年も虚ろだった、その精霊の瞳に、一瞬だけ、理性の光が、星のように瞬いた。
「馬鹿な……」
見ていたロレライと、他の癒し手たちが、信じられないといった様子で、声を漏らした。
「穢れが……浄化されていく……?こんなこと、ありえるはずが……」
その時だった。
森の奥から、長老ファエナラが、静かに姿を現した。彼女は、ずっと、この光景を見ていたのだ。
その古代の森のように深い瞳は、今、俺一人に、ただ、ひたすらに、注がれていた。その瞳は、もはや好奇心などではない。畏怖と、驚愕と、そして、ほんのわずかな――希望。
やがて、彼女は、森全体に響き渡るかのような、静かな声で、言った。
「……魔族の子よ」
「あなたこそが、森が、この世界が、我らに遣わした、最後の希望、なのですか」
「それとも……」
彼女は、言葉を切った。
「我らを、争いの渦に巻き込み、そして、終わらせるための、甘い毒、なのですか」
俺の存在は、彼らにとって、諸刃の剣。
病を癒す救世主となるか、あるいは、破滅を早める破壊者となるか。
俺たちの同盟交渉は、今、種族の存亡そのものを賭けた、究極の選択へと、その姿を変えようとしていた。




