第38話 古代樹の森、そして沈黙の番人
獣人族の王都サウナハウルを後にしてから、俺たちの旅は数週間に及んだ。灼熱のサバンナは次第にその姿を緑に変え、空気は乾いた熱気から、湿り気を帯びた穏やかなものへと変わっていく。
道中、俺たちは野営を繰り返しながら、次の交渉相手である精霊族についての情報を、改めて整理していた。
「……書物によれば、精霊族は、あらゆる偽りや悪意を見抜く『真実の瞳』を持つ、とありますわ」
焚き火の明かりの下、パティがひいおじいちゃんから託された古い書物を読み解いていく。
「彼らは、自然との調和を何よりも重んじ、森を傷つける者を決して許さない。人間はもちろん、我ら魔族に対しても、必ずしも友好的とは言えないようです」
「ガル・ラオウ王も言っていたな。『力だけでは、決して心を開くことはあるまい』と」
俺は、燃え盛る炎を見つめながら、獅子王の言葉を反芻する。獣人族は、力でその心を開かせることができた。だが、次は違う。もっと繊細で、もっと根源的な何かが、試されることになるだろう。
やがて、俺たちの目の前に、それは姿を現した。
地平線の彼方まで続く、巨大な、巨大すぎる緑の壁。
一本一本の木々が、まるで天を支える柱のように、その枝を雲の中へと突き刺している。その森は、もはや森というより、一つの独立した世界のようだった。
「……あれが、古代樹の森『エルベノア』……」
パティが、息を呑んで呟いた。
森の入り口に立つと、空気が変わるのが分かった。ひんやりと、そしてどこまでも澄み渡った空気が、俺たちの肺を満たす。苔と、土と、名も知らぬ花の甘い香りが混じり合い、全ての音が、分厚い緑の葉に吸い込まれていく。そこは、神聖なまでの静寂に支配されていた。
そして、何よりも、この場所に満ちる魔力。それは、ダンジョンのような荒々しさも、獣人族のような猛々しさもない、どこまでも純粋で、温かく、そして、途方もなく古い、生命そのもののような魔力だった。
「行くぞ」
俺が先頭に立ち、一歩、森の中へと足を踏み入れる。
その瞬間、それまでかろうじて道のように見えていた獣道が、すっと掻き消えた。周囲の木々が、まるで意思を持ったかのように、その位置を変え、俺たちの進路を塞ぐ。
「なっ……!?」
「主、道が……!」
ゴームが、その剛腕で前方の木々を薙ぎ払おうとするが、その体は、見えない壁に阻まれたかのように、びくともしない。イフリートが放った牽制の炎も、緑の葉に触れる寸前で、力なく掻き消えてしまった。
この森は、俺たちの力を、完全に拒絶していた。
「お待ちください!」
パティが、書物に記されていた、古の儀礼に則って、森への敬意を込めた挨拶を、澄んだ声で唱える。
だが、森は、沈黙したままだった。
その時だった。
俺たちの周囲の木々の幹から、すっ、と、まるで水が染み出すかのように、十数人の人影が現れた。
彼らは、人間よりも遥かに長身で、しなやかな体つきをしていた。誰もが、美しい顔立ちと、長く尖った耳を持っている。身に纏うのは、生きている木の葉や蔦で編まれた鎧。その手に持つ弓は、聖なる気を放つ若木から削り出されたものだろう。
彼らこそ、森の民、精霊族。
彼らは、一言も発さなかった。ただ、その美しい瞳で、俺たちを静かに見つめている。その瞳には、感情というものが、一切浮かんでいなかった。だが、その切っ先は、寸分の狂いもなく、俺たち一人一人の心臓を射抜いていた。
彼らは、この森の番人。そして、森が拒絶すると判断した者を、ただ、静かに排除する存在。
パティが、再び外交使節としての口上を述べようとする。だが、俺は、それを手で制した。
(駄目だ。言葉も、力も、ここじゃ意味をなさない)
ガル・ラオウ王の言葉が、脳裏に響く。
『森に敬意を払い、その理を理解する必要がある』
敬意。理。
俺は、ゆっくりと、一人、前に出た。眷属たちが、俺を守ろうと動くのを、再び制する。
そして、目の前にそびえ立つ、ひときわ巨大で、古い木の幹に、そっと、手のひらを触れた。
俺は、目を閉じた。
そして、スキルを使うのではない。魔力をぶつけるのでもない。ただ、自らの意識を、その大樹へと、同調させていく。
語りかけるのではない。ただ、聞くのだ。
この森の声を。この木の、魂の声を。
瞬間、俺の意識に、途方もない時間の奔流が流れ込んできた。
芽吹き、太陽の光を浴びた喜び。嵐の夜の恐怖。仲間である木々が、寿命で朽ちていく悲しみ。何千年、何万年という、気の遠くなるような、この大樹の記憶。
それは、一つの、巨大な生命の、叙事詩だった。
俺は、ただ、それを受け入れた。
やがて、俺の手のひらが触れている幹から、温かい、木漏れ日のような光が、ふわりと溢れ出した。
その光は、波紋のように、周囲の木々へと伝わっていく。ざわ、と、森全体が、心地よい音を立てて歌い始めた。俺たちを拒絶していた、あの見えない壁が、消えていくのが分かった。
目の前で、俺たちに弓を向けていた精霊たちが、信じられないものを見るかのように、目を見開いていた。
やがて、リーダーと思しき、銀色の髪を持つ、ひときわ美しい女エルフが、その弓を、ゆっくりと下ろした。
そして、初めて、その唇を開いた。
その声は、木々の葉が擦れ合う音のように、静かで、美しかった。
「……森が、あなたを受け入れた……」
彼女は、俺の姿を、その古代の森のように深い、翠色の瞳で、じっと見つめた。
「我らの名は、森の番人『葉隠』。森に認められし魔族の子よ。我らの長が、あなたに会うことを望んでいます」
彼女は、俺たちに背を向けると、言った。
「来なさい。我らの聖域、隠れ郷『エリアドール』へ」
番人たちは、再び、森の中へと、音もなく溶け込んでいく。だが、今度は、彼らが通った後に、キラキラと光る苔が、道を示すかのように、残っていた。
俺たちは、顔を見合わせ、その光の道しるべを、静かに辿り始めた。
この森の民と、対話するための、最初の扉が、今、開かれたのだ。




