第36話 獅子王の帰還、そして裏切り者への鉄槌
王の咆哮。
それは、ただの大声ではなかった。百獣の王たるガル・ラオウの魂そのものを乗せた、魔力と威厳の波動。その一声は、混乱の極みにあった王城の喧騒を、まるで物理的に叩き潰すかのように、一瞬で沈黙させた。
中庭で繰り広げられていた戦闘が、ぴたりと止まる。宰相ギツネ派の兵士たちも、陽動の眷属たちと対峙していた兵士たちも、城内にいた全ての獣人たちが、まるで呪縛にかけられたかのように動きを止め、その声が響き渡ったバルコニーへと、一斉に視線を向けた。
そこに立つ、巨大な獅子のシルエット。
その姿を認め、一部の古参兵たちの間から、どよめきが起こった。
「……陛下……」
「ガル・ラオウ陛下……!ご無事であったか!」
その声は、驚きから、やがて歓喜へと変わる。彼らは、長きにわたり心を殺して、偽りの主に仕えていた、真の王の帰還を待ち望んでいた者たちだった。彼らは、その場で武器を捨て、地に膝をつき、王の帰還に、恭順の意を示した。
だが、全ての者が、そうではなかった。
「……馬鹿な」
中庭の中央、炎の鳳凰と対峙していた宰相ギツネが、忌々しげに顔を歪ませた。
「なぜ、あの抜け殻が……!もはや、立つことすらできぬはずだったのに!」
彼の動揺は、すぐさま怒りへと変わる。彼は、まだ自分に忠誠を誓う兵士たちに、ヒステリックに叫んだ。
「怯むな!惑わされるな!あれは、魔族の小僧どもが見せている幻術だ!本物の王は、病に伏しておられる!偽物に惑わされ、国を乱す不忠者どもを、一人残らず切り捨てよ!」
ギツネの言葉に、金で雇われた傭兵や、彼の甘言に与する若い貴族たちが、再び剣を構える。王城は、真の王に傅く者と、偽りの主に仕える者とで、真っ二つに分断された。
その、一触即発の状況を、バルコニーの上から見下ろし、ガル・ラオウが、再び口を開いた。
その声は、今や、戦場にいる全ての者の耳に、明確に届いていた。
「聞け!我が民、我が同胞よ!」
王の声には、もはや弱々しさなど、欠片もなかった。
「余は、長きにわたり、王としての責務を、そして獣の誇りを放棄していた、ただの臆病者であった!友の死に心を砕かれ、敵の脅威に膝を屈し、この玉座の間で、ただ沈黙を続けることしかできなかった!」
それは、王としてあるまじき、自らの罪の告白。その、あまりにも率直な言葉に、兵士たちは息を呑んだ。
「だが!」
王の声に、力がこもる。
「その沈黙こそが、この国を蝕む最大の裏切り者を、のさばらせる結果となった!宰相ギツネ!奴こそが、人間と密約を交わし、我らの同胞を、子供たちを、奴隷として売り渡していた、国賊よ!」
その言葉は、爆弾となって、城内に炸裂した。
「なっ……!?」
「我らの子が、人間に……!?」
ギツネ派の兵士たちの間にも、動揺が走る。彼らの多くは、ただギツネの権力と金に従っていただけで、その裏で行われていた、あまりにもおぞましい裏切りの内容までは知らなかったのだ。
「獣の誇りを忘れたか!」
王の叫びが、彼らの魂を揺さぶる。
「同胞を売り、己の安寧を貪る者に、未来などない!真の敵は、人間だけではない!我らの内なる腐敗こそが、我らの牙を抜き、我らの魂を殺していたのだ!今こそ、その牙を取り戻す時ぞ!」
王は、バルコニーの欄干にその巨大な手をかけ、叫んだ。
「余に続け!裏切り者に、正義の鉄槌を下すのだ!」
「「「「うおおおおおおおおおおっっっ!!」」」」
王の言葉に、それまで沈黙を保っていた古参兵たちが、一斉に雄叫びを上げた。その声は、瞬く間に、日和見を決め込んでいた他の兵士たちにも伝播していく。
戦いは、再開された。だが、それは、もはや魔族の眷属と獣人の戦いではない。
真の王の下に集い、誇りを取り戻そうとする者たちと、裏切り者の宰相に与する者たちとの、内戦だった。
「行くぞ!」
俺の号令と共に、俺たちもまた、バルコニーから中庭へと飛び降りた。
「ゴーム、王の盾となれ!」
「御意、主!」
ゴームが、王の周囲に、鉄壁の岩の壁を出現させ、敵の矢や魔法から、その身を守る。
「ディーネ、レイ、味方の負傷者を!」
「「はい、スタン様!」」
二人が、回復と支援の光を、王に味方する兵士たちへと降り注がせる。
「シル、ダーク、敵の指揮系統を乱せ!」
「まかせて、兄ちゃん!」
『……御意に』
シルが、ギツネ派の指揮官たちの目を風で眩ませ、ダークが、その影から、武器を弾き飛ばしていく。
そして、イフリートが、炎の化身となって、敵陣の最も分厚い箇所へと突撃し、その戦線を焼き尽くさずに、ただ力で粉砕していく。
俺とパティは、王のすぐ傍に控え、迫りくる全ての敵を、最小限の動きで無力化していった。
戦況は、一瞬で決した。
王の帰還という圧倒的なカリスマと、俺たちという規格外の戦力を得た王の軍勢の前に、ギツネの軍勢は、もはや赤子の手をひねるように、崩壊していった。
「く……くそっ……!なぜだ!なぜ、こうなる!」
追い詰められた宰相ギツネが、狂乱したように叫ぶ。
「このままでは、終わらん……!終わらせて、なるものか!」
彼は、懐から、禍々しい紫色の光を放つ、一つの宝玉を取り出した。それは、人間から与えられた、禁断の呪具だった。
「余の力では、不完全なままだが……。もはや、やむを得ん!」
ギツネは、その宝玉を、自らの胸に、強く押し当てた。
「おおおおおおおおおおおおっっっ!!」
絶叫と共に、ギツネの体が、ありえない方向へと捻じ曲がり始める。筋肉が醜く膨張し、骨が軋む音が響き渡る。彼の狐の顔は、狼の顎と、水牛の角を持つ、おぞましいキメラの顔へと変貌していく。
「……あれは、同胞の魂を喰らって、強制的に自己進化する、呪いのアーティファクト……!」
パティが、顔を青くして呟いた。
「なんという、おぞましいことを……!」
完全に獣の姿へと変貌したギツネは、もはや理性など失っていた。その赤い瞳は、憎悪と狂気だけを映し出し、敵も味方も関係なく、その巨大な爪で、周囲の兵士たちを薙ぎ払い始めた。
「……化け物が……!」
王の軍勢が、そのあまりのおぞましさと、圧倒的な暴力の前に、怯んで後退する。
俺が、一歩前に出ようとした、その時。
「――待て、小僧」
巨大な手が、俺の肩を、優しく、しかし力強く、掴んだ。
ガル・ラオウだった。
「……これは、余のけじめだ。余が、終わらせねばならん」
王は、背中に背負っていた、巨大な布に巻かれた何かを、ゆっくりと解いた。
現れたのは、黄金の獅子の紋章が刻まれた、あまりにも巨大な、両刃の戦斧。『ライオンハート』。王のみが振るうことを許された、獣人族の王の象徴。
「久しぶりだな、相棒。少し、腕がなまっているやもしれんが……付き合え」
王は、そう戦斧に語りかけると、一人、狂える化け物へと、歩み寄った。
それは、新旧の王の座を賭けた、最後の決闘だった。
凄まじい轟音と共に、王の戦斧と、化け物の爪が激突する。王は、傷つくことを厭わなかった。かつての自分自身の弱さと、絶望。その全てを、この化け物に叩きつけ、そして断ち切るかのように、ただ、ひたすらに、猛々しく、戦い続けた。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
王は、化け物の爪が、自らの脇腹を深く抉るのと引き換えに、がら空きになったその心臓部へ、ライオンハートの刃を、深々と、叩き込んでいた。
「……な……ぜ……だ……。これ、で……我ら、は……生き、残れる、はず、だった、のに……」
致命傷を受けた化け物は、ゆっくりとその姿を、元の痩せた狐の姿へと戻していく。
王は、脇腹から血を流しながら、その亡骸を、静かに見下ろした。
「……誇りを捨てて生きるは、死ぬことよりも、惨めなことよ。……さらばだ、ギツネ」
偽りの王が、完全に沈黙する。
それと同時に、残っていた宰相派の兵士たちが、一斉に武器を捨て、その場に膝をついた。
戦いは、終わった。
東の空から、最初の太陽の光が、渓谷の底にある王都へと差し込み始めた。その光は、血と瓦礫に塗れた中庭で、傷つきながらも、しかし、誇り高く仁王立ちする、真の王の姿を、神々しく照らし出していた。
城内にいた全ての獣人たちが、その姿を見ていた。
やがて、一人の古参兵が、その場で深く膝をついた。それに続くように、一人、また一人と、全ての兵士、全ての民が、王の前に、ひれ伏していく。
そして、誰からともなく始まった歓声は、やがて、王都全体を揺るがす、巨大な鬨の声へと変わっていった。
ガル・ラオウは、その歓声に応えるように、一度だけ、力強く戦斧を天に掲げた。
そして、俺とパティの方を振り返ると、その傷だらけの顔に、数年ぶりとなる、本物の、王の笑みを浮かべた。
「……夜明けだ。お主たちのおかげで、この国に、ようやく、本当の朝が来た」
王都サウナハウルに、誇りを取り戻すための、新しい一日が、始まろうとしていた。




