第35話 獅子王の覚醒、そして王都の夜明け
俺の言葉は、刃となって、王の閉ざされた心の殻を、貫いた。
ぴくり、と。
ガル・ラオウの、その虚ろだった瞳が、かすかに、動いた。その瞳の奥底で、忘れ去られていたはずの、かつての王の誇り。その小さな、小さな残り火が、ゆらりと、揺らめいた。その瞳が、初めて、俺の姿を、はっきりと捉えた。
玉座の間に、重い沈黙が落ちる。外で繰り広げられているイフリートとゴームの陽動の轟音が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。王の視線は、俺の顔、俺の瞳の奥にある何かを探るように、ただ一点に注がれている。やがて、彼はゆっくりと、錆びついたブリキ人形のように、その巨大な頭を上げた。その唇が、乾ききった音を立てて、かろうじて開かれた。
「……何を守る、だと……?」
その声は、何年も声帯を使ってこなかったかのように、ひどく掠れ、弱々しかった。彼は、自嘲するように、その力なく垂れ下がった爪先を見つめた。
「……余に、何が守れるというのだ。余は、無力だ。抵抗すれば、腹心が殺され、沈黙すれば、民が売られる。どちらを選んでも、待つのは地獄。希望など、どこにもありはしない」
彼の言葉は、諦念に満ちていた。
「ならば、心を殺し、全てを忘れ、ただ時が過ぎ去るのを待つことの、何が間違いだというのだ、小僧……」
その言葉と共に、俺の脳裏に、ダークが読み取ったであろう王の記憶の残滓が、濁流となって流れ込んできた。それは、一人の王が、その誇りを、魂を、砕かれていく、あまりにも悲痛な記録だった。
――それは、まだこの王都に活気が満ちていた、数年前の光景。
玉座に座す若きガル・ラオウは、その黄金の鬣を太陽のように輝かせ、その瞳には百獣の王たる覇気と、民を愛する優しさが満ち溢れていた。彼の隣には、常に一人の盟友がいた。白虎の獣人にして、王国最強の将軍、グレン。二人は、幼き頃より競い合い、認め合い、共にこの国を背負ってきた、光と影であった。
だが、その光の下で、蛇のように狡猾な影が、静かに、しかし確実に、その毒牙を研いでいた。宰相ギツネ。彼は、人間たちの圧倒的な力の前に、獣人族の未来はないと判断した。否、そう己に言い聞かせ、自らの保身と権力欲のために、人間と、あの屈辱的な密約を交わしたのだ。
『同胞を奴隷として売り渡すなど、万死に値する!ギツネ、覚悟せい!』
密約を知った王は激怒した。彼は、盟友グレンと共に、ギツネとその一派を捕縛し、その罪を断罪しようとした。だが、ギツネの方が一枚上手だった。彼は、人間から密かに供与されていた、魔力を封じる呪いの武具を使い、グレンたち王の腹心を捕らえてしまう。
そして、惨劇は、この玉座の間で起こった。
「陛下。これが、あなたの選んだ道の結果ですぞ」
ギツネは、鎖に繋がれたグレンを、王の目の前に引きずり出した。
「抵抗すれば、血が流れる。無用な血が。賢王であられるならば、お分かりのはず」
「……やめろ」
「やめてほしければ、誓いなされ。今後一切、我らのやることに口出しはせぬ、と。さすれば、この者の命だけは……」
『陛下!』
その時、血まみれのグレンが、最後の力を振り絞って叫んだ。
『聞いてはなりませぬ!獣の誇りを、忘れてはなりませぬ!どうか、ご心を強く……!我らの死を、無駄には……!』
グレンの言葉は、ギツネの合図と共に、振り下ろされた処刑人の斧によって、途中で断ち切られた。
生々しい音。床に転がる、盟友の首。その大きく見開かれた瞳は、最後まで、玉座の王を、その未来を案じていた。
熱い血飛沫が、ガル・ラオウの顔にかかる。その、あまりにも温かい親友の血の感触が、彼の心を、永遠に凍てつかせた。
自分のせいで、友が死んだ。自分が抵抗すれば、また誰かが死ぬ。その絶望が、百獣の王の牙を抜き、その魂を、この薄暗い玉座の間に、永劫とも思える時間、縛り付けていたのだ。
「……だから、諦めたのか」
俺が静かに言うと、王は、まるで壊れた人形のように、弱々しく笑った。
「諦めではない。現実を受け入れたのだ。我ら獣人族は、人間に敗れた。ただ、それだけのことよ……」
その時だった。
それまで黙って俺の後ろに控えていたパティが、毅然として、一歩前に出た。
「……それは、違いますわ、ガル・ラオウ陛下」
その凛とした声に、王の虚ろな瞳が、わずかに彼女を捉えた。
「諦めは、現実を受け入れることではございません。それは、未来を、そして、あなたを信じる民の心を、あなた自身が見捨てることと、同じです」
パティは、そのドレスの裾を少し持ち上げ、魔王の娘として、そして同じ王族として、深く、しかし堂々と、カーテシーを行った。
「私の母、魔王ルシフェリアも、長きにわたり、呪いという絶望と戦ってまいりました。何度も希望を打ち砕かれ、それでも、民のため、国の未来のために、決して諦めることはなかった。なぜなら、王とは、民が全てを失った時の、最後の砦であり、最後の希望であるべきだからですわ」
彼女は、顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいたが、それ以上に、強い光が宿っていた。
「陛下。あなたの盟友は、本当に、あなたの今の姿を望んでいると、そう思われますの?『心を強く』と叫んだ彼の最後の言葉を、あなたは忘れてしまわれたのですか!誇り高き獅子王の魂は、まだ、その胸の内にあるはずですわ!」
パティの、魂からの叫び。
それは、ギツネの甘い毒に蝕まれていた王の心に、初めて届いた、真実の言葉だった。
「……誇り……」
王の唇から、その言葉が、か細く漏れた。彼の巨大な拳が、わなわなと震え始める。
その、揺らめく残り火を、本物の炎へと変えるのが、俺の役目だった。
俺は、王の前に進み出ると、光の眷属レイを呼び寄せた。
「レイ。この人を、癒してやれ」
「はい、スタン様」
レイが、王の震える拳に、そっと手を触れる。彼女の手から、温かく、そして、どこまでも優しい光が溢れ出し、王の全身を包み込んでいった。
それは、肉体の傷を癒す光ではない。長きにわたり、絶望と罪悪感に凍てついていた、彼の魂そのものを、内側から溶かしていく、癒しの光だった。
「……あ……ああ……グレン……!」
王の瞳から、一筋、また一筋と、熱い涙が流れ落ちる。それは、友を救えなかった後悔の涙。民を守れなかった絶望の涙。そして、自らの誇りを、見失っていた悲しみの涙だった。レイの光の中で、王は、子供のように、ただ泣き続けた。
やがて、光が収まった時。
王の瞳は、もはや虚ろではなかった。
そこには、かつてこの国の全ての民を惹きつけ、全ての敵を震え上がらせた、百獣の王だけが持つ、覇者の光が、再び宿っていた。
彼は、ゆっくりと、しかし、揺ぎない動きで、玉座から立ち上がった。
その巨体は、先ほどまでの抜け殻のような姿が嘘のように、威厳と、圧倒的な力に満ち溢れていた。
「……魔族の、小さな童よ。そして、気高き姫君よ」
王の声は、もはや掠れてはいなかった。それは、大地を震わせるような、獅子の声だった。
「……余は、間違っていた。友の死を、民の苦しみを、己の弱さの言い訳にしていたに過ぎぬ。……礼を言う。お主たちのおかげで、余は、ようやく目を覚ますことができた」
ガル・ラオウは、俺たちに向き直ると、深く、深く、その頭を下げた。
「魔王の使者よ。改めて、問おう。お主たちは、我らに、何を望む?」
俺は、不敵に笑って答えた。
「あんたたちの誇りを、取り戻しに来た。そのついでに、あのクソ狐の首もな」
王は、俺の言葉を聞くと、初めて、獰猛な笑みを浮かべた。
「……気に入った。面白い。ならば、まずは、この城の掃除から始めるとしようではないか」
王の覚醒。それは、反撃の狼煙。
ダークがもたらすリアルタイムの情報と、王だけが知る城の構造、そして俺たちが持つ絶対的な力を組み合わせ、俺たちは、その場で、奪われた王権を取り戻すための、新たな作戦を練り始めた。
作戦は、決まった。
ガル・ラオウは、俺たちを連れて、寝室の奥にある、隠されたバルコニーへと向かった。
そのバルコニーからは、陽動の炎に照らされた、混乱の極みにある中庭が一望できた。
王は、眼下に広がる自国の惨状を、その目に焼き付けるように、じっと見つめていた。
そして、深く、深く、息を吸い込むと――
「「「「―――グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!」」」」
天と地を震わせる、獅子の咆哮。
それは、ただの声ではない。王の魔力を乗せた、絶対的な支配者の声。
戦いの喧騒が、その一喝で、ぴたりと止んだ。
宰相派の兵士も、陽動に立ち向かっていた兵士も、城内にいた全ての獣人たちが、何事かと、その声が響き渡ったバルコニーへと、一斉に視線を向けた。
そこに立つ、巨大な獅子のシルエット。
彼らの、真の王が、そこにいた。
王都サウナハウルに、数年ぶりに、本物の夜明けが訪れようとしていた。




