第四部 第十話『最後の願い』
始原界。
蒼い光が闇を照らす。
観測者の王が命を懸けて作った、たった一瞬の隙。
氷雨はその一歩を踏み出した。
「零さん!」
夜城零は小さく頷く。
「行け。」
その言葉だけで十分だった。
夜城零は《虚無創剣》を構え、虚空の正面へ飛び込む。
「俺が道を開く!」
黒い剣が閃く。
虚空は腕を振るう。
闇と虚無が激しくぶつかり合った。
その横を。
茜音が駆け抜ける。
「月斗!」
「今!」
月斗は静かに目を閉じる。
《天測》は未来を見る力。
しかし今見ているのは未来ではない。
世界中の願い。
数え切れない人々の想い。
「一本だけ……。」
「道がある!」
彼は叫ぶ。
「氷雨!」
「まっすぐ!」
氷雨は走る。
ただ前だけを見る。
後ろでは仲間たちが戦っている。
港町のみんな。
境界管理局。
咲希。
澪。
神喰らいだった少年。
創世の巫女。
そして夜城零。
みんなが繋いでくれた道。
虚空は静かに呟く。
「理解不能。」
「なぜ進む。」
氷雨は止まらない。
「怖いよ。」
「苦しいよ。」
「でも!」
希望の剣が眩しく輝く。
「一人じゃないから!」
虚空の前へ到達する。
その瞬間。
世界が止まった。
時間が静止する。
誰も動けない。
ただ。
氷雨と虚空だけが向かい合っていた。
虚空は初めて問いかける。
「願いとは。」
「何だ。」
その声には怒りも憎しみもない。
純粋な疑問だけがあった。
氷雨はゆっくりと答える。
「願いは。」
「未来を信じること。」
「誰かを想うこと。」
「泣いても。」
「笑っても。」
「生きたいって思うこと。」
虚空は静かに目を閉じる。
「私は。」
「願いを知らない。」
始まりの人が優しく言う。
「だから苦しかったのでしょう。」
氷雨は希望の剣を胸の前で構える。
「なら。」
「教えてあげる。」
「世界にはね。」
「悲しいこともいっぱいある。」
「でも。」
「それでも生きたいって思える瞬間があるんだよ。」
その言葉と同時に。
希望の剣が砕け始めた。
茜音が叫ぶ。
「氷雨!」
月斗も目を見開く。
「まさか!」
夜城零は理解した。
「違う……!」
「剣が壊れてるんじゃない!」
剣は無数の光へ変わっていた。
一枚の羽。
一粒の涙。
一輪の花。
一つ一つが願いとなり、始原界へ舞い上がる。
世界中の願いが光となって虚空を包んでいく。
虚空の身体に、小さなひびが入る。
だがそれは傷ではなかった。
闇の中から、小さな光が漏れている。
「これは……。」
虚空は自分の胸へ手を当てる。
温かい。
初めて感じる温もりだった。
「私は。」
「独りだった。」
誰にも届かなかった声。
誰にも見つけてもらえなかった存在。
世界が生まれる前。
永遠の闇の中で、たった一人だった。
始まりの人は静かに涙を流した。
「ずっと。」
「寂しかったのですね。」
虚空は初めて泣いた。
黒い涙が流れる。
その涙は地面へ落ちるたび、小さな青い花へ変わっていく。
創世の巫女が涙ぐむ。
「花が……。」
「咲いてる。」
しかし、その瞬間だった。
始原界全体に激震が走る。
ゴゴゴゴゴ……
始まりの人の表情が変わる。
「まずい。」
月斗が叫ぶ。
「何が起きた!」
始まりの人は静かに答えた。
「虚空は。」
「世界が生まれる前から存在していました。」
「もし虚空が消えれば。」
「世界を支える均衡そのものが崩れます。」
全員が息を呑む。
夜城零が苦しそうに呟く。
「倒しても終わりじゃないのか……。」
虚空は涙を流したまま、小さく笑う。
「ようやく。」
「願いを知れた。」
「なら。」
「私はもう。」
「消えても――」
「だめ!」
氷雨が叫ぶ。
その声は始原界いっぱいに響いた。
「あなたも助ける!」
虚空は驚いたように目を見開く。
「……私も?」
氷雨は力強く頷く。
「世界も。」
「あなたも。」
「誰一人、見捨てない。」
その瞬間、始まりの人は静かに微笑んだ。
「……これが。」
「最後の試練です。」
始原界の奥で、無数の光が集まり始める。
世界を救い、虚空も救う――。
それを可能にする最後の力が、ゆっくりと目覚めようとしていた。




