第四部 第八話『始まりの扉』
創世の外側。
鐘の音は、静かに、それでいて世界のすべてへ届くように響いていた。
誰も動けない。
観測者の王でさえ、その扉を見上げたまま動きを止めている。
ゆっくりと扉が開く。
その先は、光でも闇でもなかった。
何もない。
色も、音も、時間も存在しない空間。
「……あそこが。」
咲希が震える声で呟く。
「創世より前の場所。」
創世の巫女は静かに膝をつく。
「まさか……。」
「本当に存在したなんて。」
茜音が尋ねる。
「何なの?」
巫女は答えた。
「世界が生まれる前。」
「"始原界"。」
「すべての始まりです。」
その空間から、一人の人物が歩いてくる。
白でも黒でもない長い衣。
年齢も性別も分からない。
姿を見るたび印象が変わる。
老人にも。
子どもにも。
女性にも。
男性にも見えた。
ただ一つだけ変わらないものがある。
その瞳だけは、どこまでも優しかった。
「ようやく。」
静かな声。
「ここまで来ましたか。」
世界が、その声に安心したように震える。
神王は目を見開く。
「あなたは……。」
その存在は微笑んだ。
「私には名前がありません。」
「ですが昔。」
「ある世界では。」
「"始まりの人"と呼ばれていました。」
観測者の王が初めて剣を下ろす。
「管理権限。」
「最上位存在確認。」
「……停止。」
創世剣が静かに消えていく。
夜城零が低く言う。
「敵じゃ……ない?」
始まりの人は首を横に振る。
「私は敵でも味方でもありません。」
「ただ。」
「見届ける者です。」
氷雨は希望の剣を握ったまま尋ねる。
「あなたが世界を作ったの?」
始まりの人は少し考えてから答えた。
「違います。」
「私は。」
「最初の願いを聞いただけです。」
「願い?」
茜音が聞き返す。
始まりの人は静かに頷く。
「昔。」
「何もない場所で。」
「一つだけ願いが生まれました。」
『誰かに会いたい』
「その願いが。」
「最初の光となりました。」
世界の景色が変わる。
四人の周りに、遥か昔の光景が映し出される。
暗闇。
本当に何もない世界。
そこに、小さな光が一つだけ浮かんでいた。
その光は寂しそうに揺れている。
「独りは嫌だ。」
「誰かと笑いたい。」
その願いから。
二つ目の光が生まれ。
三つ目。
四つ目。
無数の命が誕生していく。
始まりの人は優しく言う。
「世界は。」
「愛から始まりました。」
「だから。」
「感情は欠陥ではありません。」
夜城零は静かに目を閉じる。
その言葉が胸へ深く刺さる。
観測者の王だけは動かなかった。
「矛盾。」
「感情は争いを生む。」
始まりの人は穏やかに答える。
「ええ。」
「ですが。」
「悲しみがあるから。」
「優しさも生まれる。」
氷雨は希望の剣を見つめる。
剣が淡く光る。
《希》の文字がゆっくりと変化する。
《願》
希望は。
誰かの願いから始まる。
その瞬間だった。
観測者の王の胸から、小さな光が漏れ始める。
「……異常。」
「感情発生。」
初めて。
その無機質な瞳が揺れた。
「私は……。」
「何を。」
「観測していた。」
王は自分の胸へ手を当てる。
遠い昔に失った記憶。
誰かと笑っていた景色。
誰かに名前を呼ばれた記憶。
すべてが少しずつ蘇っていく。
創世の巫女は涙を流した。
「思い出して……。」
「あなたも。」
「本当は生きていたんだ。」
しかし、その瞬間。
始原界全体が大きく揺れる。
始まりの人の表情が初めて曇った。
「……来ます。」
氷雨たちが振り返る。
扉のさらに奥。
始原界の深淵から。
巨大な黒い影がゆっくりと姿を現す。
それは今までの敵とは違う。
姿すら定まらない。
見る者によって形が変わる。
ただ一つだけ分かること。
その存在は――
"願い"そのものを喰らう存在だった。
始まりの人が静かに告げる。
「これが。」
「世界が生まれる前から存在していた唯一の闇。」
「――《虚空》です。」
氷雨は希望の剣を握り直す。
ここが、本当の最後の戦い。
世界の始まりを守るための、最後の一歩だった。




