047. ……ふふっ、よく覚えていましたね
◇ ◇ ◇
チャームとともに王宮で暮らせるようになってから、もう二週間近くになる。
初めの頃は、虐げられた記憶のせいだろうか、悪夢にうなされ飛び起き、そのまま泣き出してしまう夜が幾度もあった。その姿は、夜の闇に怯えていたあの頃と同じで、私はやるせなさと無力感に、胸が押し潰されそうだった。
しかし今は、お嬢様もよく気にかけてくださっているおかげか、楽しそうに笑う姿を目にすることが増えた。夜もうなされることはなくなり、私が共に寝てやれないときでも、一人で眠れるようになったようだ。
――だからきっと、もう大丈夫なのだろう。
使用人用の共同浴室。小さな木の椅子に腰かけたチャームは、泡が入らぬようぎゅっと目をつぶっている。
私よりも少し硬いその髪を、指でそっと梳かしていく。
「おね……メイド長! 記念式典の準備って、明日からでしたっけ?」
――ここを使うのはいつも、私たちが最後だ。よって、無理に口調を整えておく必要はないのかもしれない。けれども弟は律儀に言いつけを守り、敬意を持って私に接してくれている。それがなによりも誇らしく、そして素直に、嬉しく思う。
「ええ、そのとおり。……ふふっ、よく覚えていましたね」
「わっ……! あ、ありがとうございます……! えへへ……!」
――多少のドジはあるものの、覚えは悪いほうではなく、メイドとしての仕事にもずいぶんと慣れてきたようだ。初めは朝のうちからへたり込んでしまうこともあったが、体力がついた今では、私と同じスケジュールでもなんとかこなせている。生半可な覚悟では務まらないはずだが……それほどこの仕事に、なにか特別な思い入れがあるのだろう。
……一つ気付いたのは、どうやら弟はメイド服をいたく気に入っているらしい、ということだ。朝、姿見の前であれこれポーズを取っては、頬を赤く染めつつも満足気に微笑んでいるところを、よく目にする。変わった趣向なのかもしれないが、私としては可愛い弟がさらに可愛くなることに不満などあろうはずもなく。むしろその愛らしさのせいか、他のメイドたちにやたら可愛がられているのが、少し気に食わない……。
「……こほん。さ、流しますよ」
「あっ、はい!」
木桶に汲んだ湯をゆっくりとかけていく。私と同じ青い髪から、白い泡が肌を伝って流れ落ちていった。
――うっすらと骨が浮いてしまっていた手足も、今では指でつまめるほどの贅肉が付き、寝かしつける際の抱き心地もずいぶんと良くなっている。内務が主のため肌は白いままだが、それでも以前に比べれば、ずっと健康的な肉付きになったように思う。
「んむっ……! ぷはっ、えへへ……!」
顔の水気を手で拭ってやると、ぱちりと目が開く。そして目が合うなり、あどけない笑顔を見せた。
「――あっ、わわっ……!?」
……稀に、ごく稀にだが、弟があまりにも愛おしくて、気付けばこうして抱きしめてしまっていることがある。もちろん、二人きりのときだけではあるが。
「お、お姉ちゃん……? どうかしたの……?」
たった一人残った家族。ようやく取り戻せた大切な弟。その温もりが今、この胸の中にある。それを噛みしめるように、目を閉じた。
――お嬢様の身に起きた奇妙な現象。その解決の糸口さえ、まだ手にしてはいない。だがしかし、お嬢様には悪いが……私はいま生まれて初めて、心から幸せだと、そう思っている。
……この子も、そう思ってくれているといいのだが。
「チャーム、その……さっきの話だが……」
「さっきの……って?」
「……学園についてだ」
――あの時横目に映った弟の、羨ましげな顔が、どうにも頭から離れない。
「もし……もしお前が本当に、学園に通いたいと……そう言うのなら、私は……」
お嬢様の語っていた学園生活に、弟が憧れているのは明白だった。だがそれを応援してやろうにも、どうにも何かがつっかえてしまう……。
「……あのね、お姉ちゃん」
まるで、不安を抱えた子供を安心させるかのような、そんな優しい声色で、弟は言った。
「王女様の話を聞いて……いいなぁって思ったのは、ほんとだよ? 友達と一緒に勉強したり、遊んだりするの、すごく楽しそうだし……。それにね? ボク、エイトさんが戦ってるの見て、魔法ってかっこいいなぁって思って……いつかボクも、あんなふうになれたらなって……」
「そ、そうか……」
……なんということだ、まさかあいつに憧れてしまっていたとは……。だがしかし、私たちを救ってくれたあの時のあいつは、見慣れた可憐なお嬢様の見た目であったにもかかわらず、思わず見入ってしまうほどに凛々しく見えた。……癪ではあるが、無理もないのかもしれない……。
「……でもそれは、今じゃなくてもいいかなって。だってボク、メイドとしてはまだまだ見習いだから。まずはボクとお姉ちゃんを助けてくれた、エイトさんとアリア王女のお役に立てるような、一人前のメイドにならなくちゃ。でしょ?」
「っ……!」
――そのときようやく気付いた。『今じゃなくてもいい』という言葉に、安心した自分に。そして、『安心』してしまった理由に。
「……お姉ちゃんみたいな完璧なメイドには、なれないかもだけど……」
「そ、そんなことはない……! チャームは私が思うよりずっと、よくやっている……!」
「そう、かな……? えへへ、ありがと……!」
……私はただ、この子とほんの少しの間でさえ、離れたくなかっただけなんだ。
「それに、ね? ボクいま、お姉ちゃんと一緒にメイドとして働けてるのが、とっても嬉しいんだ。だから、大丈夫だよ!」
「……そうか」
――いずれこの子が真に望むときが来れば、その時は胸を張って送り出そう。それまでは……この幸せな時間が、少しでも長く続くことを、祈っている。
◇ ◇ ◇
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