佐伯佳乃
「らしくないよなぁ」
温室の机に肘をつき、七瀬君は遠い目をして呟いた。
壁に掛かったアナログ時計の針は、夕方四時半前を差し示している。放課後に入って、直に一時間が経過しようとしていた。せっかく個人として話をしに来てくれているし、今日になって突然気温が下がったこともあるし、ということで、わたしは七瀬君にミルクココアを振舞うことにした。わたしの好みで手近に常備してあるものだから、少しくらい七瀬君にあげても問題にはならない。いや、そもそも教師が生徒にココアを出したくらいで問題になるはずもなかった。わざわざ放課後の温室に足を運ぶ生徒なんて、巨大な辻ノ瀬学園と言えども、本当に限られた面子だった。
湯気の立つマグカップを七瀬君の前に置くと、七瀬君は、ありがとうと言って早速それに手をつけた。一口飲んで一息吐き出し、七瀬君は言う。
「佐伯先生、優しいよな。俺、先生が今までココア出してくれたことなんてないよ」
「ほかにも生徒がいっぱい来るなら、こんなサービスできないんだけど」
「朝、咄嗟に藤と三橋の喧嘩を止めに入ってくれただろ。あのふたりもラッキーだよな。たまたま通りがかったのが佐伯先生じゃなくて生徒課のジジイ先生だったりしたら、どうなってただろ。考えるだけでだるい」
だるい、と言い放つ七瀬君は、如何にも現代っ子だ。金髪にピアスなのは少々現代っ子すぎるか。散々担任の先生にも、生徒課の早川先生――七瀬君はジジイ先生なんてよくない呼び方をしているけれど、とにかくいろいろな先生に注意されていることは明白だし、わたしは敢えてそのことには触れないようにしていた。それに、七瀬君は不良っぽい外見だけど、少し話せばピュアで優しい男の子だということがわかる。金髪とピアスも、問題児がグレて勢いでやったそれとは違うような気がする。事情も理由も知らないけれど、わたしはなんとなくそんなイメージを抱いていた。
頭の奥で、今朝の出来事が再生された。これで何度目の回想になるのか、既に正確な数はわからなかった。三橋君の胸ぐらを掴みあげていた藤君の形相は、無表情ながら圧倒的な威圧感を伴っていた。物怖じすることなく対等に藤君と張り合っていた三橋君も、はっきり言って中学生離れしていた。三橋君は小柄で大人しい子供という印象だったのだけど、わたしの読みはどうやら外れていたようだ。三橋君は割りと大胆だ。
「三橋君って喧嘩するタイプなのね。わたし、意外だった」
「喧嘩するタイプ、というか」
七瀬君はカップにもう一度口をつけた。人差し指をたてて、七瀬君は言う。
「いろいろ露骨なんだよな。思ったことをずばずば言って、怖いもの知らずな感じ。三橋が編入してきたその日、一回俺とも喧嘩したよ」
「初日に七瀬君と? 七瀬君、そのとき既にその頭と耳でしょ?」
「だから、怖いもの知らずなんだって。あのときも三橋があまりに露骨だったから、ブッチきちゃったんだよなー」
まぁそのことはいいんだけどね、と七瀬君は一旦話を締めた。わたしとしてはかなり興味深い内容だったけれど、今は過去の思い出に花を咲かせているような場合でもない。また今度よければ聞かせて欲しいと一応伝え、わたしも自分のカップを手に取った。
「柄じゃないのは、三橋よりも藤のほうだよ。あの藤が胸ぐら掴みあげてるなんて」
「三橋君と藤君、なにかあったの? このふたりが絡んでて、珍しいことがあったとか」
「珍しいこと」
わたしの言葉を繰り返し、七瀬君は、低く唸った。一頻り首を傾げた後、七瀬君は頬杖をついた。少し上向きがちに首を捻り、思い返すように七瀬君は言う。
「先生と一緒にコケダマ作った日、帰りに藤と一緒に夏也のとこに行ったんだ。呼び鈴鳴らしても出てこなくて、出直したほうがいいんじゃないかって話してるときに、夏也が帰ってきたんだよな。なぜか三橋と一緒だったんだけど」
夏也、とは壱井君のことか。ここで壱井君の名前が登場するとは、全然予想していなかった。
「それって珍しいの?」
「夏也は学校に顔出してないし、四月に編入してきた三橋とはほとんど接点ないはずじゃん。そりゃ多少の絡みはあったかもしれないけど。それにその日、三橋の奴、用事があるとか言って俺を置いて帰りやがった。それなのに夏也と一緒に出てくるってことは、夏也が個人的に三橋を呼んで、それを三橋が了承したって考えるのが自然だ。そう考えるとレアだよな」
なるほど。七瀬君の説明は的確で、普段は辻ノ瀬学園中等部三年四組にいないわたしでも、出来事の流れをよく理解することができた。ただ、疑問に思ってしまうのは、それでどうして藤君が三橋君に突っかかるのかということだった。思うままにわたしが口にすると、七瀬君は、飽くまで俺の推測だからね、と前置きした上で答えてくれた。
「わざわざ名指しで人を呼ぶんだから、夏也はたぶん、どうしても相談したいことか言いたいことがあったんだ。その相手として、夏也は幼馴染の藤じゃなくて知り合って浅い三橋を選んだ。藤にとってはそれがショックだったんじゃないかな」
その場合、藤君が怒りをぶつける相手は三橋君ではなく、壱井君というのが正しいことになる。けれどその壱井君は学校に現われないのだから、藤君は、学校に現われる三橋君に苛立ちをぶちまけるしかない。呼ばれて応じた三橋君に当たるのは、わたしが考えてもお門違いだ。成績優秀で動作も物腰も大人びているけれど、藤君も荒ぶる感情を上手く消化しきれない子供のひとり、と言ったところだろうか。となれば、藤君はらしくもなく自分が感情的になってしまったことを後悔しているかもしれない。
「壱井君は、どうして藤君じゃなくて三橋君を選んだのかな」
「詳しい理由はわからないけど、藤には言いたくなかったってことは明らかだよな。勘がいい藤をわざと避けた、ってことだから」
七瀬君は、言葉を区切った。なにかすごい事実でも出てくるのかと、わたしは思わず背筋を伸ばす。そうしてしまうのも仕方なかった。藤君は大人のわたしが見てもミステリアスだし、どこか普通の子供とは違う、言葉は悪いけど異形の空気を伴っている。今ここで彼に関する衝撃的な真相が暴露されたと仮定する。多少の驚きは感じながらも、藤君ならばと頷いてしまいそうなのだ。たとえ藤君が年相応に感情に支配されることがあったとしても、当初からわたしの中に沈殿している彼の印象に変わりはなかった。
一瞬で脳内を巡ったわたしの覚悟とはほど遠く、七瀬君はゆったりとした動きでココアを口に含んだ。
「佐伯先生、藤にずば抜けた霊感があることは知ってる?」
頭の中に、すぐに関わりのある情報が浮かび上がった。辻ノ瀬学園中等部三年四組、藤忠勝君に関する噂。藤君には日常的に霊――死んだ人間や動物が見えている。いきなり虚空に向かって拳を繰り出したり、なんの予兆もなく思い切り窓を閉めたりするのは、ちょっかいを出してくる霊を追い払っているため。わたしも何度か、藤君が机を蹴り上げた現場に遭遇したことがある。あまりに突然だったので、余程わたしの授業が気に食わないのだ、と密かに怯えていた。その授業の後の休み時間に、女子生徒が藤君のことを教えてくれた。だから先生気にしないで、と。
藤君はお調子をやる子でもなさそうだし、頑なに霊の存在を否定するタイプでもないわたしに、彼を疑う理由はなかった。波風は起こるはずもなく、今までわたしは平和に三年四組の生徒たちと授業を共にしてきた。そうだというのに、今になって七瀬君はその話題を振ってきた。どんな意味があるのかと、わたしは七瀬君の言葉に耳を傾けた。
「藤が自分で言ってたことがあるんだけど、自分の霊感は、かなり中途半端なんだってさ。見たくないのに見ちゃうし、だから力ずくで追っ払うんだって。本当に霊感が強い奴なら、自分の意思で力をセーブして、普段はそういうのを見ないようにするはずだって言ってた。藤には、それができないんだよ」
「つまり、どういうことなの」
「俺も、ほんの思いつきで言っただけだし。どうにも信じらんないんだけど」
言いにくそうに口を噤む、七瀬君の背中を押した。七瀬君は再びココアで喉を潤す。風も冷たいし、熱かったココアもそろそろ冷めてきた。
「夏也が死に向かってるって言うじゃん。そんなこと言うのは、夏也に命の終わりが見えるからじゃないかって思って。それを藤に言ったら、真に受けちゃって」
「どうしてそんなこと思いついたの」
「本当に思いつき。お化けが見える人がいるなら、人が死ぬのもわかる人だっていそうじゃん」
そしてそれが壱井君だと。七瀬君は、そんなことを閃いたわけだ。特に含みのない発想だと思う。身近に霊が見える友達がいるなら、考えつきそうな事柄ではあった。
「だから藤は、夏也が三橋にそれを言ったと思ってるんじゃないかな。それで、付き合いの長い自分よりも三橋が選択されたことに苛立ってる。ってことは、藤と三橋がいがみ合ったのって、突き詰めれば俺のせいってことだよな」
「でも、藤君ってそんなのいきなり信じるかな。自分に特別な力があっても、突拍子ない思いつきを真に受けるとはわたしには思えないけど」
「藤にそう判断させるだけの材料は、既に揃ってたってことだよ。自分に第六感があるなら尚更、俺の思いつきにも信憑性がついてくる」
言われてみればごもっともな意見だった。わたしなら頷きつつ話を聞いて、それ以上のことなどなにひとつ達成できなかったとしても、藤君は更にその次のステップへと進むことができる。全体的に年齢にそぐわない藤君だからこそ、ありえることだった。悲しいかな、わたしは八歳年下の中学生の男の子にそういう場面において完敗している。
俺が原因作ったのかな、と自己を苛む七瀬君を宥め、わたしは、壱井君の言動を振り返ってみた。
「死に向かっている」。確かにそんなことは言っていたと思う。発想できることはいろいろあるけれど、なんにせよ、その言葉は壱井君のキーセンテンスでもある。彼と接するときに忘れてはならないと、わたしは胸に台詞を刻み付けた。同時に、ひとつの疑問が浮かび上がった。日常的に死を意識しているような子供が、コケダマをあげたくらいであんなに喜んでくれるものだろうか。もしかして、と思いつくと同時に、自分でそれを否定した。なにはともあれ、やっぱり壱井君のことは気になる。幸い彼は、わたしにいろいろな話をしてくれる。最初から壱井君を異常視しているほかの教師には無理かもしれないけれど、最低限、わたしは壱井君の話を聞くことができる。もう少し壱井君と向き合えば、彼がどうして日常的に死ぬことを考えているのかを理解できるかもしれない。理解してあげたい。そこまではいかなくても、理解したい気持ちくらいは示してあげたい。わたしは純粋にそう思っている。今度はいつ壱井君を訪ねてみようか。頭の中のカレンダーを捲りつつ、わたしはぼんやりと考えた。




