三橋優輝 2
昨夜はどうにも寝つきが悪く、優輝はほとんど寝不足だった。目蓋を擦りつつ椅子を引いて席に着くと、一瞬の睡魔が優輝に迫る。ベッドに入るだけ入ってまともに寝ていないのだから、抵抗する術などなかった。目蓋を下ろした瞬間に、眼球の裏側で昨日の光景が蘇った。虚空を空回りする自転車のタイヤ、宙を舞った少年、そう、駆けつけた警官に壱井が即刻「即死だ」と告げた少年だ。自分はあまり表情を変えないタイプだと自覚していた分、受けた衝撃は強烈だった。朝一番から、先日のインパクトを思い起こしては目を冴えさせる、そんな小さなリズムを刻み続けていた。
頭を使うには、覚醒があまりに中途半端だ。若干の頭痛さえも患いつつ、優輝は額を片手で支える。壱井は、あらゆる生命の終焉を視覚で察知することができると優輝に告げた。別に自分に言わなくてもとは最初に思ったが、壱井曰く「友達だからこそ言えることがあるのと同じで、友達だからこそ言えないこと、言いたくないことがある」らしい。話を聞くことくらいなんでもないが、それでも、壱井の告白はあまりに度を越していた。
騒がしい教室が優輝の五感を不快に刺激している。自分がこんなにも参っているのに、無邪気なものだと内心で毒づく。教室は箱だ。箱に、無数の煩い音の塊を詰め込まれている。
優輝は教室の入り口を見やる。登校の時間帯なら、いつも開け放たれている教室の扉が今日はしっかりと閉じられていた。優輝も流れに沿って扉を閉めて席に着いたが、要はもうそういう季節ということだろう。とは言ってもまだ十月中旬で、涼しいことはあっても寒いことはないはずなのだが。今日は、前日までとは比較対象にならないほどに空気が冷え込んでいる。
あれほどに夏の暑さを引きずっていたというのに、いざ季節が変わり始めるとこの様だ。そういえば七瀬はもうセーターを着ていた。教室を見渡すと、セーターに袖を通しているクラスメートが優輝の目に入った。自分もセーターを着ようか、と思案した矢先、優輝の肩に手が乗った。
「おはよう」
振り向くと、そこには藤が立っていた。藤もまた、ベージュ色のセーターを着ている。藤が身に纏うオーラは、いつでもどこか異質だ。今日はその密度がいつも以上に濃い。不穏な空気を感じ取りながらも、優輝は挨拶を返した。
抜けるような黒の藤の瞳が、一瞬、優輝の目の奥を貫いた。ような気がした。現実にはあり得ないそんな妄想が、優輝の頭の中で弾けた。日常的に特異な空気を醸している故に、いつもと異なる藤の様子は、一種の畏怖さえも呼び起こす。目の前の藤が同じ年齢の子供だとは、今の優輝には思えなかった。
優輝の肩から手をどけて、藤はわざとらしく腕を組んだ。いつもならさっさと自分の席に座るのにと、優輝の目には、藤がますます不審に映った。
「急に寒くなったよな。この分じゃ、夏也の誕生日頃には雪が降ってるぞ」
いきなり壱井の話題か。藤が意味もなく壱井の名を出すとは思えず、そうかと言って、藤が暗に示す意図などわかるはずもなかった。壱井の誕生日っていつなの。優輝が言いかけたところで、藤は自分の言葉でそれを掻き消した。
「十月二十三日。某バンドのヴォーカルと同じ誕生日だな」
「なにか怒ってるわけ」
率直に訊ねると、藤は組んだ腕を解いた。重ねて優輝は問う。
「で、その原因は僕にあるの? だから僕にあてつけてるんだ」
「別にお前に怒ってるわけじゃない」
「じゃあ壱井?」
藤は黙り、微かに視線の先を優輝から逸らした。至極微妙な動作だが、藤にしては珍しく、感情が表に出たわかりやすい行為だった。藤が壱井に対して憤っていることは、最早明白な事実だった。
「どうして壱井に怒ってるの?」
「関係ないだろ」
「壱井が忠勝君じゃなくて、僕に秘密を打ち明けたから?」
目を見張っていなければ気付かないような、それほどの僅かな範囲内で藤の肩が振動した。藤は飽くまでクールだが、図星を突かれて知らぬ振りを貫けるまでに器用ではないらしい。普段中学生離れしているだけに、妙なところで上手に立ち振る舞えないその姿が、優輝からすれば斬新だった。不本意ながらも藤の弱みにつけ込めたようで、若干の娯楽性さえも覚えた。
この状態を少しの間楽しみたいと思うのはサディスティックだろうか。それでもいい。自問自答はあっけなく収束し、優輝は藤に言う。
「壱井、言ってたよ。友達だから言えることもあるけど、友達だから言えないこともあるって」
「そんなこと訊いてない」
「忠勝君は、壱井が自分じゃなくて僕のほうに秘密を教えたってことが不快みたいだけどね。最低限、忠勝君は間違いなく壱井の友達だよ。だから言えなかった。だから友達じゃない僕を選んだ」
「訊いてないって言ってるだろ」
「嫉妬なの? 忠勝君、かっこいい顔して結構女々しいんだね」
直後、優輝の視界がずれた。座っていた椅子を引き倒し、瞬間的に優輝の呼吸が詰まる。最後の一言は過ぎた挑発だったか、と少し反省したが、それでも胸ぐらを掴み上げられるほどのことか。藤が相当苛立っていることは、優輝の襟元を捻る手を見れば一目瞭然だった。神経の浮き上がったその手に、優輝は自分の手を当てた。藤の力も侮れないが、優輝とて一方的に攻められ続けるのは割に合わなかった。藤の手をどけようと、優輝も藤と同じ片手に力を込めた。何事かとクラスメートが仲裁に割って入るが、優輝も藤も、そちらに視線のひとつも寄越さなかった。廊下から教室内に生徒課の佐伯とクラスメートの七瀬が飛び入ってきたのは、そのときだった。
「お前らなにしてんだよ、朝っぱらからバカじゃねえの!?」
七瀬が語気を強めながら藤の身体を抑え込み、佐伯が優輝の肩を両手で引っ張る。優輝と藤は引き剥がされたが、藤の視線は尚も鋭かった。優輝を睨むその双眸には、疑う余地なく殺気立った藤の心情がそのまま現われている。優輝は目を逸らさず、黙って藤を見続けていた。
第三者の力ずくではあったが、藤が優輝を解放したことで、事態はとりあえず収まった。そのことに安心したらしい七瀬が、深い息を吐き出した。意味もなく連鎖して溜息を吐きそうになった優輝に、七瀬は怒号の声を飛ばす。
「なにがあったかは知らないけど、お前はちょっと露骨すぎるとこがあるんだよ! もう少しオブラートに包むとかできねえのかよ!」
つまり、オブラートに包めばなにを言ってもいいということか。それはそれで、七瀬の着眼点もおかしいような気がするのだが。この状況でそんなことを言えば、屁理屈になることくらいはわかる。だからと言って大人しく頷くのも気が進まないので、優輝はなんの反応も示さなかった。
優輝のリアクションなどには目もくれず、七瀬は次に藤を指差した。朝から七瀬は異様に元気だ。
「三橋はともかく、藤が喧嘩するなんてらしくない。なに苛立ってんだよ」
ともかく、とはなんだ。腑に落ちない一言が少し神経を撫で上げたが、いちいち腹を立てていてはきりがない。七瀬の派手な金髪から、優輝は藤の真っ黒な髪に視線を移した。
「別に」
強張った教室の空気に、藤は投げやりに吐き捨てた。藤の瞳が荒々しく教室全体を見回し、優輝を見据え、やがて長い睫毛を伏せる。藤は身体を拘束する七瀬の腕を乱雑に振り払った。
「別に、なんでもない」
「ちょっと、藤君」
気だるげに言い放ち、優輝の目の前を歩き去ろうとした藤を佐伯が呼び止めた。思い出したような呼び方をしたあたり、佐伯先生も、いつもの藤らしくない荒れたオーラに困惑しているのだろう。佐伯は今年教師になったばかりだが、その分、年のいったほかの教師たちよりもよく生徒のことを見ている。少なくとも優輝にはそう思えた。
佐伯は少し強めの口調で言う。
「そんな態度はダメでしょ。藤君と三橋君がどんなやり取りをしたのかはわからないけど、それじゃ周りのみんなも気まずい空気になるし、七瀬君だって困るじゃない」
「あ、先生。俺のことは別に」
「大丈夫。挑発したのは僕のほうなんだし」
間に入ろうとした七瀬を押しのけ、優輝は佐伯と藤を見据えた。喋っているのに被せるな、と七瀬が不満げな顔をしているが、優輝は、だからと言って大人しく引き下がることはしない。七瀬の視線を背面に流し、優輝は言う。
「悪かったよ、忠勝君。朝から変なこと言ってごめん」
佐伯に呼び止められたままに、藤は足を止めている。いくらかの秒数が経過した後、藤は答えた。
「こっちこそ」
振り返ることなく、つまりは優輝の反応を見ることなく、藤は自分の席に着いた。藤の周囲に漂う空気は相変わらず異様だが、とりあえず問題は解決したということで良さそうだ。呆然と瞬きを繰り返すクラスメートと七瀬、そして佐伯を優輝は手早く見渡した。
「仲直りしたから、もう平気だよ」
「表面的にはそう見えたけど、お互いが心の底から謝ってたようには思えないんだけど」
低いトーンで、七瀬がぼやいた。優輝は再度七瀬を無視し、何事もなかったかのように自分の席に座り直した。




