壱井夏也
このタイミングで藤と詩仁と顔を合わせることになるとは、完全に予想外だった。後ろ手でドアの鍵を閉めながら、浅く溜めた息を吐き出す。俺ひとりで帰ってきたならまだしも、今日は三橋が一緒だったのだ。俺と三橋の組み合わせは明らかに不自然だろうし、なにより三橋は、人の命が果てた瞬間を目の当たりにしたショックのせいでかなり参っていた。俺が意図してそんな展開に持ち込んだわけでもないけれど、やっぱり罪悪感は残る。俺が気まぐれで三橋を呼び出していなければ、少なくとも、三橋が自転車の男の子が事故に遭う瞬間に遭遇することはなかったはずだ。
勘のいい藤。なにも察知しないことは、おそらくないだろう。三橋の違和感には絶対に気付く。それはむしろ、俺にとってはいいことのはずだ。もともと俺は藤に自分の能力を打ち明けようとしていて、結局それができていなかったのだから、今回のパターンは悪くない。三橋を通して藤に伝わる。でも何故か、俺はそのことを考えたくなかった。何度も何度も試行錯誤して、俺の力を知ったら藤がどんな気持ちになるか、それを踏まえて三橋を選んだのに。ひとりで耐え続けるのがいい加減で怖くなっていた俺の我儘、それで結局、まったく巻き込む必要のなかった人間を巻き込んでしまったことになる。俺の選択はいつだって最善にはならない。
フローリングの床に直に腰を下ろし、藤から受け取ったコケダマを眺めてみた。以前に佐伯先生がくれたものとほとんど変わらなかった。勉強も運動も反則的に得意なのに、藤の奴、指先もまめに動かせるようだ。そういえば初等部の頃、藤は紙粘土を使った造形大会ではいつも金賞だった。基本的にできないことがなかった藤は俺の憧れだった。
「できないことがない、か」
ぼんやりとコケダマを見つめながら、なんとなく声に出した。途端に虚しくなってきた。俺にできないことはたくさんある。じゃあ、できなくないことは。一瞬、思考を巡らせた。その先で、チャイムが鳴った。跳ね起きて、玄関へ走った。その秒数はほんの僅かなのに、チャイムは、狂ったように連打されている。鍵を開けてノブを回すことさえもどかしく、できる限りの素早い動作でドアを開けた。いつも通りに、マスカラとリップグロスを使ったメイクをした彼女がそこに立っていた。
今日は帰ってきてくれた。その一点が嬉しかった。次第に緩む頬を誤魔化しきれないまま、俺は口を開いた。開いたまではよかった。
「おかえり、岬姉ちゃん。今日はどう」
「どうしたの、早いじゃん」。最後まで言い切る前に、岬姉ちゃんは俺の横を通り抜けた。俺の目なんて一度として見なかった。いつものことだった。でも、慣れないことだった。俺の姿など最初から見えていないかのように、岬姉ちゃんは堂々と歩き去っていく。不必要に大きな足音は、もしかして俺へのあてつけなのだろうか。一瞬そんなことを考えて、思慮を振り切った。戸締りを確認した後、岬姉ちゃんを追って早足でリビングに向かった。
「岬姉ちゃん、ご飯は? 帰ってきたってことは今日は家で食べるんだよね」
岬姉ちゃんはなにも言わず、リビングを抜けて自分の部屋へと引っ込んだ。俺が家にいることに気付いていないのだろうか。気付いていないわけがなかった。岬姉ちゃんは俺を無視する。考えたくないことだ。俺は思考にストップをかけようと努めたものの、一度廻り始めた脳は、すぐには活動をやめてくれない。認識したくないのに認識してしまう。姉ちゃんは俺のことが嫌いなのだ。何度辿り着いたかわからない、岬姉ちゃんの俺への情。静かに閉じられたドアも、却って俺に対する嫌悪を表しているような気がする。
岬姉ちゃんが俺を慕ってくれなくても、俺は岬姉ちゃんのことを慕っている。俺に言わせれば、それは当然のことだった。八歳離れている岬姉ちゃんは、俺から見れば随分大人だ。優しくて、美人で、人の痛みがわかるひと。俺はずっとそう思ってきたし、今でもそう思っている。岬姉ちゃんは、少し前はすごく優しかった。その部分がちょっぴり見えにくくなっただけで、今だってそのはずだ。岬姉ちゃんに背を向けられる度、俺はそう思うことにしている。そうしないと毎日どうかしそうだし、そうするしかなかった。
幾ばくかの時間が経過した後、岬姉ちゃんは部屋から出てきた。化粧を直し、先刻よりもちょっと派手な格好に着替えた岬姉ちゃんの肩には、どうやら外泊用の荷物と思われる鞄が提げられている。胸の奥に、なんとも言えない焦燥が沸き上がった。大きな荷物と岬姉ちゃんの顔を交互に見やり、俺は再度、岬姉ちゃんの顔を見た。化粧のせいでもあるけれど、やっぱり岬姉ちゃんは綺麗な顔立ちだった。
「今日も彼氏のとこ行くの?」
その彼氏の名前は、俺も知っている。姓は知らないけれど、ケイスケと言ったはずだ。直接教えてくれたことはないけれど、一度だけ、岬姉ちゃんが電話でその名前を口にしたのを聞いた。同じケイスケという名前の彼氏ができていなければ、岬姉ちゃんはそのケイスケさんと三年以上は付き合っていることになる。
姉ちゃんは、やっぱりなにも言ってくれなかった。無視されることなんて日常茶飯事なのに、いくら経験しても実の姉にシカトされるのは辛い。堪え切れず、俺は一瞬視線を落とした。
岬姉ちゃんが横をすり抜ければ、背中まで伸びた髪の香りが舞い上がった。ふわりと鼻を通ったシャンプーの匂いは甘く、心地良い芳香だからこそ、余計に頭上にケイスケの存在が圧し掛かる。岬姉ちゃんのシャンプーの匂いを、ケイスケは俺の比でなく身近なものとしているのだ。
はっきりと言い切ることができる。見たことはないけれど、岬姉ちゃんの彼氏であるケイスケが俺は大嫌いだ。
岬姉ちゃんは玄関でブーツに足を通し始めた。徹底的に俺をないものとしている岬姉ちゃんの背中に、俺は必死に語りかけた。
「岬姉ちゃん、今度はいつ帰ってくる? 今日さ、父さんも帰ってこれるんだって。一緒にご飯食べれるんだけど」
ブーツを履き終えた岬姉ちゃんは、荷物がたくさん入った鞄を片手に、ドアノブに手をかけた。岬姉ちゃんが行ってしまう。咄嗟に俺は口を動かした。
「岬姉ちゃん、帰ってくるよね」
割りと大きな声になってしまった、と俺は思う。それでもやっぱり、岬姉ちゃんが返してくれる言葉はなにもなかった。結局、今日も一言も会話できなかった。
鍵が開いたままのドアを見つめ、俺は呆然と立ち尽くしていた。俺と岬姉ちゃんの関係は、もうこの先永遠に、ずっとこうなのだろうか。恐ろしい妄想が脳内に立ち込めた。嫌な想像を振り払うのも、いい加減で億劫になってきた。俯いて浅く溜息を吐いた。
ドアの施錠をして、ひとりリビングへと引き返した。小さな円形のお皿に乗って、藤お手製のコケダマは床に安置されている。俺はじっとそれを眺め、もっと近くで見てみるために、コケダマが視線上にくるよう調整して寝そべった。横から見ても、コケダマの表面はコケだった。
「藤がせっかく作ってくれたんだから、お前は長生きするんだぞ」
言い聞かせながら、俺はコケダマを突っついた。一枚だけついているアイビーの葉が、突かれた振動で上下に揺れた。頷いているようで、ちょっぴり面白かった。波に乗って何度か突いて遊んでいるうちに、再び家のチャイムが鳴った。直後、鍵を回す音がした。一度チャイムを押してから自分で鍵を開けるのは、父さんが帰宅した合図だ。俺は身体を起こし、早足で玄関へ向かった。
「おかえり。早いね」
「ああ、ただいま」
くたびれた作業着の袖から覗かせた手で、父さんは俺の頭を軽く撫でる。見ている人なんて誰もいないのに、俺は少し照れくさくなった。岬姉ちゃんは俺の声を聞いてくれないけれど、父さんは聞いて、答えてくれる。その嬉しさも混ざり合って、勝手に俺の頬は緩んでいた。父さんは、父さんだけは、俺のことを愛してくれる。父さんは俺を絶対に裏切らないし、傷つけない。俺も父さんを裏切らない――とは、言えない。現に俺は十四歳なのに、完全に喫煙者だ。その時点で親が望む我が子の理想像を見事に粉砕しているに違いない。わかっている。そんなことわかっているけれど、今は、余計なことを考えたくない。
頭の上に置かれた父さんの手に、俺はそっと指先を当てた。マメだらけの父さんの手は、幾分秋が過ぎた頃合らしく、少しずつ荒れてきている。触れただけで、父さんの日々の苦労が伝わってくる。言いがたい気持ちが俺の中で波立った。
「姉ちゃんが帰ったのか」
いきなり喉に蓋をされたようだった。見透かされたことに小さな驚きを覚えながらも、俺の内には、安堵している部分もあった。自分の苦労など一切語らず、父さんはいつだって俺のことを見透かしている。違う、見透かしてくれるのだ。言いたくないことを言わなくても、俺のことなら、父さんはわかってくれる。自分でも、幼稚な甘えだと思う。でもそれは、そんなに悪くないことだと思う。わかってくれるからわかってもらいたい、単純な話だ。
「そうか、また出かけたんだな」
あからさまに俺を視界から弾き出す、岬姉ちゃんの背中が目蓋に蘇った。俺が岬姉ちゃんに無視され続けていることは、父さんも知っていた。
「現実を少し受け入れにくいだけだよ。なにがどうなったとしても、夏也は姉ちゃんの弟なんだから」
「岬姉ちゃん、俺よりもケイスケって人のほうが大事なんだよ。俺とケイスケ、どっちかが生きてどっちかが死ぬなら、ケイスケを選ぶんだ」
「夏也、そういう考え方はダメだぞ」
「でも実際、岬姉ちゃんは俺になんか目もくれずにケイスケのとこに行く。俺、岬姉ちゃんにとっていらない弟なんだ」
「夏也」
諌めるように、父さんは言った。押し黙った俺に、父さんは言葉を重ねる。
「そういうことを考えると、すべてがそういうふうに思えてしまう。そんなの嫌だろ。夏也はいい子だから、わかるよな」
「俺のこと、本当はいい子だなんて思ってないだろ。学校も行かずこんな髪の色して、煙草吸ってんだよ」
「ほら、そういうことを言うようになる」
父さんは言って、俺の頭に置いた手をどけた。ずっと触れていたかった父さんの手が引っ込められたことで、俺はちょっと悲しくなった。微かに俯いた瞬間、父さんは、両手で俺の背中を抱き寄せてくれた。汗と加齢の独特の臭いが、つん、と俺の鼻をついた。決していい匂いではないけれど、父さんの優しい匂いだ。いくら岬姉ちゃんにフルシカトされても、俺は、父さんがいればひとりぼっちじゃない。優しくしてくれる父さんのことが、俺は大好きだ。
俺に優しくしてくれる人。頭の奥で、無意識にその人を探した。父さん。藤。詩仁。三橋。いや、三橋は違う。ほかの人。佐伯先生。初めて家まで訪ねてきて、俺と距離を取らずに話をしてくれて、手作りのプレゼントまでしてくれた佐伯先生――。
ぐう、と気の抜ける音がした。腹の音だった。俺ではないので、父さんだ。父さんは、照れたように笑ってみせた。思考の渦に吞み込まれそうだった俺は、そこで現実に帰還した。
「なにか食べに行くか。外に出られるか?」
「うん。俺、ラーメン食べたい」
俺が示したのは、家から近いわけでもなく、そうかと言って遠くもないラーメン屋のことだ。父さんが仕事で疲れきっていることはわかっているけれど、どうせなら、父さんとふたりで歩きたかった。車に乗れば、余程距離のある場所を指定しない限り、すぐに到着してしまう。車でもふたりはふたりだから違いはないだろうけれど、それでも俺は、父さんと並んで一緒に歩きたい。
だから本当は、食べるものなんて別にラーメンじゃなくてもよかった。父さんと一緒に食べに行けるなら、なんだっていい。そう思う我儘もすべて含めて、父さんは父さんだから、俺を受け入れてくれる。歩きたいと言った俺の頭を、父さんは、再び優しく撫でてくれた。




