藤 忠勝 3
結論から言うと、夏也は現われなかった。めげずに何度もインターフォンを鳴らしてみるが、一向にドアが開かれる気配はない。今しがた作ったばかりのコケダマが入ったビニール袋、それを手首に提げたまま、俺は黙って静止していた。時刻は夕方五時少し前、一日のほどよい終息。学生である俺にとってはその頃合の時間帯だが、残念ながら明日へのやる気は沸いてこない。俺の毎日はいつもそうだ。掴みどころと言えば、多くの人間に見えていないものが見えている、ただそれだけだ。不満はないが面白くはない。
「夏也、いないんじゃないの」
隣の七瀬が頭の後ろで手を組んだ。そんなことをしたらお前の手首に提げた袋の中のコケダマが被害を受けるんじゃないのか。思ってもいちいち言わないのが俺の美徳だ。
再度チャイムを鳴らしてみた。返ってくる反応は皆無だった。七瀬は言う。
「散歩でも行ってるんじゃないのかよ。いくら夏也が篭りがちと言っても、篭りがちってだけで完全にそうじゃないだろ。出直したほうがいいぜ」
「今日一日、俺にコケダマの面倒見ろってか。俺は植物を育てるのは苦手なんだ、間違いなく枯死させるわ」
「たった一日で枯死させるって、どれだけ大量の水浴びせる気なんだよ。藤って勉強もスポーツも万能なのに、変な弱点だよな」
勉強で弱点だらけのお前よりましだ。と俺が言えば、おそらく七瀬は、体育なら負けない、と胸を張ると思う。科目を限定しているのに胸を張るところがよくわからないが、事実、俺はその体育において七瀬に敵わない。厭味にならない程度にそれなりに運動もこなせるという自覚はあるのだが、俺が七瀬を越すことはないだろう。正直、七瀬の全能力値が運動神経にすべて吸収されているだけのような気もするのだが。
少し目を凝らした先に、夏也を発見したのは七瀬だった。七瀬が示した方向を見てみると、不思議なことに、三橋が夏也の半歩後ろを歩いている。「斬新な組み合わせだな」。七瀬がそうぼやいた。
夏也は普通に歩いているが、三橋は何故か俯きがちだった。
俺たちに気がつくと、夏也は一瞬驚いたような顔をしてからはにかんだ。どこか疲れた表情だった。夏也には、俺に話したいけど話してないことがある。話せない、ではなくて話したくないのかもしれない。以前に俺が察知したその空気を、今の夏也はそのまま引きずっている。ついでに足元の猫の霊もそのままだ。
「どうしたんだよ、珍しい」
表情自体は少し衰弱しているように見えるが、夏也が頬を緩ませているのは素直な気持ちのようだ。俺はふと思考してみる。夏也の疲れは、肉体的にどうこうというわけではなく、精神的なところからきているような気がする。温室で七瀬と交わした会話が脳裏を掠めた。夏也は生命の終焉を視覚として捉えることができる。七瀬の発想は突拍子なかったが、現実に死した生命、つまり霊を日常的に見ている俺からすれば、さして不可解でありえない能力でもなかった。七瀬自身が冗談のつもりで放った言葉だ。夏也の疲労においてまったくの的はずれだったら、それはそれで問題はない。訊いてみようと、俺は口を開いた。夏也が俺より早く喋った。
「なにそれ。コケダマ?」
そういえば、俺の本来の目的はそれだった。コケダマ入りのビニール袋を差し出すと、夏也はまるっこい目を瞬かせながら両手で受け取ってくれる。これはなに、と言いたげな夏也に俺は言う。
「佐伯先生と一緒に作った。あのコケダマ、すごく大事なものだったんだろ」
「俺が勝手に落としただけだ。藤はなにも悪くないのに」
「余計だったかな」
特に声音を変えないまま問うと、夏也はコケダマに視線を落とした状態で首を振った。俺より少し背が低い夏也は、気恥ずかしそうに再度微笑む。
「余計なことなんかじゃないよ。大切に育てる」
「三橋の顔色が悪い」
出し抜けに七瀬が指摘した。下を向いていた三橋は微かに肩を振動させた。普段からポーカーフェイスを貫く三橋にしては、妙なリアクションだ。不自然な三橋に意識を向けつつ、俺は夏也も視界に入れていた。瞬間的な三橋の震えに合わせて、夏也の身体も少し揺れたようだった。
「お前、大丈夫かよ。真っ青だ。なんで夏也といるのか知らないけど、早く帰って寝たほうが」
「壱井」
七瀬の言葉に被せ、三橋は言う。できる限りの正常を装った声音のようだが、俺には、気力の末にようやく捻り出すことができたという酷く切羽詰ったものに聞こえた。ただの思い過ごしなのか本当に勘なのか、こういうことが判断できないのだから、やはり霊感などスキルでもなんでもない。二者択一の選択に追い込まれる度、俺はそう思ってしまう。
いつも以上に厚みを持った三橋の言葉に、七瀬はそれこそらしくなく一歩退いた。俺は黙って三橋の声に耳を傾けていた。
「壱井は、大丈夫?」
俯かれていては、夏也の表情を確認できない。夏也の反応を待ってみても、期待はできなさそうだった。眼鏡を人差し指で押し上げ、この状況をどうしたものかと、頭の隅でうっすらと夢想する。
答えを導き出すより先に夏也が顔を上げた。アクションがあったことに、俺は素直に驚いた。
「せっかくだし、寄って行ってもらおうかと思ったんだけどさ。用事思い出した。ごめん」
図にすれば亀裂だらけの、無理に繕った明るい表情を夏也は醸す。俺の中で燻る不信感は殊更に肥大化した。横目で三橋の反応を窺った。三橋は夏也の目を見ることなく、そうかと言って様子に特に変化もなく、俺は夏也に視線を戻した。
「藤、いちご大福好きだよな。美味いの仕入れてたから、すごく残念なんだけど」
飽くまで夏也は正常を装っている、か。察するのは俺にとって、いや、おそらくよっぽど鈍感な奴でもない限りは、容易なことだと思う。この現状から推測すると、夏也は俺に話せなかったことを三橋に話した。その結果が、今のいつもの三橋らしからぬ三橋だ。親友の俺に話せなかったこと、親友の俺だからこそ話せなかったこと、三橋ならばと話せたこと、捉え方は多様だ。それでもとにかく、夏也は三橋に対して話す決断をした。夏也の性格と心境を汲めば、一概に糾弾する気にはならなかった。
「それは、残念だな」
だけど、無意識に思ってしまうこととなると、俺にも対処のしようがなかった。口をついて出た自分の言葉を聞いて、不意に実感する。頭で理解できていても、理屈だけでは片付けられないことがある。まさに今の俺、夏也に向かって、なぜ俺より先に三橋に打ち明けたのだと問い詰めたい気持ちがその証明だった。ずっと小さな頃からの友人で、夏也は俺を親友だと認めてくれているはずなのに。夏也にとって俺は不足していて、三橋が充足している。嫉妬と敗北感が足元から這い上がってくる。握り締めていた拳を緩め、俺は自分で思っていたより遥かに女々しい人間だということを自覚した。
コケダマ、ありがとう。絶対大切にする。夏也は笑ってそう言い残し、自宅へと引っ込んだ。取り残された俺たち三人は、暫くその場に立ち尽くしていた。
「三橋は夏也といたのか」
七瀬が三橋に訊ねた。三橋は頷き、七瀬は間を置いて「ふうん」と鼻を鳴らした。
「俺が作ったコケダマ、ひとつお前にやるよ。三つも作っちゃったからさ」
「いらない」
「そう言わずに取っとけよ、つれない奴だな。ほら、藤も」
ほい、と七瀬は不恰好なコケダマが入ったビニール袋を俺に押し付けてきた。いらないぞ、と思いながらも、俺はそれを受け取ってしまう。三橋もなんだかんだで七瀬が作ったコケダマを手に持っていた。敢えて空気を読まないのか、それとも素で読めていないだけなのか、七瀬は腰に手を当てた。
「俺たち四人、お揃いだな。仲間って感じだな」
バカだ、こいつは。俺はそう思ったが、なんとも言えない寂寥感が漂うこの空気の中で、七瀬の行動には却って救われた心地だった。俺は七瀬を茶化したが、視界の端に映る三橋は、青い顔をして下を向いたままだった。夏也は充足していると見たが、三橋には重かったか。それはそうだ。勝ち誇ったような飛ばし文句が脳裏をよぎり、咄嗟に俺は頭を振った。俺はこんなに卑しい人間だっただろうか。思い至れば、深淵に嵌まるような気がした。俺はもう一度頭を振って、はっきりとわかる、怯えた自分の内心を振り払った。




