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三橋優輝

 帰宅路を少し逸れた河原で、優輝は軽く視線を動かした。探していた背中は、すぐに見つかった。しゃがんでなにか小動物、猫とでも戯れているように取れる。優輝は特に足早になることもなく、いつものペースでそちらへ向かった。

 優輝に気付いた壱井は口の端に煙のたゆたう煙草を銜え、屈託なく笑ってみせた。苦味の強い煙草の香りは、優輝とほぼ同じ背格好、つまり小柄な壱井には似合わなかった。

「本当に来てくれたんだな。ありがと」

「キミが来いって言ったから」

 立ち上がった壱井の足に、白い子猫がすり寄っている。四本の足は細く、今にも折れそうだった。野良猫か。不意に胸が苦しくなった。こんなに弱そうな子供の猫が、頼れる存在もなく生きているのだ。壱井はこの場所で子猫に餌を与えているのだろう。見るからに精神を病んでいる壱井の優しさが、優輝には酷く特別なものに思えた。

「可愛いだろ、こいつ。モノって言うんだ」

「ここで面倒見てるんだね」

「こいつら、親がいないんだ。ほっとけなくて」

 こいつら。壱井が発した言葉に、優輝は小さく首を傾げた。それは複数を示す表現だが、いるのは白い毛並みの子猫一匹だけだ。腑に落ちない優輝を察したのか、壱井は補足する。

「ニ匹いたんだよ。漫画みたいな構図なんだけどさ、白いのと黒いのがニ匹寄り添ってた。だから白いほうがモノで黒いほうがクロ」

「クロはどこにいるの」

「四日前に車に轢かれた。うちの庭に埋めてる」

 数秒の合間を取り、優輝は、そう、とだけ答えた。モノは残された存在というわけだ。残された存在という点において、壱井は子猫に同調しているのかもしれない。傷ついた壱井の心の隙間が窺えた。

「僕のアドレスは誰に聞いたの」

「クラスメートなんだから、アドレスくらい知ってたって普通だろ」

 優輝が自然な流れで壱井を質すと、壱井もまた、自然な流れで答えてきた。この話題では食えない会話が続く。そう察した優輝は、質問の意図を本題に移した。

「で、僕になにか用事?」

「三橋、猫飼ってるんだろ。ちょっとモノを見せてやりたかったんだ」

「それだけなわけないよね」

 確認するように言うと、壱井はなんとも反応しなかった。煙草を口に挟んだまま、壱井は流れる川を正面にして腰を下ろした。モノが壱井の隣にちょこんと佇む。壱井に促され、優輝はモノの隣に座り込んだ。その場で鞄を漁り、給食で出された牛乳の紙パックを取り出す。器用に紙パックを開き、モノの前に置いてやると、モノは顔を埋めて牛乳を舐め始める。サンキュ、と小さく述べた壱井に、優輝は首を振って応じた。

「友達だからこそ言えることってあるだろ。ということは、友達だからこそ言えないこともあると思わないか」

「なにそれ」

「友達じゃないから話せることって意味。つまり、話は聞いてもらいたいけど、素通りして欲しいってことだよ」

 要するに壱井は話がしたいだけのようだ。その相手に優輝を選んだ。それだけのことだった。

「どうして僕に?」

「お前なら、余計な感情なしで聞いてくれるんじゃないかと思って。藤や七瀬だとちょっと言い辛くてさ。どんなこと思うだろう、なんて考えると俺もきついし」

「僕と壱井、ろくに話したこともないじゃない。チンピラとは前に言ったけど」

「だからだよ。敢えて友達じゃない人間を相手に選ぶのも、悪くない選択だろ」

 煙草の苦い芳香が優輝の鼻を通り抜けた。苦手ではないが得意でもない。小さな舌で懸命に牛乳を舐めるモノを見やりながら、壱井に話を促した。壱井は一本目の煙草を地面に押し付けた。吸殻を箱の中に入れ、ニ本目の煙草に火をつける。慣れた手つきが、優輝にはどことなく侘しく見えた。

 壱井は煙を吐き出し、モノの首を掻いてやる。気持ち良さそうに喉を鳴らすモノには一切視線を向けず、壱井は口を開いた。

「俺が今から言うこと、嘘みたいだけど本当だからな」

「信じるよ」

「本当に?」

「僕はキミの友達じゃないんだから、そんなに期待されても困るけど」

 優輝が言うと、壱井は中身が抜けたかのような笑い声を転がした。それもそうだな、と一言添えて煙を吐き出す。微かに息を吐いて、壱井は沈黙した。モノが牛乳を飲む音、夕暮れどきの町の騒音、黄昏色に滲む世界に、優輝は、しばしその身を預ける。一日の終わりはどこか切ない。理由を問われて示せるものなどないが、瞳に映る空の奥、橙に変わりゆく色彩を見送ることは、優輝にとっては感慨深い行為だった。今日もまた無力な一日が幕を下ろす。下ろしてくれる。一日の終焉に哀愁を嗅ぎ取りながら、不思議と安堵している部分もあった。複雑に交錯するこの気持ちを、壱井はわかってくれるだろうか。無言で佇む壱井の横顔を、優輝は横目で流してみる。

「命の終わり、が」

 冷たい秋の風が、優輝の頬を撫で上げた。吹き抜けた風に運ばれ、壱井の煙草が一層の香りを空気に溶かす。続く壱井の言葉を、優輝は待った。

 壱井は一度、息を飲み下した。優輝は無言だった。聞いても聞かなくても自分には無関係な話で、それを壱井も望んでいるのだ。拒む必要はないし、苦労して叶えるものでもない。壱井の要望するままに優輝は応じている。

「俺、命の終わりが視えるんだ」

 それでも、壱井の言葉の突拍子のなさは想定外だった。優輝は僅かに片眉を動かした。命の終わりが視える。壱井がなにを意図しているのか、優輝は不明瞭な感覚を覚えた。

「信じてないだろ」

 冗談を飛ばすように壱井は笑う。諦念の一端を感じ取れる、寂しげな笑顔だった。含みのないその表情は、優輝の中で信憑性の具現化として消化される。

「信じてるよ」

「嘘吐け」

「信じて欲しいんでしょ」

 ニ秒の空白を挟み、壱井は、こくりと頷いた。感覚としては、藤に霊が見えていて、いきなり空間を殴るようなあれだろうか。優輝は夢想してみるが、五感以外の感覚を持ち合わせないは自分では、はっきりとした認識を得ることはできなかった。

 モノが微かな鳴き声を漏らす。いつの間にやら、紙パックの牛乳が飲み干されていた。小さな外見に似合わず、モノの胃袋は強大なようだ。

 モノは優輝の前を通過し、壱井の足に頭を擦り付けた。壱井はモノの喉下に指をかけ、特定のラインを辿るようにそこを掻いてやる。慣れた手さばきだ。同じ猫を飼う身として、優輝は思わず感心した。

「クロもこれ、好きだった」

 俯いた状態で壱井は言う。不意に思いたち、優輝は壱井に訊ねた。

「クロの命の終わりも視えたの」

「飽くまで野良だからさ、道に飛び出したとこを車が一撃だった。軽だったと思うけど、車種やナンバーまではわからない。そこまではっきり視えない」

「それはクロが死ぬどのくらい前のこと?」

「そのときは五日くらい前だったかな。毎回、視えてから死ぬまでの期間は違うみたいだ」

「他人事みたいな言い方だね」

「お前こそ。実際、他人事なんだけろうけど」

 冷静に切り返され、優輝は口を噤む。壱井は、優輝のことなど気にしたふうもなく話を続けた。

「ありとあらゆる命の終わりがわかる。動物も植物も人間も」

「視ようと思って視てるの」

「もしそうだったら、自由に視ないこともできるよな。どうせなら俺はそうなりたい」

 ということは、壱井は自分の意思とはまったくの無関係なところで、命の終焉を視ていることになる。ジャンルとしては、やはり藤の霊感と同じようだ。しかし優輝は、思考をさらに進めてみる。藤が見ているらしい霊は飽くまで個の意識を持つ存在であり、度胸さえ据わっていれば、藤がそうしているように力ずくで追い払うことができる。対して壱井は、話を聞く限り、一方的な第六感を視覚に押し付けられているだけだ。壱井には、その映像を回避することができない。そういうことだ。

 壱井の世界は終止符で溢れている。優輝のように、一日の幕引きに少し胸が痛むだの、そんなレベルを遥かに逸脱している。壮絶な壱井の世界。優輝はなにも言わずにそれを想像する。

「酷いね」

 優輝がぼやくと同時に、壱井が僅かに首を振った。嫌だ、というより、もっとストレートな拒絶を表す動きだった。直感でそう受け止めた優輝は、それならばと、一体なにに対して示された反応なのかと素早く周囲を見渡した。目の前に広がる川、橙色を帯びた風景、明日の晴天を約束する夕暮れ、寄り添い帰路につく人々、民家からどことなく香る夕食の匂い。なにもかもが優輝の目に映る日常だった。今なにも起こっていないだけで、なにかが起こる。なにが起こるか壱井は知っている。優輝は悟り、どうすることもできずに、息を呑んだ。

 耳朶を突き刺すクラクションの音が、優輝の身を震わせた。気持ち良さそうに目を閉じていたモノが跳ね起き、どこかに走り去っていく。モノの喉を掻いていた壱井の指が寂しげに引っ込んだ。

「こんなふうにさ」

 音の出先を確認する間もなく、形容し難い衝突音が優輝の耳を劈いた。目を見開いて道路を振り返った優輝の背中に、柄でもなく寒気が迸った。

 制服を着ているから、自転車に乗っていた少年は学生だ。どこの学校かなど知らないし、まして優輝と面識のある少年ではなかったが、その少年は、優輝の目の前でトラックに撥ねられた。厳密には、撥ねられた少年の身体が宙に舞っているところを目撃した。彼の自転車も空に浮いていた。

「死が視えて、すぐにそれが現実になることも」

 空間に投げ出された自転車が、優輝の前方に落下した。タイヤを空回ししている有様がリアルで、優輝の背筋は再度凍りつく。あまり感情の変化を外に出さない優輝だが、今ばかりは、無意識に身体が感応してしまっている。これほどの事故に遭遇した経験がないことを考えれば、自分を染めるこの感情にも違和感はなかった。

 人通りの多い時間帯、辺りが騒然となるのはすぐだった。人が集まり、救急車が駆けつけ、パトカーが溜まる。人垣に隠れて既に少年の身体を確認することは不可能だが、担架に載せられて指ひとつ動かさずぐったりと病院に運ばれていく様は、優輝にも容易に想像できた。再度息を吞み込み、彼の自転車に目をやった。後輪も前輪も、まだ微かに回っていた。

 少年が余程重大な状況だったのか、警察たちは、優輝たちの目の前にある自転車に気付いてなかった。気が付いた警官は、優輝たちに「ここにいて大丈夫だったか、怪我はないか」としつこいくらいに詰め寄ってくる。優輝は一言、自分たちが無傷であることを告げるために口を開いた。開こうとした。壱井がそれを遮った。

「あの男の子、もう無理だから、別に急いで病院に行かなくても」

 一瞬警官はなにも言わなかった。その後、え、と怪しげな顔をして訊き返してくる。壱井は動じずに続けた。

「最初ちょっとだけ生きてたみたいだけど、ほとんど即死だった。不幸な事故だよ。どうにもならない」

 「行こう、三橋」。壱井はそう続け、腰を上げた。優輝の頭の奥を、つい先刻の壱井の言葉が駆け抜けた。「死が視えて、それがすぐに現実になることも」。壱井は本物だ。偽者だと思っていたわけではないのに、優輝は、それを再認識した。壱井は本物なのだ。本当に命の終焉が視える。

 凄惨な事故を目撃したこと、壱井の能力を突きつけられたこと、ふたつのショックが重なって、優輝はすぐには立ち上がれなかった。それをどう判断したのか、壱井は優輝を置いて歩み始める。

 今起こったことは、偶然ではないだろうか。そんな考えが優輝の思考に入り込んだ。すぐに振り払った。そんなわけがなかった。あれこれ小難しい理由や理屈は必要ない。壱井はただ、本物であるだけだ。でも、まさか本当にそんなことがあるとは。俄かには信じがたい壱井の背中を、優輝は呆然と目で追った。

「キミ、大丈夫?」

 警官が優輝に声をかけてきた。我に返った優輝は咄嗟に腰を浮かせる。大丈夫です、なんともないですと早口で言い残し、小さくなりつつある壱井の背中を追いかけた。明確な理由はわからないが、今、壱井をひとりにしておくのはやめたほうがいい。そう察し、まだ少し震えの残る足に鞭打った。





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