三橋優輝 10
壱井の葬儀は、少人数で執り行われた。家族だけ、親族だけ、という言い方をしないのは、壱井家の血縁者は片手で数えるような人数しかおらず、ごく僅かな学校関係者を合わせているからだ。葬列者の中には、佐伯や七瀬、自分も含まれていた。逆に言えば、血縁者以外の参列は自分たち三人だけだった。ほかの学校関係者や壱井の父親の会社関係者も参列するつもりだったそうだが、壱井の父親自身が遠慮したらしい。喪主である壱井の父親が今どんな心境でいるのか、優輝は想像しようとするが、幼い自分の視覚と感性で息子を失った親の気持ちを量ることなどできないとわかっていた。
一連の儀礼が終わり、優輝は散歩がてらに外に出た。壱井の父親に少ししたら戻りますと伝えてある。壱井の父親は、優しい笑顔で応じてくれた。息子を失ったのに、何故そのように笑えるのだろう。不可解だったが、そんな感情を表には出さなかった。
平日の昼間は心地良く騒がしく、心地良く静かだった。空は嘘のように澄み渡っている。相も変わらず、今年は桁外れな寒波が続いている。まだ十一月は終わっていないのに、もう空は冬模様だ。悴む指先を丸め、優輝は黙って歩く。
無意識にあの河原まで来ていた。ほとんど会話したことすらもなかったのに、壱井に呼び出された場所だ。何故壱井が自分のアドレスを知っていたのかわからなかったが、確認してみると、どうやら七瀬が勝手に教えていたようだ。人様の連絡先を勝手に教えるなどという行為には呆れるが、七瀬なりに壱井が寂しがっていることを案じていたらしい。不登校の壱井は当然教室に入りがたいだろうが、四月に編入してきたばかりの優輝なら、さしたる壁なく話せるのではないかと感じた。七瀬の言い分はそれで、ほかの奴なら確認するけどお前なら別に差し障りないだろ、と勝手なことも付け足していた。優輝は再度呆れたが、信用されているのだと思い直した。実際、不快だと思えばアドレスを変更するか無視すればよかったのだから、七瀬の読みは外れていなかった。
子猫など一匹も駆け寄ってこない、静かな河原に優輝は腰を下ろす。壱井に呼び出されたその日、橋の上で自転車に乗っていた男の子が車に撥ねられて亡くなった。壱井はそれを知っていた。男の子が乗っていた自転車は、優輝の目の前に落ちてきた。人が死ぬ衝撃を、あのとき初めて目の当たりにした。あの自転車だけで、後ろから頭蓋骨を叩き割られるようなショックだった。
少しでも気を緩めると、目蓋の上に地獄のような光景が蘇ってくる。自らナイフで頚動脈を切り裂いた壱井の姿が、噴出する大量の血液が、崩れ落ちる小柄な身体が。それを見た藤が。目に焼き付いたそのシーンはあまりに強烈だった。比べるものではないと自分でも思うが、真っ赤な他人の少年の死に様の自転車など、少しも怖くなかった。
肩に手を置かれた瞬間に、優輝は七瀬だと予想した。振り返ってみると本当にそうで、優輝は小さな満足感を得た。
「なにしてるんだ、こんなところで」
言いながら、七瀬は優輝の隣に腰を落ち着かせた。今日の七瀬の髪は黒い。暫くの期間、七瀬の黒髪は維持されるだろうと優輝は新たな予想をつける。
「藤の奴、結局来なかったな」
「そうだね」
話題と言えばそれくらいしかなかった。さして驚くこともなく、優輝は応じた。
「壱井のお父さん、来て欲しかったと思うけど」
「お前、知ってるか。あいつ警察に連れて行かれちゃったけど、全部夏也に脅されてやったって言い張ってるんだってよ」
「……泣きながら、ね」
泣きながらと言っても、もちろんあからさまに演技した姿などではない。実際に見たわけではないが、いくら藤でも目の前で親友に自殺されて嘘泣きするような芸当はできないと思う。おそらく、泣く気など毛頭ないが堪え切れず零れてしまう、といったところだろう。
七瀬は小さく肯定した。優輝が七瀬の双眸を覗き見ると、その色はやるせなさそうに曇っている。きっと自分の両目もこうなっているのだろう。
例の事件が起こった日、藤は乗り込んできた警察部隊に取り押さえられて現行犯逮捕された。もとの爆弾に関わることを含めて罪状は複数あるようだが、殺人未遂容疑もかかってくる見通しだそうだ。専門家曰く、特に酷かったのは壱井がいた視聴覚室付近の爆発だった。が、優輝も七瀬も佐伯も、大したケガなく済んでいる。これは奇跡としか言いようがないらしい。
藤は事情聴取を受けている真っ最中だが、とにかく「脅されてやった」としか言わないと聞いている。壱井と藤は明らかに自分の意思で手を組んでいたから、大方事件を最初に思いついたのは壱井で、すべての罪を自分に擦り付けることを条件に藤を引き込んだのだろう。藤はおそらくそれを拒んだのだろうが、一度交わした約束であることに加え、まして壱井が自殺してしまった以上はなんとしてでも果たさなければならないと思っているに違いない。そしてそれは、藤にとって想像を絶する罪悪感を伴っている。実際、加害した証拠は直接的には藤に一切結びつかず、辻褄が合うのは壱井ばかりだそうだ。人死にも出ていない。藤が警察から解放される日は近い。
「たまんねーな」
七瀬は低く呟いた。たまらないね、と優輝は返す。
「本当にたまんねーよ。夏也が藤を脅すわけないじゃん。夏也の父さんだって絶対察してるよ」
「うん」
「で、三橋。俺がお前を追いかけてきたの、本題はこっちなんだけど」
「うん」
一瞬七瀬は、ちゃんと聞いているのか、と言いたげな目を向けてきた。気付かないふりをして、優輝は先を促した。七瀬は一拍置いてから切り出した。
「夏也が死んだとき、どんなふうだった?」
「どんなふうって?」
「お前、全部見てたんだろ。俺は幸せに気絶してたけど、本当は俺だって見てなきゃいけなかったんだ。藤のことも」
気絶していたことを幸せと例えた七瀬の表現を、優輝は瞬時に皮肉と取った。七瀬がそんなことを言い出す理由は、なんとなく想像がついた。壱井の自殺と壱井の自殺を突きつけられた藤の姿は、業なのだと思う。壱井の首から噴出する血を眺めているときは、そんな比喩は思い浮かばなかった。壱井が命を失う様を視界に焼き付けて少しだけ時間が経過した今は、そう表現できる。でも確かにそう感じていたから、目を逸らしてしまいたい気持ちを跳ね除け、瞳を大きく開いてその光景を凝視していられたのだ。上手く説明できないが、死にゆく壱井から絶対に目を離したらいけないと思ったし、狂ったように絶叫する藤の声が鼓膜を通るのを遮断させてはいけないと思った。
もろに爆風を浴びて吹っ飛んだが、幸いなことに、優輝は全身を壁に打ち付けただけだった。軽い脳震盪くらいは起こしたかもしれないが、気を失うほどではなかった。床を抜けて階下に落ちたことを知ると、優輝は身体を引きずって壁を伝い、やっとの思いで四階に戻った。七瀬と佐伯の安否は気になったが、まずはふたりを止めることが先決だった。
向かい合わせに立った藤と壱井の様子は、どことなく妙な空気を伴っていた。背を向ける形となっている藤はともかく、壱井とは視線が交錯してもおかしくないのに、まるでこちらに気付いた様子がなかった。首を傾げつつ、優輝は一旦瓦礫の陰に身を隠した。藤と壱井の会話を聞き取ることはできなかったが、なにやら藤が動揺していることだけは感じ取れた。一体なにを揉めているのかと身を乗り出してみると、その瞬間に優輝の呼吸は一定のリズムを失った。両手で握り締めた細身のナイフで、壱井は己の首を躊躇なく搔き切った。
「あんまり思い出したくないね。あれからずっと、目蓋にこびり付いてて」
これ以上話さなくてもいいか、という意図で発した言葉ではないことは、七瀬にも伝わったようだった。伝わったようではあるが、七瀬は先を促してくる。優輝は特に嫌とも思わず、見たままを素直に説明した。
光景を文体に変えてみれば、より鮮明な映像となって優輝の瞳に蘇った。壱井の行為は、あまりに突然で衝撃的だった。噴き上がる真っ赤な血液を目の当たりにしながらも、優輝には、なにが起こっているのか理解できなかった。壱井が自殺した。ナイフが床に落ちる音を聞いて、ようやく認識した。壱井が自殺したのだ。はっきりと脳に刻み込まれた頃に、壱井は完全に崩れ落ちた。数拍遅れて、藤が絶叫した。
藤は名前を叫びながら壱井の身体を抱き起こし、何度も揺すっていた。夏也、夏也、返事しろよ、生きてるんだろ、夏也。涙に押し潰されてほとんど声にもなっていなかったが、なんと言っているのかは嫌になるほど明確に聞き取れた。藤はひたすら名前を叫んだ。夏也、夏也、夏也ってば。夏也、なんでなんだよ、夏也ってば。藤がいくら呼びかけても、壱井は答えなかった。そうしている間に、警察部隊が乗り込んできた。佇んでいた優輝に手を差し伸べ、声をかけてくれた大人もいたが、答えることなどできるはずもなかった。藤は振り向き、走って武装した警察部隊に縋った。壱井の頭を支えた腕は、血でべっとりと汚れていた。藤はただ泣きながら助けを求めたが、まさか首謀した少年ふたりのうちひとりが自殺していたとは思わなかったのだろう、大人たちも絶句していた。優輝が素人目に見ても、壱井はもう助からないとわかった。
『なんでだよ、なんで助けてくれないんだよ!』
藤は声を枯らし、警察部隊の胸を両手で叩いた。藤は何度も、何度も堅い拳を振り下ろした。
『なんでみんな夏也に優しくしてやらないんだよ! 夏也がなにしたって言うんだよ! 夏也がお前らになんか悪いことしたって』
藤の声は突然途絶えた。その顔色の悪さを、優輝は一瞬で窺い見た。藤は口を両手で押さえ、数歩後退した。その場で膝を折り、何度か戻した。吐き続ける藤の背中を摩ろうしたのか、ひとりが藤に歩み寄った。藤はそのひとりを片手で突き飛ばした。四つん這いで壱井に近づき、再びその身体を抱き締める。壱井の指先は、もうぴくりとも動かなかった。守れなくてごめん、夏也。俺が弱くて、守ってやれなくて本当にごめん、夏也――。嗚咽と混ざり合った声で、藤はずっと謝罪していた。
「煙草とライター、壱井のポケットに入ってたみたいなんだけどね。藤がそれ持ってるみたい。本当はいけないんだけど、って言ってた」
「警察の人が?」
「うん」
「慈悲で中学生に煙草とライター持たせてんのかよ。警察だってなにするかわかんないな」
「僕、忠勝君が可哀想だと思った」
率直に述べると、七瀬は口を閉じた。気持ちに共有するものがあるからだ、と優輝は思う。どんな状況に置かれているにしろ、自分は可哀想などと思われたくないし同情を買いたくない。だから、今までそんな感情は人に対して抱いたことはなかった。でも、そんな信念が入り込む余地など微塵もなかった。動かない壱井の身体を両腕で抱き締めて、肩と声を震わせて謝罪し続ける藤を、優輝は直截に憐れんでしまった。
可哀想と思わないほうが無理だ。優輝はそう結論した。壱井はもともと全校生徒を皆殺しにするつもりで計画を進めていたが、そのうちに殺人対象は自分に切り替わっていた。最終的には自分も死なず、ほかの誰かが命を落とすことなく、視えてしまった姉の死を帳消しにする方法を探そうと考えを改めていた。藤とセットならそれができると本気で思ったのだろう。最後まで揺れ動いた壱井の意志は強かったとは言えないが、壱井にはそれだけの優しさがあった。少しの希望を持つ余裕があった。それも藤とペアだったから見出せたことだ。親友としての藤を、壱井は頼っていた。だから藤が先走ってイレギュラーな爆弾など仕掛けていなければ、壱井は自殺しなかったかもしれないのだ。
――こんな世界は許せない。
はっきりと言い切った藤の心境を、優輝は夢想した。
実の息子が、学校を爆破する事件を起こしたのだ。死者はいないとしても、壱井の父はこれから相当苦労するだろう。壊れた学校の弁償もしなければならないだろうし、犯罪者の親として社会の風当たりは強くなる。
藤は一応現行犯ということになってはいるが、七瀬が言う通り、学校の爆破については「壱井に脅された」の一点張りだ。挙がってくる証拠も壱井にしか結びつかない。証拠を隠蔽できるということは、すべての罪は自分以外の人間にあるように仕向けることも可能ということだ。爆弾を作ったのは藤だと優輝自身も壱井の口から聞いているし、七瀬も藤が自分でやったと認めた現場に居合わせている。たとえ優輝と七瀬が藤は確かに犯行を認めたと口を揃えても、それすらも脅迫のうちと言い切るだろう。壱井が生きていたとしてもそう言うつもりだったのだろうし、おそらくそういう条件だった。
「俺さ、三橋。こんな世界は許せないって言った藤の気持ち、今ならわかる気がする」
見計らったように、七瀬は重々しく口を開いた。七瀬の表情を覗き込む気にはならず、優輝は小さく頷いておく。
「悪いことなんてなんにもしてない友達が一方的に傷つけられてて、挙句の果てには自殺しちゃうんだもんな。そりゃ許せないよ。俺が藤の立場でも同じことしてたと思う。藤くらいの頭があれば、それができるんだから」
「でも、忠勝君って結局、壱井の希望を自分で摘んじゃったんだよね。最後の最後で壱井は諦めずに頑張る気になったのに、忠勝君はもうこんな世界を受け入れるつもりはさらさらなかった」
もうどうにもならないことを考えたくはないが、どうしても考えてしまう。優輝の中では、壱井の自殺の原因を作ったのは藤ということに落ち着いてしまっている。高い確率で、いや、確実に藤も自分のせいで壱井が死んだと思っている。だから壱井の葬儀にも出席しないし、壱井の父親が面会に来れば涙を溢れさせ、頭を床に擦り付けて謝るのだ。ごめんなさい、としか言わない藤。その構図はあまりに不憫だった。
「ちょっと頭よすぎるんだよ、あいつ。頭いい上に女々しいとこあるし。自覚はしてるみたいだけど」
「頭がいいことを?」
「女々しいことを、だよ。頭がいいことだって自分でわかってると思うけどさ。だからこの世界を見限った」
「壱井には自分がひとりいればいいや、って? 七瀬、それは俗に言うヤンデレってやつだよ」
「今そういうこと言う空気か」
「そういうこと言う空気じゃないことはわかってるよ」
「夏也の姉ちゃん、来てたよな」
七瀬は突然話題を摩り替えた。あまり暗いムードにしたくはなかったが、堂々巡りの会話を続ける気もなかった優輝は素直に頷く。顔を見たことはないが、壱井の父親に付き添っていたあの女性が壱井の姉であることは一目瞭然だ。彼女の隣に座っていたのは、年端近そうな男性だった。
「既に関係は決裂してたけど、夏也は姉ちゃんを絶対的に失いたくなかっただけなんだよな。姉ちゃんがお葬式に来てくれたことで、少しは救われたかな」
「そう思いたいけど、壱井本人はもう死んじゃってるし。死にたくなんかなかっただろうし」
「素直にそうだねって言っとけよ。お前本当に空気読めない奴だな」
「壱井はお姉さんが死ぬのを視てたんだよ。無理だよ。壱井の気持ちは察するけど、壱井が死んだからってそれがなくなるとは思えない」
お前な、と七瀬が不満げに優輝の肩を掴んだときだった。「壱井君のお姉さんは死なないよ」。聞き慣れた声でそう聞こえ、優輝は振り返った。いつの間にここに辿り着いたのか、喪服姿の佐伯が立っている。ここにいたのね、と微笑む佐伯の表情はいつも以上に優しく柔らかかったが、辛辣な心境を必死にカバーしている仮面にも見える。生徒がひとり死んだのだから、それも気にかけていた生徒が事件を起こした挙句自殺したのだから無理はない、優輝はあっけなくそう結論した。
それにしても。優輝は首を傾げてみせる。壱井の能力のことも、事件を起こすに至った由縁も、佐伯は知っているはずだった。もともと壱井の持つ力はまず人には信じてもらえないだろうし(だから警察には知れ渡っていないようだ)、事件自体は藤と共謀しているのに、壱井ひとりが藤を巻き込んだ犯行という形に落ち着きつつある。細かい部分まで理解している人間は数少ないが、佐伯は多くを知っているひとりだ。なにを根拠に、佐伯は壱井の姉が死なないことを宣言するというのか。気休めや願望程度の世迷言なら、却って軽薄だ。だって壱井は死んだのだから。くすんだ優輝の内心とは裏腹に、佐伯は眉宇を下げて微笑んでみせる。
「壱井君のお姉さんとちょっとだけ話したの。壱井君がなにを視たのか、わたし、わかった」
佐伯は七瀬の隣に腰を下ろすと、軽く息を吸い込んだ。自分自身を落ち着かせるような動作だ。佐伯の話を聞けば、絶望したまま死んだ壱井を僅かにでも引っ張り上げる、そんな要素を取り出せるのだろうか。取り出せたところで死んだ壱井にしてやれることなどなにもないが、それでも、なにか少しだけでも。ほんの僅かな期待を抱き、優輝は意識をそちらに向けた。




