壱井夏也 7
目の前で連鎖する壊滅から、俺は、目を離すことができなかった。自分が立っている足場だけを残して、次々と床が抜ける。壁が割れる。窓が砕ける。衝音が迸る。外から高い叫び声が聞こえてくる。俺の眼前で勃発していることなのに、そして目を逸らすことができずにいるのに、よく理解できなかった。今ここで、一体なにが起こっているのだろう。頭の中で回答を引っ張り出そうとしているのに、うまく思考回路が働かなかった。
「……え……」
辛うじて発した声はそれだけだ。言葉ではなかった。単語にならなかった。単語にならないから、単語を組み合わせた会話文なんて当然できあがるはずがない。口は動くけど、声が出てこなかった。ほんの数秒前まで、いくつかの爆発はあったけど建造物として成り立っていたこの場所が、最早ほとんど瓦礫の山と化している。視界に収まっていた三橋も詩仁も佐伯先生も、まったく姿が見えなくなった。酷い煙で隠れているだけか、抜けた床から階下に転落したか、衝撃で外に放り出されてしまったのか。前者ふたつならいいけれど、四階のここから地面まで無造作に投げ出されれば、まず助からない。全身に鳥肌が立つのを自覚する。両手で肩をさすっても、凄まじい寒気は引かなかった。
「ケガしてないだろ」
藤の落ち着いた声は、鼓膜に柔らかく突き刺さる。勢いはなく、鋭く尖ってもいないけど、着実に深く食い込む鈍い棘。先が丸みを帯びているから、刺さりにくい分刺されば抜けない。三橋や詩仁や佐伯先生を巻き込んだこの爆風も、すべて藤の計算ずくだった。藤は予め結果を知っていたから、してないだろ、と確認する形を取っている。
身体になんの痛みもないことが象徴するように、確かに俺は無傷だった。想定外の爆発が始まってから一歩も動いていないし、窓ガラスの破片が飛んできたわけでもない。俺は無傷だ。視線を落とし、両手の指を開け閉めさせてみる。やっぱり痛くないし、関節だって普通に機能した。俺だけが健常な身体を維持して、この場に立ち尽くしていた。
「ケガしてないならよかった。夏也が無事ならいいんだ。大丈夫だよ、俺って切れるからさ。数式は完璧だった。ほら、俺もケガしてないしどこも痛くない」
自分の頭がいいのは事実なんだから仕方ない、と割り切った藤の発言に厭味はなかった。俺は、ただ呆然と藤を見つめていた。藤の声は明るく抑揚に富み、表情豊かに目尻を下げて頬を弛緩させている。くるりと廻れ右をして、藤は鼻歌混じりに壊れた視聴覚室を歩き始めた。瓦礫を避けて、底抜けた床を避けて、まだ僅かに粉塵の舞うこの空間を機嫌よさげに徘徊する。
小さい頃、まだ普通に外出できた頃、岬姉ちゃんがつきっきりで俺の面倒を見ていてくれた頃のことだ。さすがに幼稚園の中にまで岬姉ちゃんは入ってこれなかったから、俺はひとりぼっちだった。ひとりで絵を描いたり、絵本を眺めていた俺に、藤は声をかけてきてくれた。藤は昔から賢かったし足も速かった。俺の目には、友達がたくさんいるように見えていた。俺と仲良くなると、藤はそれまでの付き合いが嘘のように俺とばかり過ごすようになった。あのとき、みんなといるよりお前ひとりといたほうが楽、とか言っていたような気がする。なにせ十年以上昔のことだから、正確には思い出せない。その当時、藤はまだ裸眼だった。
無意識に記憶を遡ってしまうほどに、藤の笑顔は無邪気だった。遠い思い出を掘り返しても出てこないような裏表のないスマイルを、十五歳の藤が浮かべていた。凝視するな、というほうが無理だった。
いくらか歩き回った後、藤は再びターンした。柔らかい笑顔のまま、藤は少しだけ目線を下げる。そこで眼鏡を取り去った。久しぶりに藤の素顔を見た気がする。手に残った眼鏡を、藤は躊躇なく床に放り捨てた。
「夏也は知ってるよな。俺の眼鏡のこと」
反応を見せないと話が進みそうにないので、俺は頷いた。両目とも申し分ない視力を持つ藤が、どうして度の入った眼鏡をかけているのか。以前に聞いたことがある。ある日、突然人に見えないはずのものが見えるようになった藤は、能力を制御できずにいつも見たくないものを見ていた。相手が詰め寄ってくる以上完全に無視することも叶わず、日常的に追い詰められ、やがて一時不登校になった。次に学校に来たとき、藤は眼鏡をかけていた。クリアすぎる視界を、不必要な度入り眼鏡で濁らせて少しでも鈍感に振舞おうとした。聞いた話ではそういうことだった。
「じゃあさ、今ここで、その眼鏡がいらなくなった理由はわかるか」
首を左右に振り、ノーを示した。藤は口元に柔軟な笑みを刻み直す。
「俺、絶対に夏也を守らなくちゃいけないって思ってた」
「なにがどうなっても。誰を殺しても。だって夏也が死ぬんだぞ。そんな世界はいらないだろ?」「俺、夏也を守ったんだ。今日、今、この酷い世界から。俺が守った夏也の世界。綺麗な視界で、よく見てみたくて」。立て続けに藤は言う。軽快にステップを踏み、両手を広げて、藤は笑った。俺には笑うことなんてできなかった。
「みんな死んだの?」
やっとのことでそれだけ訊ねた。藤は、なにを言っているんだとばかりに肩を竦めた。呆れた雰囲気ではなかった。単純に藤は俺のことを思ってくれているのだとわかった。
「途中で目的が変わってたけど、最初からやろうとしてたことだろ。首謀者が夏也から俺にスライドしただけだ」
「でも、爆発の威力も仕掛ける場所も、全部相談してふたりで決めただろ」
言い返すと、藤は広げていた手を戻した。人差し指で頬を搔き、少しだけバツの悪そうな顔をする。今日の藤は感情豊かだ。その点だけは俺にとっても面白い出来事だった。問題は、呑気に楽しんでいる状況ではないことだった。
「勝手なことして悪かった、とは思ってる」
「じゃあなんで?」
すかさず急かす。藤は言いにくそうに下唇を噛んだ。
静まったかと思われた爆発が急に連続したことで、外の騒ぎは大きくなっていた。爆弾処理の専門家が乗り込んでくるとは思っていたけど、再度の爆発で一時的な足止めにはなったはずだ。落ち着いてきたから、もうそろそろ本格的にこの校舎に入ってくるかもしれない。俺は視線を辺りに彷徨わせる。崩れた校舎は、見れば見るほど無残で悲惨だった。どうしてこんなことになったんだろう。何度も考えたことを、俺はまた考えた。
関わることを永遠に放棄されてしまったけれど、大好きな岬姉ちゃん。岬姉ちゃんの死に様を、俺は映像として捉えてしまった。正確な死因まではわからなかった。でも、視えてしまった以上、岬姉ちゃんが死んでしまうことは間違いなかった。死んじゃうからどこにも行かないで、と腕を掴んでしまったことで、岬姉ちゃんが既に決まっている未来よりももっと壮絶で酷い死に方をすることも明らかだった。モノが教えてくれた教訓だ。公園の鳩がそれを証明した。最初に藤が推測していた。
自分がどんなことになっても、岬姉ちゃんが死ぬことだけは許せなかった。なんとかしたいと思った。なくなる命を救おうとして更なる悲劇が巻き起こるなら、なくなる命を増やせば救われる命もあるのではないかと考えた。俺が恋していたと錯覚していた佐伯先生も含めて、学校のみんなを殺してしまおう。そう決心した。でも、結局はそれが怖くなった。岬姉ちゃんを守るために最低な人間になれると言い切ったのに、俺はやっぱり弱虫で臆病だった。要はなくなる命の絶対数を増やせばいいんだから、俺が勝手に自殺することでもその目的は達成される。たったひとりの親友の藤を巻き込んでおいて、しかもこんなことをしているんだから父さんにだって迷惑をかけるし、悲しませると思ったけど、至った結論を俺は疑わなかった。いつからなのかはわからないけど、藤は俺の自殺を察していた。自分でやると決めたことすらも覚悟不足で実行できないチキンな俺だけど、今回だけは絶対に成し遂げようと思っていた。
胸の底に、ざわざわと波立つものがあった。藤は無言を守っている。ここまできて、なにをもったいぶる必要があるのだろう。更に促したい衝動を、俺はそのまま言葉に換える。藤はやっぱりなにも言わなかった。
自殺を思い留まったのは、逃避したい気持ちがあったからではなかった。いや、そう言い切れば嘘になる。逃避したい気持ちは確かにあった。できることなら自分も死なず、藤を巻き込むこともなく、誰も殺さず、岬姉ちゃんが死ぬこともない未来を選択したかった。死なんてものとはまるでほとんど関係ない、葬儀やニュースくらいでしか人の死を目にしない穏やかな日常が、普通の中学生として学校に通える生活が俺だって欲しかった。それは俺には無理な話だった。でも、もしかしたら、諦めなければ、そんなみんなにとっての当たり前の世界に手が届くかもしれないと思った。俺は今まで、極限まで一生懸命だっただろうか。ふと考えて、否という回答に落ち着いた。極限まで一生懸命になって策を探せば、どうにか最悪の未来を回避できるのではないだろうか。回避できると確定はしなくても、可能性くらいは見出せるかもしれない。藤ならきっと力になってくれる。頭のいい藤が、俺では到底辿り着けない着眼点から式を解いてくれる。父さんだって手伝ってくれる。詩仁との関係を修復できるかもしれないし、佐伯先生だって手助けしてくれるはずだ。三橋とも友達になれるかもしれない。学校を爆破した罪は既にあったけど、幸い人は死んでいない。俺は罪と向き合いながらでも、みんなで頑張れば方法が見つかる気がする。俺の自殺は諦めだ。すべてから逃避したい気持ちしかなかった、ナイフで自分の手首を切り裂いたときと同じだと気付いた。あのときは藤が助けてくれた。少しでも長く生きて、運命というやつに抗ってみることを俺に教えてくれたのは藤と言っても過言ではなかった。自分でも今更だと思ったけど、俺はそれに気が付いた。
「俺、やっぱり、夏也だけに罪を背負わせることなんてできない」
藤が重い口を開いた。学校爆破を決行する前、ふたりで交わしたいくつかの「約束」が俺の脳裏を掠めた。
「こんな形で約束を破ることになってごめん。でも、俺だって夏也と同じ罪を背負いたい。夏也にばかり辛い思いをさせるなんてできない。痛みは分け合わないと」
砕けたコンリートの臭いが鼻をついた。胸がざわつく。俺は、一歩後ずさる。どうしてこんなことになったのだろう。またそれを考えた。なにがいちばんいけなかったのか、俺は何度でも答えを探る。
「なあ、夏也」
藤が俺を呼んだ。少しだけ困惑しているけれど、同意して欲しい、といった声だ。視界がブレたような気がした。俺の目の異常に気付く理由は当然なく、眉根を下げた藤は子猫のように純粋だ。どうしてこんなことになったんだろう。なにがいけなかったんだろう。誰がいちばん悪いんだろう。どうすれば打開できるんだろう。俺の中で、答えの見つからない疑問が目まぐるしく飛び交う。なにがどうなって誰がなんと言えば、俺と藤は普通の子どもに戻れるのだろう。
「俺たち親友だろ」
狭い範囲で滅茶苦茶に荒れ狂っていた行き場のない疑問符が、唐突に息を潜めた。前兆なく、回答はいきなり浮上した。ああ、そうか。僅かに息を吐き出しつつ、俺は焦点を下へとずらした。
ブレザーの下のセーターの下、シャツの下の手首に通したリストバンドの下、刻まれた徴に目を落とした。触れても別に痛くはない。ここにこれを刻んだ日、俺は確かに絶望していた。安直な言葉などでは到底表現しきれない感情を思い出しながら、指でゆっくりと傷跡をなぞる。
ポケットに忍ばせたナイフは、手首を切ったものとは違っていた。あのナイフがどうなったのかはわからない。でも、父さんが俺の目に触れさせたくないと思っていることは間違いなかった。俺以上に父さんのほうが見たくないのではないかとも思うけど、父さんはいい父さんだから、自分の苦しむほうと俺が苦しむほうを選ぶなら、迷うことなく自分が苦しむほうを選ぶ。俺はどうだろう。答えはわかりきっている。考えてみる気にはならなかった。
ナイフは、傷跡と同列の俺の戒めだった。自ら命を絶とうとした現実。失敗したことで得たものは、それなりにあったつもりだ。だからもう失敗しない。でも今の俺は、あのときほど思い切って手首を切ることはできない。
「夏也?」
刃先を見つめる俺を、藤は不安げに呼び止めた。ナイフ自体は、俺も藤も一応保持することにしていた。本当に使うことになるとは、さすがに思わなかったけど。
冷たい刃先を首に押し当てるのは、意に反して容易かった。なんだ、俺、できるじゃないか。たった一本のナイフ如きを両手で握って、その手が小刻みに震えていることを除けば、俺だってやればできる人間なのだ。
「夏也、なにしてるんだよ。よせよ。危ないだろ」
藤が一歩前に出た。迂闊に取り乱したりしないのは、この状況がなにを意味しているかわかるからだろう。藤の声は、明らかに動揺していた。
「しまえよ。なんでそんなことしてるんだ。こっちに渡せ、夏也」
一度目を閉じて、俺は再度目を開く。「俺たち親友だろ」。藤の言葉の直後、脈絡なく脳内に提示されたその答えが、体内で音をたてて響いている。俺が選べる最大の回答。選んだから藤が救われる、なんてそんなことはもう考えない。誰が救えるとか助かるとかも考えない。これが俺に示せる答えなのだ。それ以上にも以下にもならない、でも俺はそれを選ぶしかない。逃げるみたいだけど、実際、そんなようなものだ。俺はすべてを周囲に押し付けることになる。
悪いのは死を視る力だ。この能力さえなければ、誰も辛い思いをせずに済んだ。みんな普通の日常を送り続けることができた。いちばん悪いのは、やっぱりこの力だった。命を奪う能力。目で視て殺す死神まがいの力。俺の世界を生き殺しにするこの力。生き殺しだと感じる中でも、ちょくちょく幸せだと感じる部分もあった。その感情が悪かったとは思わない。だからと言って、そんな力を持った俺が悪くないことにはならない。そうだ。悪いのは、結局全部俺だった。俺がいるからいけなかった。俺がこの世に生きて、自分の意思ではないとは言え力を使って、いろんな人や動物や草や花の命を殺してきたのが悪かった。俺の命が罪悪だった。
「藤」
刃先の冷えた温度が首に伝わる。俺は、ナイフの柄を強く握り直した。藤が息を呑むのがわかった。
「約束、ちゃんと守れよ。俺たち親友だろ」
最後くらい笑わなきゃ。とは思ったけど、上手く笑えていたかどうかは自分でわからない。切ってしまえば、もう自分で確認することもできなかった。
絶叫する声が耳に届いた。俺のものではなかった。もう俺の気には留まらなかった。崩れた視界と鈍い五感に織り交ざって、生暖かくて濃い液体が外へ外へと流出する。血だ。俺が生きた確かな証だ。俺が生きた証拠の痛み。最後の一瞬が終わりきるまで、この愛しい痛みを感じていよう。遠ざかる意識を必死に繋いで、俺は強くそう念じた。




