表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/34

三橋優輝 9

 話を聞き終えた後、優輝は、ふたつの拳を強く握り締めていることに気がついた。固めた指を緩く開いて動かしてみると、意識しないうちにかなりの力を込めていたことを認識する。内心では動じていないつもりでも、体の変化は正直だ。

 手に掻いた汗を服に擦りつけた。手汗はすぐに滲んでくる。優輝は湿った掌に視線を落とした。心臓が波打ってくる。やはり体は素直なのだと再認識した。

「動揺してる?」

 投げかけられた声は、必死に平常心を保つ優輝とは間逆だった。迫られた優輝の反応を楽しんでいるようですらある壱井は、銜えた煙草に悠々と火をつけた。甘味と苦味が混ざった芳香が漂ってくる。煙草の匂いはここまで不快だっただろうか。前に壱井が目の前で煙草を吸ったときは、特に害とは感じなかった。

「そっか、動揺してるんだ。動揺してくれるんだな」

「本当にそのつもりなら、なんでこんな事件を起こしたの?」

 少し嬉しそうに笑った壱井に、優輝は率直に問いかけた。壱井の表情から嬉しげな色が引っ込み、翳りのある寂しそうなそれに変わった。壱井は煙草を床に落とし、踵で踏み潰した。普段の壱井ならそんなことはしないはずだ。それがわかっているだけに、目に焼き付く光景だった。一応笑顔を維持する壱井を見ていられず、優輝は微かに視線を逸らした。

「別に人に限らず、なにかものでもいいんだけどさ。三橋は、自分の命を捨ててでも守りたいなにかってある?」

「そんなこと急に言われたってわからない」

「はは、そうだよな」

 じゃあ、訊き方を変えよう。クイズでもしているかのように、壱井は明るく言った。机の上に座り直し、壱井は微笑んだ。その瞬間に、またどこかで爆発音がした。

「それを守るために、誰かほかの人を犠牲にしてもいいって思えるかどうか」

「さっきと同じじゃないか」

「まあ、そうなんだけど。主観的か客観的か、ってだけの話だな」

「キミが死ぬのは勝手だけど、どうしてこんなことしたのか教えて」

 優輝が言うと、はて、とばかりに壱井は目を丸くした。素直に驚いている表情だった。そこまで変なことを言ったのかと優輝は自問したが、どうやらそうらしいことはすぐにわかった。優輝の発言は壱井にとって痛快だったようだ。腹を抱えそうな勢いで、壱井は声を大きくして笑い転げた。

「お前さ、本当に面白いよな。キミが死ぬのは勝手? 普通、この状況でそんなにはっきり言うかよ」

「だって、実際そうでしょ。キミが死ぬのは勝手だよ」

 反論すると、壱井はまた笑い声を上げた。冗談のつもりで言ったわけではないのに、そこまで笑われるとさすがに面白くなかった。煙草を床に擦り付けた様で心が痛んだ自分がバカバカしく、あの痛みを返せと優輝は壱井に迫った。そんなことをすればまた壱井は笑うと思ったが、そうせずにはいられなかった。案の定壱井の爆笑を買い、優輝は壱井に石でも投げつけて無言で走り去ってやりたい気分だった。

「あー、笑った笑った」

「本当にね」

 ぼそりと同意すると、壱井はまた肩を震わせた。不穏な空気を察知して壱井を睨みつけると、壱井は今度は困ったように眉根を下げた。もう笑わないよ、ごめんと笑顔で告げる壱井を優輝は信じる気にならなかった。

「どうしてこんな事件を起こしたか、ね」

 息を吐き出して、壱井は切り出した。ようやく本題だ。優輝は耳を傾ける。

「藤には悪いことしたって思ってる。俺の我儘にもろに巻き込んじゃったし」

「学校のみんなには思ってないの」

「お前、いちいち痛いな」

「散々笑ってくれたお返し」

「ごめんってば」

 笑いながらの謝罪のあたり、本気なのかどうかは知らないが、壱井に悪気がないことはわかる。いつまでも機嫌を損ねていても仕方ないので、ひとまず許すことにする。話を進めるのが先だった。

「さっきの話が本当なら、この爆発に意味なんてないよね。茶番だよ」

「茶番か。そうだな」

 拍子抜けするほどあっさりと、壱井は認めてしまう。あまりの簡単さに、優輝はたじろぎそうになった。

 優輝が思っていた通り、一連の出来事には意図があった。これは壱井の無理心中でも、まして世界への仕返しでもない。確実に死ぬのは自分だけ、と言っていた意味もわかった。でも、まだどこかすっきりしない。その理由ははっきりしていた。

「それは忠勝君に言ってないんでしょ」

 一応確認してみる。壱井は軽く頷いた。だからすっきりしないのだ。頭のいい藤が、壱井の考えていることに気付かないとは思えなかった。

「この事件じゃ誰も死なない。運悪く死者が出たとしても、せいぜい片手で数える程度。爆発の威力が場所によって違うのは、そういうことなんだよね。ちゃんと設定して作ってある」

「藤にしかできないことだよ。俺には逆立ちしたって無理だ」

 自嘲するように壱井は言う。ますます優輝にはわからなかった。壱井が言うように、爆弾の殺傷力を計算して作り上げるなどという芸当は藤にしかできないだろう。だからこそ違和感が伴うのだ。ずば抜けて頭脳明晰の藤が、壱井の示唆していることに気付かないとは思えない。いくら壱井が上手く演技し続けたとしても、藤は妙な空気のひとつくらい嗅ぎ取っていてもおかしくなかった。むしろ、嗅ぎ取っていないことのほうが信じられなかった。

「自棄になってるんじゃないかな、あいつ」

 言いながら、壱井は腰の位置を整える。落ち着かない様子で、再度壱井は座り直した。

「自棄なんだよ。気付かないわけない。ひとつひとつの威力を変えたいって言ったのは俺だけど、爆弾を作ったのは藤なんだから」

 俺なんかのために、自棄になってくれてるんだ。そう言ったときだけ、壱井は純粋に嬉しそうだった。

 壱井には、誰を殺す気もない。藤もそれを知っている。いや、察していると言うべきか。壱井にとって、この世界はなんなのだ。生き殺し。壱井はそう表現した。生き殺しにされているのに、荒れない壱井の精神は優輝にはいっそ不気味にも思えた。壱井がこの世からいなくなることを認識しているのに、わざとらしく事を遂行する藤も異常だと思う。自棄とはそういうことか。やりきれず、優輝は下唇を噛む。今、藤はどんな気持ちなのだろう。

「勘違いしないで欲しいのはさ、三橋。俺に最初から誰も殺す気がなかったってわけじゃないんだ。むしろ最初は、全校生徒皆殺しにしようと」

「夏也」

 特に張った様子はないが、その声はよく通った。声の出所を振り返ると、少し息を切らせた藤が視聴覚室の入り口に立っていた。眼鏡の奥の瞳は普段と同じく冷えてはいるが、その色から、優輝は強い疲弊を読み取る。いつもの藤なら絶対に見せない表情だった。

「待たせてごめん、夏也。俺が来たから大丈夫だ。もう寂しくないだろ」

「うん、藤」

 藤の問いかけに、壱井は柔らかく笑ってみせる。すると、藤も安心したように口元を綻ばせた。優輝に一瞥もよこさず、藤は覚束ない足取りで壱井の傍へと向かう。今にも転倒しそうな危うさだったため、優輝は思わず藤の手首を掴む。寸分の間も置かず、藤は優輝の手を払いのけた。再度、優輝は藤の手首を捉えた。今度は両手を使っている。簡単には振り解かれなかった。

 藤は苛立った視線を突き刺してくる。優輝は動じなかった。

「壱井がいなくなるの気付いてるのに、なんで」

「夏也はいなくなったりしない」

「この茶番はなに? 結末がわかってるのに、どうしてわざと犯罪者になったの?」

「お前がなに言ってるのかわからない!」

 前兆なく張り上げられた声に、一度優輝は凍りついた。藤は優輝の手を勢いのままに振り払い、再度こちらを睨みつけた。後退する形で壱井の傍へと向かう。今の今まで冷めていた瞳が、熱を秘めて底から煮え滾っている。めくるめく藤の激情に、優輝の認識が追いつかなかった。

「結末? なんの話だ。夏也がここまでのことをした気持ちが、お前にわかるっていうのか。その結果どうなるのか、お前にはわかってるっていうのかよ!」

「忠勝君」

「もう煩い。邪魔するな、煩い!」

 藤は両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。張られた声はぎりぎりまで引っ張った糸のように余裕がなく、追い詰められて完全に逃げ場をなくしていること示している。やはり藤にも犠牲を出すつもりはないのだと確信した。白昼堂々、本気で大量殺人を犯すつもりなら、逃げるもなにも今更なにを恐れる必要もない。いっそこの場で直接自分を殺したとしても、藤にはなんのデメリットにもならないはずなのだ。

 悠長に構えている場合ではないが、切迫した状況に追い込まれてみると、普段の藤のクールな振る舞いこそが仮の姿だったのではと思えてくる。浮き彫りになった感情を、隠すことなく外界に放出する藤。自棄になっているとしても、見慣れない動作は真新しい。このまま藤を観察して変化を眺めていたいような、優輝は微かにそんな興味を抱いた。

 猛る感情を顕わにする藤とは対照的に、壱井は大人しかった。顔立ちも体格も藤より格段に幼いが、下手をすれば壱井のほうが年上のようにも思えた。一秒にも満たない時間、壱井は藤の背中に申しわけなさそうな視線を送る。壱井はその後、少し困ってはいるが、冗談を織り交ぜたような色の瞳で優輝を捉えた。薄い桃色のその唇が、優輝の目には、謝罪の言葉を象ったように見えた。

「藤!」

「藤君!」

 ふたつの声が重なり、視聴覚室全体に轟いた。聞き慣れたその声を判別するのは容易かった。声のした出入り口を振り向く。息を切らせた七瀬と佐伯が立っている。佐伯と壱井の視線の狭間に優輝がいる形になっている分、ふたりの感情の動きは肌で認識できた。佐伯は、未だに事態を把握することを拒んでいるような表情だ。自分が気にかけていた生徒が事件を起こしたのだから無理もない、と納得しようとしたが、そこで優輝は微妙な気配を感じ取った。

 背中で感じる壱井の視線が揺らめいたような気がする。己の感性に従うなら、一瞬壱井は、自分や藤に向けるそれとは違った目をしたということだ。照準は七瀬だったのか、それとも佐伯だったのか。さすがに判別しようがなかったが、その疑問はすぐに解決した。

「壱井君、どうして……」

 一度睫毛を伏せた後、佐伯は消え入りそうな声で呟いた。問いかけたのではなく、思わず口に出してしまった、という雰囲気だった。壱井の呼吸が詰まり、喉からくぐもった声が漏れると、壱井の特別な眼差しは佐伯に宛てられたものだったのだとわかる。優輝は身を翻し、焦点を壱井に定めた。壱井はやりきれない感情を押し殺すように床を見つめ、右手で胸を押さえつけた。直後に左手も添えた。心臓の真上に重ねられた両手の指には、以前まで見受けられた派手な指輪はひとつもなかった。

「どうして?」

 問い返したのは、壱井ではなく藤だった。年相応の幼さが色濃く残った壱井の声とは正反対に、藤の声は低く落ち着いた印象を伴う。長身な藤より壱井のほうが大人びて感じられた先刻を、優輝は奇妙な気分で捉え直した。やはり藤のほうが年長に見えると、場違いなことを考える。

 両耳に押し当てていた掌を、ようやく藤は離した。いくら両手できつく耳を塞いでいても、音が完全に遮断されることなどない。佐伯先生の言葉を、藤はしっかりと聞いていた。

 藤は体側に腕を垂らし、顔は伏せている。長めの前髪が邪魔で、表情を読み取ることはできなかった。

「なんだよ、どうしてって。どいつもこいつも」

 藤の両手の拳が固められ、すぐに解かれた。惜しみなく嫌悪を込めているが、それでもまだ憎しみ足りないとばかりに、藤の声は震えていた。藤の荒れた感情は、空気を伝って毛穴から全身に入り込んでくる。体内に取り込んだ藤の荒んだ情が、自分をかき乱す。そんな気がするだけだ。強く自分に言い聞かせた。普段冷静な藤を相手として認識しなければいけない分、対象の明らかな変容に優輝の体は不利な錯覚ばかりを引き起こしている。

「どうして? バカか? 少しは自分の頭で考えたらどうだ。想像力を働かせてみろよ。バカだから無理か? どこまで俺を苛立たせれば気が済むんだ、大バカ揃いが」

「おい。黙って聞いてれば人のことバカバカって」

「これが散々酷い目をみてきた夏也の仕返しっていう読みは、お前が結論した通り大はずれだ。でも、そんなまったくの検討違いなことを思いついたってだけで、俺に言わせればもう救いようなくバカなんだよ」

 身を乗り出しかけた七瀬を、佐伯が制した。何故引き止めるのかと七瀬は佐伯を睨んだが、佐伯は唇を結び、意思の篭った瞳で首を横に振るだけだった。七瀬は佐伯の手を払い落として藤に殴りかかりそうだったが、口を歪ませて居直った。この場に大人がいてくれてよかった、と優輝は密かに安堵した。非情に腹立たしいことではあるが、自分ひとりの力では苛立った七瀬に抑制をかけられない。

 ひどくスローな動作で、藤は自身の肩を抱き寄せた。伏せた顔を少し動かすと、細い黒髪が揺れる。前に垂れる長めの髪が顔を半分覆い隠し、奇妙な艶やかさを振りまいている。

「夏也が、死ぬ?」

 一文字一文字の音を確認するように、藤は吐き出す。反応する者はいなかった。反射で優輝は壱井を見やる。壱井は床に視線を滑らせただけだった。

 優輝は七瀬と佐伯に素早く視線を走らせた。目を見開いて顔を見合わせている反応からすると、このふたりは壱井の本当の目的を知らないようだ。つまり、誰も一言足りとも「壱井が死ぬ」と言っていない。

 やはり藤にはわかっていたのだ。おそらくそうだと予想はつけていたものの、優輝の胸に、言いようのない気持ちが勝手に込み上げてくる。それらしく演技していたのは、壱井ではなく藤のほうだった。とすれば、壱井はずっと素だったのか。いや、壱井は最初から誰も殺す気がなかったわけではないと言っていたから、藤との掛け合いの中で偽った部分も必ずあったはずだ。

 藤を親友だと言う壱井と、壱井を親友だと言う藤の姿が、優輝の脳内に浮かび上がってきた。互いに嘘を吐き合って演技し合う、果たしてそれが親友同士の有りようなのだろうか。なんの関係もない第三者でも目を逸らしたくなるような、胸を内から締め付けられるようなその関係性が。そこに親友という呼称がついてくるのなら、親友など、さしていいものではないではないか。優輝は心の奥で声を高くする。信頼できる人間に自ら嘘を吐く苦痛と吐かれる苦痛。ふたつの苦痛が伴って、しかもそれを両者とも承知している。そして気付かぬふりをする。藤と壱井の構図では、親友たる由縁をそうとしか説明できない。

「訊きたいのはこっちだ。どうして夏也が死ななくちゃいけないんだ。なんでそんなことになるんだ? なんでいつも辛い思いをするのは夏也なんだ? 夏也を拒むこの世界が、俺には絶対許せない!」

 許せない、許せない、許せない。呪詛のように繰り返し唱えながら、藤は両手で激しく髪を掻き毟った。

 後味の悪い、反倫理的な映画でも見せられている気分だった。藤の心情が皮膚を拭け、体内の循環経路を通過し、全身に恙なく染み渡る。瘴気だ、と優輝は思う。藤の純粋に壱井を思う優しさが生み出す、清純で猟奇的な瘴気。汚れなどないのに、確実に精神を侵してくる。藤の気持ちを考えれば、無碍にこの瘴気を振り払うこともできなかった。事態をどう打開すべきかと、優輝は懸命に頭を捻る。

「大丈夫。大丈夫だ」

 藤の声が、突然優しく柔和なものになった。藤は壱井に顔を向けた。壱井の瞳は一瞬優輝と七瀬を見やり、佐伯を捉えた。それから藤と視線を合わせ、少し困ったような淡い微笑を浮かべる。

「夏也、大丈夫だからな。俺が絶対守ってやるから」

「ありがと。藤は頭いいし、途中から全部気付いてたんだよな。目的は確かに死ぬ人間の数を増やすことだったけど、それってイレギュラーなら誰でもいいんだ。だから俺が自分で死んで、その目的を達成しようとしてることにも」

「気付いてた。全部気付いてた。そうじゃないふりをしてた。夏也とは小さい頃からずっと一緒だった。考えてることくらいわかる」

「騙しててごめん。俺、ちょっとだけまた考えてみようかなって思うんだ。時間はあんまりないけど、まだ少し残ってると思う。よくわかんないけど、藤と一緒なら、本当になにか別の方法が見つかるんじゃないかって思えるんだ。藤が親友じゃなきゃ絶対思わなかった。なあ藤、もちろん一緒に考えて」

「俺はもう考えた」

 壱井の言葉に、藤は自分の声を被せた。低く冷たく乾いた声だった。精神を刺すような鋭いそれに、つい先刻の柔らかい物言いの陰は微塵も残されていない。豹変した藤の態度に、壱井は戸惑っているようだった。え、と無意識の疑問を飛ばす壱井の表情は、年相応に幼く素朴だった。

「言っただろ。この世界が許せない。あらゆる命の終わりを映像として見る能力を夏也に与えたこの世界が。叶わない恋の種を夏也に植えつけたこの世界が」

 優輝の後ろで、佐伯が息をついた。それだけで察しがついた。年齢的にも一応敏感になっているし、そこまで鈍感なつもりもない。佐伯にだけ自分や七瀬に向けたそれとは違う視線を当てたのは、そういうことだったのか。恋愛のパターンは人それぞれ、年の差カップルなどという言葉もあるが、中学生が学校の先生に恋するのとは話がまったく違ってくる。壱井は、まさしくその不利なパターンに至っていたわけだ。確実に叶わないとは言い切れないが、その可能性は相当低い。佐伯の反応を窺うと、既に壱井は玉砕している。

「藤がそう言ってくれるのは、本当に俺のことを大切に思ってくれてるからだよな。それはすごく嬉しいけど、もう一回だけ考えてみたいんだ。力、貸してくれるだろ」

「能力の趣旨を知った途端に、夏也を避ける人間のいる世界が許せない。ひとりぼっちの家の中で、誕生日にすら仕事で帰って来ない父親を夏也に待たせる世界が許せない。精神的な意味で実の姉を夏也から奪った世界が許せない。二度も夏也に自殺を決心させたこの世界が、俺はどうしても許せない」

 許せないんだよ、俺。そう言って、藤が更に付け足した。

「夏也が最初に自殺を図ったときから、俺はこの世界が許せなかった」

 藤が口を閉ざした直後の僅かな静寂、静かな空間に、細い亀裂が迸った。突如として優輝の背中を凄まじいスピードで這い上がった悪寒は、そう例えてもまだ余るあるほどに強烈だった。何故このタイミングで戦慄したのか、瞬きする間に優輝は咄嗟に理由を探る。閃きはすぐに訪れ、あり得るとしたらそれだけだと判断した。俺なんかのために自棄になってくれている、そう言って笑った壱井が目蓋の裏に映りこんだ。

 離れて、と優輝が叫ぶより早く、衝撃音が轟いていた。けたたましい高音が鳴り響き、ふたつの悲鳴が重なる。立て続けに階下で爆発が起こり、校舎が揺れた。優輝は必死に壁を伝い、身体が倒れこむのを抑制した。その瞬間は目を開けていられなかった。

 輪郭を持つ殺意は、壱井ではなく藤のものだった。だから、壱井を前にして話を聞いても胸騒ぎは肥大する一方だった。今頃気付いても遅いと後悔しながら、優輝は、胸の内に滞り続けた違和感の正体を思い知った。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ