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藤 忠勝 7

 七瀬の視線がこちらに集中しているのはわかっていた。が、一度爆発が起こると、予想通りその注意の的は逸れた。あっけない結論に溜息が漏れた。注視が解かれた少しの解放感と、あまりに簡単にやり切れてしまう七瀬の目を嘆く情が入り混じった溜息だった。感づかれ、絶対なかっただろうが騒がれたとして、決行を取りやめる気など毛頭なかった。そうなったときのためのシミュレーションだけはしておいたが、それも杞憂だったというだけだ。

 教室のみんなが爆発に気を取られているうちに、俺は窓から脱出した。四階だが、俺の運動神経ならどうにでもなる。予めルートも計算している。この現場を誰かに目撃されていたとしても、それは問題ではなかった。連続する爆音に耐えかね、窓から逃げ出した生徒。そんなふうにしか見えないはずだ。同じ教室で過ごしている連中の目さえ欺ければ、後のことはどうでもよかった。

 足が地上に着いた頃には、各教室で生徒の誘導が始まっていた。教師が生徒たちを先導している様が、吹き抜けになった窓からよく見える。中等部三年四組は、佐伯先生の担当らしい。不快に胸がざわつく偶然だ。舌打ちを堪えて第一校舎へ向かう。初等部、中等部、高等部、大学部とバカバカしく巨大な学園の敷地のおかげで、生徒がひとり集団から離れたところで目立つ余韻などなにもない。誰しも自分が生き延びることに精一杯で、校舎からの脱出途中で点呼を取るわけもない。仮にいたとしても、その人物は取り残される。ならば優勢はこちらだ。

 焦るでもなく、いつものペースで俺は校舎内を歩く。直に警察や消防隊などの関係機関が押しかけてくる。が、考えなしに踏み込んでくれば爆発被害が増大することはサルでもわかる。学園にいる総人数とこの広さから、避難に時間がかかるのも明らかだ。無能な構造を利用した犯行。こちらのそこまでの意図に気付くかまではわからないが、大人はさぞ悔しい顔をすることだろう。俺は声をあげて笑ってやりたくなる。

 鬱陶しいのは、七瀬よりも三橋だった。単純な七瀬を出し抜くのは容易いが、三橋はあれで鋭く聡い。傍目にはなにを考えているのか読み取れない奴だけに、脅威はそれなりに大きい。実際、三橋だけは夏也が学校に来ていることに気付いていた。もしかしたらほかに夏也を認識していた奴がいるかもしれないが、その人間は夏也の内情を知らない。それがあることにすら、遠目に察することは難しいだろう。七瀬を受け流すのはなにほどのことでもない。佐伯先生は、役割上、生徒たちの保護に回らざるを得ない。三橋だけをマークする必要があった。だから俺は、三橋の行動パターンを視野に入れたプランを練っておいた。三橋が七瀬に俺を見張るよう言い残したのも、すべて予測のうちだった。

 学校のあちこちで、鈍い爆発音が弾けているのがわかる。少し校舎が揺れたのは、階上の渡り廊下も吹き飛んだからだ。この分はわりと強めのものを仕掛けておいた。通行はもう不可能になっているはずだ。これで第一校舎に渡る術は、一階から入り口を抜けるのみになった。三橋と夏也は対面してなにを話しているのか、俺は少し気になっている。

 学校を爆破しようなんて、いつもの夏也なら間違っても提案しない。そんなことをするくらいなら死んだほうがましだと、本気で言うかもしれない。でも夏也は提案した。肌寒い校舎の中を歩きながら、俺は思い返す。夏也は学校の爆破を決めたのだ。さすがにふたつ返事で頷くことはできなかったが、俺もそれを了承した。だから協力した。威力や殺傷力を計算して、仕掛ける場所を決定し、緻密な作業を繰り返して爆弾をいくつも作り上げた。薬学科のある大学部まで付属のこの学園なら、注意を払えば材料を調達するのは難しくなかった。

 製法は、足がつきそうなネットではなく図書館で調べた。直接爆弾の作り方を探さなくても、必要な情報だけをデータベースから選定して自分の解釈を交えながらまとめていけば方法はある。情報が散っているから証拠に残りにくいし、図書館で本を読んでいただけでは目撃者も証言しようがない。メモの類は一切取っていない。爆弾作りは、実際の作成以外は学校で片付いた。

 爆弾を作ることよりも、設置することのほうが難しかった。というより、見るからに怪しい物体をセッティングするのは無謀だった。爆弾を取り付けた上で如何にナチュラルな構図を作り上げるかが鍵だったが、幸いなことに、中等部には佐伯先生の意向による小さな植木や観葉植物がたくさんある。変に凝った小細工はせず、メインとしてこれらの陰を利用すれば十分に誤魔化せた。この第一校舎の一階以降は人が入らないから、そこにはなにもしていない。四階の渡り廊下だけは、災害時避難器具の収納スペースに小型のものを置いてあった。隠そうとせずに堂々と曝しておけば、怪しいものも馴染んで見える。さすがに露骨に不審物とわかる仕様は避けていたが、それでもその程度は相当軽かった。

 階段を一段ずつ登っていくと、ゆったりした波のような疲労感に襲われた。体が音を上げているらしい。無視して、俺は足を進める。手順自体は問題なく進めても、爆弾を作るのに神経を使わないわけにはいかなかった。自分で手に持って作業をしているのだから、少しのミスが命取りに直結する。加えて、すべての爆弾製作を担当したのは俺だ。爆発する時間も細かい計算を重ねて設定したから、その分疲労も倍増しだった。夏也は申しわけなさそうにしたが、そのつもりで俺に話を振ってきたのだ。自分にはできないとわかっていたから俺を頼った。頼ってくれた。たとえそれが犯罪だろうが禁忌だろうが、夏也が望むなら、俺にはそれを遂行する義務がある。夏也をずだぼろにするこの世界から、たったひとりの親友として、俺が夏也を守ると決めた。俺だけは、もうこれ以上夏也を絶対に傷つけない。徹夜続きで疲れきっていたとしても、それを表に出さないよう演技するのだって難しくない。

 夏也から学校の爆破を提案された日。夏也と俺が私服で公園まで歩いた日だ。何故そんなことを考えたのか、夏也は包み隠さず教えてくれた。すべて話す、と言ってくれた。あの日の会話が耳の奥で反響する。何度リピートしたかわからない会話だった。

『死ぬのがわかってるのを助けようとすれば、もっと酷い結果になるんだよな。それなら、その逆ってないかな』

『逆?』

『最初からもっと酷いことをすれば、視えちゃってても死なずに済むんじゃないかって』

 あるわけない。寸分の間を挟まず、俺は思った。夏也の能力のことはほとんど謎で、推測と憶測で塗り固めた曖昧な解釈しかしていない。その曖昧な解釈さえも、夏也自身にプラスに働く要素なんてひとつとしてありはしなかった。今回もきっとそうだと思った。

 それに、もしその夏也の言う「もっと酷いこと」が既に視えた死を無効化するとしても、そんなことのほうが試せなかった。それはつまり、夏也が自分の意思で生きている命を滅するということだ。夏也が助けた鳩は予定よりも酷い死に方を迎えたようだが、あれは飽くまで賭けだったと思う。鳩が死ななければ、夏也はきっとそんなことを考えなかった。

 あるわけないし、夏也にはできない。はっきり言おうと口を開いた瞬間、夏也は俺を制した。

『できない、って思ってるんだろ?』

 夏也は笑った。夏也の細い指先が、オレンジ色のマフラーの刺繍の部分、太陽に触れた。その小さな手で、夏也は、俺如きとは比べものにならないほどのことを背負っている。第六感が霊を知覚し、俺にはそれが鬱陶しくてわざわざ撃退する必要があることくらい、なんということでもなかった。

『できるよ、俺。岬姉ちゃんのためなら、どんなに酷いことだってできる。酷くて自分勝手で最低で最悪で、どうしようもないくらい嫌われ者の弟になれる』

 ここで記憶が途切れた。時間の流れが、いやにゆっくりと感じられた。階段を昇るペースが遅いからだろうか。それでもスピードを上げる気分にはならない。休憩せずに次の階を目指した。ほとんど寝ていない身だ。さすがに無表情を装うのは疲れた。ここにはクラスメートはいないから、演技を続ける必要もない。疲れが押し寄せたが、張っていた気が少し緩んだ。

 夏也は、姉の死を視てしまった。輪郭がぼやけていたりはっきり見えたりとパターンは安定しないようだが、いつもは映像として視るそれが、この回に限っては認識できなかった。それでも漠然と姉が死ぬことを知った夏也は、どうにかして姉を助けようとした。出て行こうする姉を懸命に引き止めた。でも願いは空しく、結局姉は恋人と家を出た。夏也が自殺を図った日、七瀬が目撃した例の決裂だ。姉に暴言を浴びせたのは、もうどう足掻いても自分と姉との距離が縮まらないとわかってがむしゃらだったからだと言う。「友達だからこそ言えないこと」。夏也がその括りを作るに至った起因が、いよいよ本当に実体化したわけだ。公園で夏也が俺に耳打ちした「お願い」は、彼氏の真似、つまり髪を茶色に染めることで姉の気を惹こうとしていた行為に意味がなくなったから、黒染めして欲しいということだった。その理論なら煙草もそうだが、煙草は簡単にはやめられない。それでも夏也が煙草を一箱消費する頻度は格段に減少したそうだ。今では吸いたいと思うこともほとんどなくなったらしい。

 夏也の姉の記憶が抜け落ちていることは、もうこの日に伝えておいた。俺が夏也の姉の存在を綺麗に忘却していることに、夏也は目を丸くした。藤でも忘れることってあるんだな、なんて言っていたくらいだ。俺も驚いている、たぶんこれも夏也の能力に関連しているんじゃないか、と言うと夏也は黙った。滅茶苦茶だがそう解釈するしかなかった。夏也は「すごく大好きな姉ちゃんのことだから特別なんだよ」と笑った。説得力があったのは、そのすごく大好きな姉ちゃんを確実に失うビジョンを目にしているのに、夏也に特別変わった点がなかったからだった。再三命の終わりを視ているから人の死に慣れているのか、身近な家族の死を体感したことがないから実感がないだけなのか。どちらも経験していない俺には、判別のしようもなかった。

 死を認識して助けようとすればもっと残酷な死に方をするのなら、対象を助けようとせず、自ら凄惨な事件を起こしてなくなる命の数を増やす。贄だ。夏也はこの学校を贄に捧げた。恋と思われた感情を抱いた先の佐伯先生を含めて、通用するかわからない生贄を差し出した。夏也の能力に対しての行為だから、自分自身に食わせるようなものだ。夏也は今どんな気持ちなのか、ここまで来てしまえば考えるだけ無意味だった。学校を爆破するなんて大それたこと、まず間違いなく少年院送致になる。せめて夏也の姉は救われて欲しい。切実に俺はそう思っている。

 夏也から託された「お願い」はいくつかあった。プレゼントしたマフラーを預けられたこともそのひとつだった。理由がわからなかったが、夏也曰く『友情の証』らしい。ふたりで人の道をはずれたことをするのだから、その前に人の子どもっぽいことをしておこう。そういう狙いだったようだ。如何にも夏也が思いつきそうなことだった。学校を壊そうなどと言い出す人間の発想ではなかった。

 三階まで上がってきた。夏也は四階の視聴覚室にいる。三橋もいることはわかっているが、口論の類にはなっていないようだ。そんな声は聞こえてこない。三橋は声を荒げるタイプではないし、夏也もこの状況で我を乱したりするわけがないか。

「必ず誰かが犠牲、か」

 無意識に声が零れた。これで夏也の姉が助かったとしても、夏也は少年院に送られる。未成年だから名前は出ないし前科にはならないが、社会は甘くない。夏也は確実に社会的に絶命する。夏也の姉が助からなければ、意味なく犠牲が増えただけだ。そんな世界は許さない。今度は俺が、俺の意思で世界を芯から叩き壊してやる。

 思考に浸っていたから、いきなり肩を掴まれたときは呼吸が止まった。振り返ると、ここまで全力疾走してきたのか、息を切らせた七瀬が俺の肩に手を置いていた。指先から伝わる力は多分に強い。その鬱陶しい右手を、払いのけようとは思わなかった。

「お前、何個仕掛けたんだよ」

 俺は無言だった。七瀬の顔が歪んだ。勘に触れたか。俺の知ったことではなかった。

「自分がなにしてるのかわかってんのか? 犯罪だぞ。これだけのことして、ただで済むとは思ってないよな」

「無理だろうな」

「わかってるなら、どうしてだよ!」

 変声しきっていない七瀬の声は、どうにも耳につく。指で耳の穴を塞ぎたくなる衝動に駆られつつ、俺は無表情を保った。

 これこれこんな事情がある、とは言えなかった。夏也の「お願い」は、マフラーのことだけではなかった。それがなくても、こいつに説明する気なんて毛ほどもないが。

 七瀬に背を向けて、俺は再び歩き出した。七瀬はしつこく肩を掴んできた。

「爆発してないやつ、まだあるのかよ。それはどこだよ」

 言うと思っているのか。意識したわけでもなく、溜息が漏れた。それが一層、七瀬を苛立たせたらしい。七瀬は俺の前に廻り、眼光鋭く頬を引き攣らせる。

「バカなことは止せよ。死人が出たらどうするつもりだ」

「別に」

「別に、じゃないだろ。おい藤、お前ふざけんなよ!」

「ふざけてる? 俺が?」

 いい加減でこいつは邪魔だ。こいつを相手にするなんて時間が勿体ない。瞬時にそう思ったのは事実だ。だから完全に無視するつもりだった。でも、口が勝手に動いていた。

 七瀬が少し怯んだ。威勢よく突っかかってきたのは自分のくせに、言い返されるのは想定外だったと言わんばかりだ。意味がわからない。尚更、こんな奴を相手にしている暇はなかった。でもダメだ。俺の意思と関係なく、思考回路を抜けずに言葉が外に出る。喋っちゃダメだ。夏也との約束があるのに、自制が効かない。

「誰がふざけてるんだろうな。あんな気持ち悪い力を持ってるせいで、夏也がどれだけ辛い思いしてきたと思ってるんだ。お前だって手酷く傷つけたくせに」

 そうだ。死を視る能力さえなければ、夏也は学校を爆破したりしなかった。俺だってなにもしなかった。その能力があるから、夏也は外に出ることを拒むようになった。ふざけているのは俺じゃない。世界のほうだ。夏也はなにも悪いことをしていないのに、そんな酷い世界でも完全に拒否することはなく、少しだけ愛そうとしているのに、この世界が夏也を拒む。毒だ。膿だ。こんな世界は必要ない。「生き殺し」。手当たり次第に死の視覚化を押し付けられる夏也は、自分の世界をそう形容していた。

 七瀬がたじろいだ。自分が夏也を傷つけたことを自覚している証拠だ。それは理解するが、信用する気はもちろんない。そんな俺を見越しているのかどうかは知らないが、七瀬は一瞬目を伏せた。直後、繊細で芯の通った瞳を俺に向けてくる。

「今まで散々痛めつけられてきたから、今度はこっちが痛めつけてやるって魂胆かよ」

 七瀬がそう解釈するのも無理はない。そんな出来合いでありきたりな枠に夏也を当て嵌めるのは腹が立つものの、そう取るしか七瀬には選択肢がなかった。わかっていれば苛立ちも最小限に留められる。

 七瀬は顔を伏せた。納得したなら、早くどこかに消え失せて欲しい。七瀬が感じたことが真実かどうかは、この際どうだってよかった。早く夏也の傍に行ってやりたい。こうなってしまった以上、あいつの世界と繋がっているのは俺だけだ。俺だけは、なにがなんでも夏也の横にいなくてはならない。一向に立ち去る気配のない七瀬に一言告げようと、口を開いた。同時に七瀬が笑った。鼻で笑った。意味がわからないその行為に、俺は身を引きそうになった。

 どこかで爆発が続いている。七瀬はそれに怖気づいた様子もなく、肩を震わせて笑いを堪えている。七瀬が口角を吊り上げる要因を、頭の中で咄嗟に探した。なにひとつとして出てこなかった。

「できないよな、夏也はそんなの」

 一言、七瀬はそう言った。顔を上げたその表情は、一気に優勢に立ったかのように余裕を醸していた。いきなり足場を叩き割られたような、俺は漠然とした不安を憶えた。いつもの調子で言い返してやればいいのに、そうしてやりたいのに喉に声がつっかえていた。それを肯定を受け取ったらしく、七瀬は更に頬を弛緩させた。

「藤さ、夏也の能力が実は命を奪うもので、その対象を救おうとすれば余計悲惨な死に方をするんじゃないかって言ってたよな。夏也の性格上、試すのは無理だとも言ってたよな。なんで無理だと思ったんだ?」

 畳み掛けてくる七瀬に、俺はなにも言えなかった。七瀬は続ける。

「俺が夏也を避けてたとき、夏也の性格にそれはきついって言ってたよな。つまり、藤は夏也の性格をよく知ってる」

「当たり前だろ。親友なんだから」

「親友ならわかるよな。夏也は、ただむかついてるってだけでここまでのことができるのか」

 自分の顔が引き攣ったのがわかった。すぐに無表情を繕い直しても、最早意味などあり得なかった。七瀬は言う。「お前でもそんな顔するんだな」。わざとらしくキーを上げた声だった。

 夏也のところに行かなくちゃ。俺は絶対に夏也の傍にいなくちゃいけないのだ。あと少し距離を縮めれば、夏也がいる。急がなくちゃならない。それなのに、七瀬がしつこく俺の腕を掴む。いい加減で鬱陶しかった。七瀬の腕を振り払い、俺はその肩を強く突いた。後ろに仰け反り、七瀬は足を縺れさせそうになる。その隙に張り出そうとした瞬間に、俺のものでもなく七瀬のものでもない、女性の声が響いた。佐伯先生だ。俺を呼んでいる。次から次へと邪魔ばかり入る。鬱陶しい。

 万が一のときのために、ズボンのポケットにナイフを忍ばせていた。使うなら今だ。俺はそれ取り出し、ふたりに刃を向けた。七瀬が目を見開き、佐伯先生が凍りついた。

「藤、お前なんでそんなの」

「煩い、喋るな!」

 脅しのつもりでナイフを持っているわけではないこと。七瀬が声を詰めたことで、俺の意思は伝わったと判断した。念のために刃を突きつけたまま、何歩か俺は後退する。

「ついてくるなよ。もう今更引き下がれないんだから。どうせ誰かが犠牲にならなきゃいけない、でもどうせ夏也は救われない。だからこれが夏也の」

 これが夏也の最後の望みだ。姉を救えると信じてこうすることが、夏也に残されたただひとつの希望なんだ。喉を通過して出かかった言葉を、俺は辛うじて飲み込んだ。言ってやりたいけど、言う必要はない。自分を制御した。自分を抑制することは、こんなにも難しいことだっただろうか。興奮した脳では、過去の自分を遡ることさえできない。

 ふたりに背を向けて、一気に駆け出した。振り返ったらダメだ。夏也に「お願い」されている。もう一度七瀬の顔を見たら、夏也を裏切ってしまいそうだった。それだけは回避しなければならない。約束は守られなければならない。

 ふたりは硬直したまま追ってくる気配はなかったが、どうせ追ってくることはわかっていた。その前に夏也のもとに辿り着きたかった。少しでも夏也の傍にいることが、今の俺にできる最大限だと確信していた。



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