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藤 忠勝 6

 コケダマが成長した様子は特になかった。でも枯れていないということは、どこかしらで変化はしているのだろう。それがどこか、なんて好奇心たっぷりに探すことはしない。三日周期の潅水作業を面倒と思うこともなく、枯らしてしまうこともなく、植物の育成が苦手な俺にしては順調な経過を辿っている。水をやり終えてから、夏也の携帯電話に連絡を入れた。コールはすぐに打ち切られ、無理に明るくしたような夏也の声が電波に乗った。家に行ってもいいかと訊くと、あっさりと了承された。声の調子はともかく、夏也はいつもこうだ。自殺に手を出しても変わらない夏也に、安堵している自分を自覚した。

 夏也の自殺未遂から一週間が過ぎた。多少の騒ぎにはなったが、自殺を図った夏也自身が無事なこともあって、今ではすっかり日常に戻っている。平和な毎日。平穏な世界。夏也が本気で死を望み、そこに手を伸ばしたことなんて、もう誰ひとりとして憶えていないような気がする。たった一週間しか経っていないのに。考える度に、俺は気が狂いそうになる。頭の奥で金属の棒を振り回されているような鈍い感触がある。痛い、とは思わなかった。でもそれは確かに不快で、確実に俺の脳を侵食している。

 出迎えてくれた夏也の左手首には、無残な切り傷が残っていた。俺の視線に引っ張られるように、夏也もそこに目をやった。一瞬もの悲しげな顔をした後、夏也は俺に笑顔を向けた。

「これ」

 玄関に入ったところで、持ってきた紙袋を差し出した。夏也の誕生日に、と密かに用意していたマフラーだ。夏也は瞬間的に目を丸くしたが、すぐに察したようだった。男同士で誕生日イベントなんて、自分でも女っぽいとは思う。でも俺にとっては毎年のことだ。照れくさそうな夏也の手に紙袋が渡った。

 俺に一言断ってから、夏也は紙袋の中を覗いた。夏也の表情が綻んだ。オレンジ色のマフラーの端には、太陽を象った刺繍がされている。プレゼント選びが苦手な俺の決め手となったのは、まさにその部分だった。小さな太陽は、中途半端に肌寒い季節に生まれたくせに、名前に「夏」の字を持つ夏也にぴったりだと思った。まあ、夏也が自分のマフラーで死んだモノを包み、そのまま埋めることがなければマフラーなんて選ばなかっただろうが。

「ありがとう」

 そう言って、夏也は笑った。俺は軽く頭を振った。

 促されるままにリビングに入り、俺は腰を下ろした。いつものようにお茶を出そうとする夏也を制する。自分では普段と同じ態度を心掛けたつもりだが、俺の目論見は失敗した。そうでなければ、夏也が素直に動きを止めて、俺の目の前に戻ってくることはあり得なかった。今まで夏也は、いくら俺が遠慮しても、半ば強引にお茶とお菓子を振舞ってくれた。自分の感情を上手く制御できない。拙い自分に苛立ちはするが、今日ばかりは絶対に断ろうと構えていた分、手間が省けたことに違いはない。ただならぬ気配を嗅ぎ取り、黙りこくった夏也を前に、俺は浅く呼吸を整えた。

「今日も親父さんは仕事か」

 直球を避けて質問したわけではなかった。俺が本当に知りたいことだ。今の夏也を取り巻く世界を、可能な範囲で把握したかった。

 夏也の指が左手首の傷を辿った。それは無意識の動作なのかそうではないのか、問いを重ねたい衝動を堪えて夏也の回答を待った。

 何秒か経った後、夏也は頷いた。今日も夏也は家にひとりぼっち、そういうことだった。

「息子が自殺未遂を起こしたっていうのに、ほっといて仕事に行くんだな」

 自分でも驚くほどの、不機嫌な声がのどを抜けた。あまりに露骨な俺の声調に、夏也も意表を突かれたようだった。やっぱり俺は、感情を制御できていなかった。自分はこんなにも幼稚な人間だったか、単に自覚がなかっただけでずっとこうだったのだろうかと、咄嗟に俺は己の記憶を手繰る。

 それでも、聴覚だけは働かせていなければならない。夏也の言葉を聞き漏らすまいと耳を欹てた。

「四日間は仕事休んで、家にいてくれたよ。父さんはなにも悪くないんだから、そんなふうに言わないでくれ」

 まあ、そうだろう。一応、俺の予想した通りの答えだった。仕事の都合はもちろんあるだろうが、たった四日間しか息子の傍にいてやらないところは正直気に入らないが。俺は次の質問を口に出した。

「お前の自殺は、誰がいなければ起こらなかったんだ」

「俺の自殺は俺の問題だよ。別に誰がいなかったら起こらなかったとかじゃない」

「なんでそうやって庇うんだよ」

 先刻とは違い、いつもと同じ感情の変化に欠いた声で言えたことに軽い安心感を憶えた。胸の奥に芽生えた安堵がストッパーを溶かし、言いたいことが次から次に口をついた。どれも紛れもない俺の本心だった。

「お前を自殺にまで追い込んだこの世界に、庇うだけの価値があるのか。望みもしないのに、死を透視する能力まで押し付けられてるんだぞ。お前はそれでろくに外にも出られなくなったし、挙句の果てに姉貴とも決裂した」

 夏也の息が詰まった。胡坐をかいた膝の上に置かれた手が、拳を握った。その割りには、さして力が込められた様子はなかった。どうしてそれを知っているのか、夏也の揺らぐ瞳がそう言っている。夏也の言いたいことは、俺にはわかる。俺だってそれを知りたくて知ったわけじゃない。夏也が実の姉と決裂してしまう理由だって、頭の中で導こうと思って導いたわけではなかった。なにもかもが結びつく。いや、これは最初から察していたことだったか。わからなくなった。俺の頭もだいぶ病んでいるようだ。

 七瀬が語った一部始終を、俺は惜しみなく夏也に伝えた。夏也は俯き、そして小さく頷いた。七瀬からの連絡は何度かあるようだが、なにも返事をしていないらしい。理由を訊くと、夏也はなんとも答えなかった。信用してないと言えば嘘になるけど、信用していると言っても嘘になる。裏切られた直後、裏切った対象が傍に戻ってきたときの複雑な心境を汲めないほど、俺は鈍感な人間じゃない。言及する気にはならなかった。

 裏切られた。頭の中で単語が反芻した。そう、夏也は裏切られた。夏也の能力の真髄を察した七瀬の行動は、俺や三橋に比べれば確かに正常だったと思う。それは認める。でも、それは夏也を傷つけた。その事実だけで、正常だったという正当性は消滅する。夏也を傷つけた七瀬は敵だ。三橋は今のところ、夏也を傷つけてはいない。だから敵ではないと判断するが、飽くまでそれは今の話だ。三橋が敵の立場になるのもきっと時間の問題だ。

 歯軋りしたい衝動を必死に抑えた。ほんの少し前まで、どんなときでも冷静に物事を分析できた俺が、自己を解析できた俺の人格が、音をたてて崩れ去っていくのがわかる。感情を制御できない。どうして、どうして。どうして。なにがいけないのか。なにが俺をここまで苛立たせるのか。記憶を探って原因を突き止めることさえ、今の俺にはまともにできない。自制できない不快感は外に漏れず、俺の中で延々と発生、蓄積、昇華と沈殿を繰り返している。

 この世界に飽き飽きした。その表現がぴったりだと、内心で俺は口角を上げる。たったひとりの親友を自殺に追い込む世界を、どうして好きでいられようか。ここ数日で、嫌悪は着実に肥大してきた。夏也が自殺を図った時点で、ネガティブに塗りたくった感情が腹の底で渦巻いていた。周囲に桁外れな頭脳を評価されようと、結局は俺もひとりの子供に過ぎないことを思い知らされる。不快。そのニ文字に、すべて尽きる。言いたいことも言いたかったことも、不快の前に沈めば二度と浮き上がってはこない。だからあの日、夏也からの電話を取る前に三橋に言いたかったことを伝えず終いだ。今更打ち明けてみる気にもならなかった。

「こんな酷い世界に生きて、一体なんになるって言うんだ? 夏也がなにか悪いことをしたのか? してないだろ?」

 夏也は無言で瞳の奥を揺らしていた。半分は驚き、半分はなにか悩んでいるような、複雑な表情をしている。そのまま、何分か沈黙が続いた。空気が重い。やがて夏也は、下唇を噛んで視線を落とした。夏也のことだから、俺がネガティブなことを言えば、一言くらい前向きな言葉を返してくると思っていた。自分自身が気弱でマイナス思考になっていても、人がそうなっていれば励まそうとするのが夏也だ。もちろん、激励などしてこようものなら、数にしてその倍以上のマイナスイメージを扶植してやるつもりだった。その必要がないどころか、認識を覆されてしまった。俺は面食らう。

「マフラー、使ってもいい?」

 なんの前兆もなく、夏也がいきなり立ち上がった。俺が渡した紙袋を、夏也の手は大事そうに抱えている。承諾すると、夏也は再び微笑んだ。「ありがとう」。邪気のない笑顔だ。膿んでいる夏也の世界に、もっとこんな笑顔があればいい。そうは思ったが、そんなことはあり得ないのだと見切っている自分も確かにいる。親友として、傷だらけの夏也の世界を守りたい。俺は素直にそう望んだ。



 夏也は、首に巻いたマフラーを指で弄んでいた。私服に着替えた俺が出て行くと、夏也は当然のように俺の右隣に並んだ。ずっと小さい頃からの、俺と夏也のお決まりのポジションだ。俺が左側で、夏也が右側。いつもこの立ち位置で、一緒に行動していた。家が近かったし、お互いに友達は多くなかったから、俺と夏也がふたりでいるのはあまりに当たり前のことだった。

 少し歩きたいという夏也の希望に沿わない意図はなかった。特に目的地はないが、なんとなくふたりで肩を並べて歩く。自分が私服だから、俺も制服ではなく私服で歩いて欲しかったらしい。着ようと思っていた服はどうやら弟に略奪されていたようなので、俺もあいつの分を拝借してきた。普段は別の服を着るところだが、たまにはやり返してやるのも悪くない。

「藤ってさ、モデル体系だよな」

 夕方の風は、多分に冷たい。マフラーに顔を埋めつつ、夏也は脈絡なくぼやいた。

「引き締まってるよな。アレのとき、彼女が喜びそう」

「なんの話してるんだ、お前」

「藤はそういうこと考えない? 考えるだろ、十五歳なんだぞ。考えないほうが異常だ」

 夏也の口からそんなことが飛び出したのは、正直驚いたけど、本人が楽しそうなのでよしとする。そうか、十五歳か。多感な時期に差し掛かっているのは自分でもあるのに、俺は他人事のような感想しか抱けなかった。

 彼女、と言えば。俺が口を開きかけた矢先に、そういえばさ、と夏也が声を被せた。半分開けた口を噤み、俺は夏也を促した。

「小学生のとき、クラスの連中に、男同士だけど付き合ってるだろって言われてたの憶えてる?」

「ああ、そんなこともあったな」

 思い起こすのも気だるい、幼稚な教室だった。格段懐かしい思い出というわけでもないが、そんな経緯の事件は起こっていた。クラスの中心人物がそう発言したために、その日以降、俺と夏也のふたりが軽いいじめを受けることになった。カップルだとからかわれていたから、連中の間では俺が女役、夏也が男役ということになっていた。俺のほうが長身だったのに女の設定だったのは、ある出来事を目撃されていたことに準ずる。それはまさしく、俺が夏也に誕生日プレゼントを渡すシーンだった。

 学校にラッピングされたプレゼントを持ち込めば、クラスメートに突かれるのはわかっていた。だから、学校が終わった後、一度家に帰ってから夏也にプレゼントを渡した。そこを見られていた。その生徒が物静かで大人しい性格だったなら、いじめに発展することもなかったはずだ。残念ながら、そうではなかった。

「恋だのなんだのに興味が出てくる年頃だったし、俺と夏也はちょうどいいネタだったんだよ。男同士ってところも逆によかったんだろうな」

「なに言われてもなにされても、藤は涼しい顔してたよな。真に受けて傷ついてたの、俺だけだったみたい」

「ああいうのは、相手にしないのがベストなんだ。反応を見て面白がってるんだから」

 いい思い出とは言いがたいエピソードを、俺と夏也は笑って共有した。どれもくだらない嫌がらせだった。俺の名前が女子の名簿に書き込まれていたり、クラスの係を決める際、夏也の名前が出れば必ず俺もその隣に名前を書かれ、常にペア状態にされていたり。幼稚なクラスメートは、それを親切だから喜べとあからさまに主張する。事実、幼稚な年代だった。名簿の件はさすがに担任教師からお咎めがあったが、クラスで運営する係の取り決め時、担任教師は席を外していた。それくらい自分がいなくても進行すると踏んだのだろう。実際、みんなの係は無事に決まっていた。俺と夏也は、結局同じ係だった。

「懐かしいな。今となっては、なんとも思わないことばっかりだ」

「俺はずっとなんともなかったぞ」

「うん。藤は大人だった。ほかの奴らより全然大人で、勉強も運動もできて、顔もかっこよくて絵も歌も上手い。弱点がない藤に、俺、ずっと憧れてた」

 過大評価だ。小さく俺がそう言うと、夏也は黙って首を左右に振った。厭味に聞こえてしまっただろうかと、僅かな不安を覚えた。謙遜したつもりでも、まして厭味を言ったつもりもない。俺は、正直に過大評価だと感じていた。俺自身や人が思うより、夏也が思うより、俺はずっと子供だ。だから感情を抑制できず、苛々と腹の底を煮えたぎらせてしまう。

 夏也が不快感に迫られたオーラはなかった。むしろ口調は爽やかで、明るく吹っ切れたようですらあった。

「それと同時に、そんな藤が俺の親友だってことがすごく嬉しかった」

 その次の瞬間に、夏也は顔を曇らせる。やや俯き加減で、夏也は言った。

「俺も藤くらい大人だったらな。少なくとも、今よりは失わずに済んだかな」

 意味深長な一言。真意を直接訊ねるのは躊躇われた。寂しげな夏也の睫毛から、汲み取れる答えはひとつもなかった。

「藤さ、俺は佐伯先生に恋してるんだって言っただろ。そのときは俺もそうなんだと思ったけど、よくよく考えてみたら、別にそんなことなかったような気がする」

 例の河原に行けば、三橋や七瀬がいるかもしれない。だからその方面へ続く道は避けて歩いていた。適当に道路を彷徨っているうちに、近場の公園に辿り着いた。まっすぐにベンチへ向かい、夏也は腰掛けた。その隣に俺も腰を落ち着けた。夏也のブーツに目がいった。小柄な体躯と厭味のない無邪気な性格の夏也だからこそ、よく似合う愛らしいデザインだった。

「佐伯先生のこと考えたら、確かにほんわかするよ。でも、それって俺が好きだと勘違いしてただけで、そうじゃなかったんだ。俺、優しくてあったかい佐伯先生を岬姉ちゃんに重ねてただけなんだと思う」

 岬姉ちゃん、と俺は無意識に繰り返した。夏也は頷く。幼い頃から俺は知っていたであろうその存在が、つい最近まで記憶から抜け落ちていたことを夏也には言っていない。事実として述べなければならないが、俺が関わりの深い夏也の家族を、その存在そのものを忘却することはあり得ないのだ。記憶の欠如が、夏也の能力になにか関係があるかもしれないと思えば、容易く口にできる内容ではなかった。夏也の能力については、憶測も含めて、すべてマイナスにしか作用していない。

 妙な気を回して場を保つ期間は、もう過ぎたのかもしれない。言うべきだ。佐伯先生のことも。先刻俺が言おうとしたのが、まさに佐伯先生のことだった。夏也が自殺に踏み切った理由は、当事者ではない俺が考えてもふたつ思い当たる。ひとつは七瀬の無視行為だ。でも、これはおそらく直接的な原因にはなっていない。決定打は、七瀬が目撃していたそれ、夏也と夏也の姉との決裂だ。夏也はもともとほぼ崩壊していた姉との関係をトラウマに抱えていたわけだから、姉弟の仲が完全に絶たれてしまえば、自殺に惹かれても不思議ではなかった。誰とも関わりたくなくなる心境も想像できた。

 だが、これらとは別件で、夏也は幸薄の現実に直面していたのかもしれない。例えば、誕生日に父親が帰ってこれなかったとか。その中の一例で、佐伯先生のことも含まれているのではないかと俺は見込んでいる。夏也が自殺を図った日、俺が三橋に言おうとして口篭ったのはこれだった。

 でも、それを確かめるのは次だ。胸の内側に細い亀裂が迸ったような、一瞬俺はそんな感覚に見舞われた。

「失恋したのか」

 遠回しな表現は、夏也に無駄な思考を巡らせるだけだ。だから率直に訊ねた。大人しく座っている夏也の様子に、目立った変化はなかった。

「失恋なんかしてない。俺、別に恋してなかったんだし」

「なにも起こってないのに、いきなりそんなこと言わないだろ」

 夏也は不機嫌そうに俯いた。夏也は嘘も演技も下手だ。要は素直な人間ということなんだが、今はそれが痛々しい。夏也は、失恋を失恋ではなかったと理由付けして、その辛さから逃れようとしている。ただひとつ問題なのが、夏也が自ら佐伯先生に告白した構図を上手く思い描けないことだった。思いを告げてそれが叶えば確かにいいが、夏也の性格上、その選択はないと思う。生徒のひとりでしかない自分が先生に好意を寄せたところで、報われる可能性は限りなくゼロに近いこと。夏也は、それもわかっているはずだった。それなのに、佐伯先生に当たって玉砕している。どういう状況だったのか、俺にはまったく見当もつかない――わけがなかった。胸の奥に再び鋭敏な痛みが宿る。

 「俺だ」。頭の上に、その一言が舞い降りた。それは声で、直接耳に届いたのではなかった。俺の精神の内の、自分自身の心の声だった。

 デパートでの一件が、脳裏に再生される。佐伯先生に遭遇した日のことだ。例に持ち出したのは俺の名前だったが、あの時点で佐伯先生は、俺が夏也のことを言っていると気付いていてもおかしくはない。いや、おそらく気付いた。自分を取り巻く現状と俺の発言を照らし合わせて、そこにどんな意図があったのかを汲み取るのは難しくなかっただろう。何故あんなことを言ってしまったのかと、何度もした後悔が再度込み上げてくる。あのときの俺はどうかしていた。ずっとそれが引っかかっていたから、三橋に話す選択があった。ひとつ言いわけをするなら、夏也の恋をどうしても叶えてやりたかった。だからまず可能性を試し、そしてそれは皆無であるとわかった。結局は無意味な行為だった。

 一通りの分析を終えると、後に残るのは結果論だけだった。夏也の自殺決行に拍車をかけた、その出来事の原因を作ったのは俺だ。自分でも不気味だと振り払いたくなるような、凍てついた思考が頭を巡る。

 夏也は、その日のことを包み隠さず教えてくれた。告白自体は、その気はなかったのについ口を滑らせた、といった様子だったらしい。もちろん佐伯先生は、夏也に恋愛感情を抱かれていることはずっと知っていた。予想通りだ。予想が的中するのは楽しい。皮肉な娯楽に、一時俺は身を埋める。

「藤がなにもしなかったら、確かになにも起こらなかったかもな。佐伯先生は俺の気持ちなんて知らないままだっただろうし、そしたら俺は、静かにこっそり焦がれてるだけだった。佐伯先生も俺を騙すような真似をする必要はなかったし」

「ごめん」

 低い謝罪が口をついた。素早く洞察したわけでも、謝るのが道理と思ったわけでもない。無意識に俺は唇を噛んでいた。俺さえ余計なことをしなければ。直接の原因ではなかったにしろ、ひとつ要因が取り除かれれば、夏也は自殺に踏み切らなかったかもしれないのだ。それを思えば、謝罪の一言が悠長に思考回路を経られるはずもない。

 俺の低頭を見るなり、夏也は澄んだ笑い声を転がした。いつものパターンで「謝るなよ」などと言ってくる。夏也は優しい。夏也は、ここまで優しくなければならないのだろうか。今まで考えたこともなかった疑問が、唐突に俺の感性を刺激する。

「いいんだ。俺、それがあったから恋してたわけじゃないって気付けたんだし。佐伯先生のこと、別に好きじゃなかった。その結論でいい。俺はただ、姉ちゃんに構ってもらえない寂しさを、佐伯先生の優しさで埋めようとしてただけなんだよ」

「お前、なんでそういうこと言うんだ」

「だって藤は、恋したことないんだろ。別に恋じゃないのを恋って間違えちゃったんだ。藤は頭いいけど、でもたまにはあることだよ。気にすることじゃない」

「……じゃあ俺は、間違ってばっかだな」

 ひねくれたわけではなく、本当にそう思った。七瀬が夏也を避けるようになったのも、一部は確かに俺が加担している。七瀬は夏也の友達だから、夏也を傷つけることはないと本気で信じていた。温い世界に生きてきた俺の、甘い甘い友達ごっこが招いた悲劇だった。七瀬は反省して夏也と仲直りしようとしているようだが、一度夏也を突き放した七瀬を再び受け入れることは難しい。たとえ夏也はよくても、俺が許せなかった。

 俺の友達は夏也だけだ。いや、夏也だけでいい。究極の結果像が、脳の奥で不意に焦点を結ぶ。夏也は俺が守る。俺が助ける。俺は夏也を傷つけない。

 睫毛を伏せて、夏也は微かに目を伏せた。胸に片手を置き、小さく息を吐き出した。視線を持ち上げ、なにか探すように周囲を見渡した。俺も倣って、その先を目で追った。

 一羽の鳩が視界に定まった。公園で餌を求めてうろついている、なんの変哲もない鳩だった。夏也はそこに足を向けた。鳩は人に慣れているらしく、逃げるどころか鳴き声を飛ばしながら夏也に近付いていた。公園の中でも土地の開けた、車通りの多い道路に面したスペースだった。

 夏也が手を伸ばすと、抵抗ひとつなく鳩はその腕に羽ばたいた。鳩は大人しく夏也の胸に納まっている。鳩を抱いたまま、夏也はベンチに戻ってきた。腰を下ろし、いくらも秒数を数えないうちに、とてつもない轟音と共に黒の乗用車が柵を突き破って突っ込んできた。あまりの突然さに、俺は思わず目を見開いた。近隣の人々、公園にいた子供たちは、白い煙をあげている車を呆然と見つめていた。一瞬の静寂は破れ、人々が揺れ動いた。車に駆け寄る人、軽帯電話を耳に当てる人、ただ泣き出す人。ドライバーの安否は不明だが、幸いなことに、巻き込まれた人間はいなさそうだった。

 ただ。俺は、夏也の胸に佇む鳩を見やる。夏也は、醒めた目をして車に群がる人々を見ていた。夏也がベンチを立たなければ、この鳩だけは確実に轢かれていた。轢かれて、跡形もなく破壊されいた。

「ちゃんと見てろよ、こいつのこと」

 夏也が手を離すと、鳩は一度地面に降りて、空へと羽根をはためかせた。いくらか上空を旋回した後、なにを思ったか、鳩は夏也の手元めがけて降下してくる。夏也は手を伸ばし、すぐに引っ込めた。不意に、なにか機械を操作するような音が耳を突き抜けた。ヘリコプターのラジコンだった。小さなヘリコプターが、前兆なく鳩の身体に突進した。鳩はそのまま機体に押され、何秒かしてプロペラの回転が止まった。焦った操縦者が電源を切ったのだと、何故か俺は冷静に分析していた。

 地上に落ちた鳩とヘリコプターに、小学生くらいの男の子がふたり駆け寄った。背中しか見えないが、動揺しているらしいことは明らかだった。ということは、わざとやったわけではないのだろう。

「轢かれてたら即死してただろうから、確かにこっちのほうが残酷だよな。あれ見ろよ。首、削れてたんだ」

 夏也のグロテスクな証言通り、遠目に見るヘリコプターのプロペラには、羽根が絡みついていた。間違っても愉快な構図ではなく、俺は固唾を飲み下す。一層惨い死に方をするとわかっていて、夏也は鳩を事故から救った。モノのときとは違う、今回は明らかに確信犯だった。意識して、夏也は鳩を目で殺した。

「車に乗ってた人も死んじゃっただろうな」

「それも視えたのか」

 辛うじてそれだけ訊ねると、夏也は首を振って否定する。「全部の死がわかるわけじゃないから」。それもそうだ。生物すべてが死に絶える姿を悟っていたら、さすがに頭がパンクしてしまう。

「目で殺す、だから」

 俺の頭の奥を読み取ったように、夏也は呟いた。驚いたが、それ以上に膨大な疑問が沸き上がった。実は死ぬ予定の命を視ているのではなく、視えた命が死ぬ事実。所詮推測の域を出ないが、たぶん間違ってはいない。夏也がそれを承知していることに、並々ならぬ焦りを覚えた。なんとかそれを隠しておかなくてはならなかった。軌道のずれた現実を強制しようと思考を廻らせても、今更俺にはどうにもできない。

「名前をつけるなら、目殺か。線を一本足せば自殺だな」

 自嘲っぽく、夏也は笑う。文字に直せば自殺に近い、目殺。嫌な響きだ。似通った文字が、一度自殺を図った夏也を暗示しているようで不快だった。いや、機嫌を損ねている場合ではなかった。夏也は自分の力の有りようを知っている。どこでそれを確信したのかを確かめたかった。

 違う。そんなことは考えるだけ無駄だった。夏也がどこでそれを知ったのか、思いつくルートはひとつだけだ。姉との決裂、鳩の扱い、目殺の名詞。タイミングが揃いすぎている。そうだ、それで夏也は姉から完全に拒絶された。佐伯先生に対して抱く気持ちを冷静に分析していたのも、たぶんそのためだ。時系列はどうにしろ、どちらも間違いなく影響し合っている。

 こんなことになるくらいなら、俺から告げればよかったか。今更の後悔が、悪戯に先に立つ。直接的な証拠はなかったが、そんなものは後にも先にも必要なかった。わかってはいたが、それを言えば、夏也の精神を確実に傷つけることもまた明白だった。夏也に向ける半端な優しさが、結局こうして夏也本人を引っ掻いている。あまりに滑稽な現実、後から気付いてもどうにもならないことばかりを閃く俺自身を、五体を引き裂いて焼き尽くしてやりたくなる。

 救急車のサイレンが聞こえる。それに紛れ込むような小さな声で、夏也は言った。

「なにも言わないってことは、藤はずっと知ってたんだな。俺が死神だってこと」

「死神?」

 思わず繰り返した。そんなことは思っていない。それだけは否定しようと、口を開いた。でも夏也は、わかっているからと言わんばかりに首を左右に振るだけだった。

 死神だなんて、俺はそんなこと考えてない。考えたことがない。主張したいのに、主張すれば信憑性を失う気がする。俺にとっては疑う余地のない本当でも、夏也が嘘だと感じるならそれは嘘だ。俺が黙っても黙らなくても、夏也は結局ひとりぼっちだ。俺は今、どうしようもない現実に真っ向から対峙させられている。

 どうにもならない。頭の真ん中で、寄せ集めになった諦念がそう告げる。もう、俺にはどうにもできない。孤独の世界にいる夏也は、救えないのだと判断した。そう判断するしかなかった。

「姉ちゃんに殺人鬼だって言われたんだ、俺。母さんが死んじゃってるのも、赤ちゃんの頃の俺が無意識のうちに母さんを目で殺したからだって」

 なにも言えず、俺は俯いた。耳を塞ぎたい衝動を必死に抑えた。

「姉ちゃんは出て行った。もうたぶん帰ってこない。俺が怖いからだよ。そのときは悲しかったし、いろいろ辛いことが重なって自殺しようともした。でも藤が俺を助けただろ」

「謝れって言うのか。死ぬのを邪魔したこと」

「違うよ。なんか今日の藤って卑屈だな」

 笑いを含めて、夏也は言った。俺がなんとも言わないのを見て、夏也は再び小さく笑う。なにが可笑しい、と不機嫌を演出して訊ねると、夏也はポケットから煙草を取り出した。久々に見る、夏也の喫煙シーンだった。

「なあ、藤」

 救急車が来てる。すぐに警察も来る。大人に見られたらまずいだろ。俺は、そう言うつもりだった。それより早く、夏也が声を発していた。吸殻をベンチの横の灰皿に押し付け、夏也は、改まったように姿勢を正して言葉を繋いだ。

「自殺予告の電話なんかしたら、絶対止めに来るってことはわかってた。俺には自殺願望があって、だから本当に手首を切ったけど、でも藤にはちゃんと言っておきたかったんだ。その気持ちは今も同じ」

「言うってなにを」

「言いたいことを、だよ。あのときは、もう俺はいなくなっちゃうってことと、今までシカトしててごめんってことだけど」

 救急車が片付き、パトカーから警察が降りてきた。事故現場の検証か。周囲の関心は、疾うに事故から逸れている。時刻は夕方、冬を迎えようとするこの季節、陽が落ちるのは早い。あんなにもたかっていたくせに、あっけないほど簡単に人々は各々散っていく。

 鳩の死骸は残っていなかった。罪悪感を感じた小学生たちが、供養しようと抱いて帰ったのかもしれない。見ていないからわからないが、そうであればいいと俺は思う。

「あのさ、藤。俺、ひとつだけ思いついたことがあるんだけど、聞いてくれるよな。それと、お願い」

「お願い?」

 首を傾げて問い返すと、夏也は浅く頷いた。そして、まだ少し煙草の匂いが残る口元を、微かに俺の耳に寄せた。














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