三橋優輝 5
壱井の家のドアには鍵がかかっていた。藤が強引にこじ開けようとしているが、到底開きそうになかった。こんなときに限って通りに人は歩いていない。夏也開けろ、夏也。ドアを叩きながら、藤がそう叫んでいる。壱井になにが起こっているのかはわからないが、嫌な予感がする。藤の尋常でない取り乱し様がそれを物語っている。優輝は家の裏に廻り、鍵のかかっていない部分を探した。幸運なことに、裏口近くの窓が開いた。急いで藤を呼び、家の中に入り込んだ。
リビングとキッチンが融合した空間に、壱井はいた。見た瞬間に心臓が飛び跳ねた。藤の顔を確認する余裕など、欠片もなかった。フローリングの床のラインを辿り、まだ新しい真っ赤な液体が広がっている。刃先が染まった果物ナイフが無機質に転がっていた。血だらけの左手首を露出したまま、壱井が横たわっていた。ざっくりと切り裂かれた傷口から、赤い血液が溢れ出している。
自殺。優輝の脳内を、その文字が埋め尽くした。壱井が自殺を図った。自殺した。死を選んだ。今しがた、藤が通話口の向こうに発した言葉を思い出す。「切るな」。あれは電話を切るなという意図ではなく、手首を切るなということだったのか。強烈に恐ろしくなり、全身から冷たい汗が噴き出してくる。
「……ふ、じ……」
消え入るような声だった。生きている。優輝は現実に返った心地だった。藤も同じだったようだ。藤は自分服の袖を歯で破き、血が溢れる壱井の手首にきつく巻きつけた。優輝はポケットの携帯電話を取り出し、手早く消防署に連絡をつける。幸いなことに、救急車はすぐに到着するそうだ。一瞬の安堵を胸に、優輝は壱井に向き直った。安堵はすぐに掻き消えた。
「藤……痛い……。いた、い……」
「当たり前だろ、バカ! 喋らず待ってろ!」
か細い壱井の声を、藤は容赦なく弾き返す。藤の手は、しっかりと壱井の手首を押さえ込んでいた。次の壱井の言葉で、藤の双眸が揺れた。
「でも、俺……もう少し……我慢すれ、ば……」
藤の手が、力を増して壱井の傷口を塞いだことがわかる。呻いているとも嘆いているとも取れる、だが、壱井のそれは確実に嗚咽だった。壱井の声の震えには、涙が入り混じっていた。
「あとちょっと……痛いのを耐えれば、俺……楽に……だ、から……」
藤の呼吸が一瞬止まった。救急車のサイレンが家の前で停止したのは、ちょうどそのときだった。袖の破れた藤の手は、壱井の手首を必死に押さえ、流れ出る血を止めようと足掻いている。
ドアの鍵を開けるため、優輝は部屋を後にした。そう、鍵を開けなければ。優輝は自分に言い聞かせた。壱井がなにを言いかけたのかなんて、僕は知らない。気付いていない。藤の息が一瞬だけ止まった理由も、すべてわからない。鈍感な僕。鍵を開けてドアノブを引いた瞬間、救急隊員が押し寄せた。優輝は努めて冷静に、担架を抱えた大人たちを見送った。
通路の白い長椅子に腰をかけ、藤は俯いていた。俯いたまま、一言も発しなかった。力任せに破り取られた袖口が痛々しい。壱井が病院に運び込まれて、どれほどの時間が経ったのか。まだ間もないような気もするが、途方もない時が経過したような気もする。
「着替えておいでよ」
優輝は言ったが、藤は答えなかった。無理もなかった。友達とやっと電話が繋がったと思ったら、それは自殺の予告で、しかも自分の引き止める声を無視して実行された。ショックを受けるな、というほうが酷だ。いくら藤でも、そこまで器用には立ち回れない。
藤がなにを考えているかまったくわからない、などということはない。しかし、今そこに踏み込むのは外道かもしれない。運がいいことに、ほかに少し気になることがあった。それを話題に、優輝は口を開いた。
「壱井ってさ、モノとクロの世話以外では基本的に外に出なかったんだよね」
「ああ」
微かに藤は返事をよこす。会話は成立する。優輝は続けた。
「忠勝君、七瀬がよくないって言ってたよね。壱井が塞ぎ込んでるのは、七瀬と壱井が外でばったり鉢合わせして、それでなにかあったからかもしれないって」
「言った」
「モノもクロもいなくなったのに、どうして壱井は外に出るの」
藤の肩がぴくりと動いた。一向に顔を上げない藤は、死に溢れた壱井の世界を幻視しているのだろうか。もし自分に壱井の能力があったなら、と優輝は夢想する。自分の命が消えるのと周囲の命が消えるのは違う。壱井の世界に僕は留まることができない。まして、外に出ようなんて絶対に思わない。
「なんだかんだで、あいつ、結構外に出るんだよ。親父さんが帰って来たら、一緒に歩いてご飯食べに行ったりするらしいし」
「藤だったら、それができる?」
「夏也はこの世界を怖がってるけど、心の底から嫌い、ってわけじゃないんだろうな。見境なく死を突きつけられるのに、心のどこかで、こんな世界をまだ好きだと思ってる部分がある。だから外に出られるし、野良猫の世話もできる。俺にはできない」
無論、夏也がそれに気付いているかどうかはわからないし、俺の推測だからまったくの的はずれの可能性もある。藤は最後にそう付け足した。
訊くんじゃなかった。優輝は、藤に訊ねたことを後悔した。藤の予想はときたまはずれるが、今回だけははずれようがなかった。藤の言うように解釈しなければ、日常的に命の終わりを見せつけられる壱井が、残酷な外の世界に自ら触れようなどと考える理由がつかない。
拒絶したい世界を少しだけ愛していて、だから手を伸ばしているのに、世界のほうに拒絶される。その構図では、あまりにも壱井が不憫だ。胸が締め付けられる思いで、優輝は睫毛を伏せる。
壱井の命に別状はなかった。発見が早く、ぎりぎりではあったが、止血もなんとか間に合っていたそうだ。あと少し発見が遅れていれば、確実に壱井は死んでいた。病院側にそう伝えられたが、藤は始終下を向いていた。壱井の父が職場から飛んできて対面したときも、藤は、感情の抜け落ちた抜け殻のように一切顔を上げなかった。壱井の父は今、壱井が運び込まれた病室の前にいる。優輝と藤は、そこから少し離れた別の通路に佇んでいた。
「自殺の予告があったこと、壱井のお父さんには話してないよね」
「俺は話してないけど、警察から聞いてると思う」
「ほかになにか言ってた?」
「今まで無視しててごめん、最後にちゃんと謝っておきたくて電話した、って」
一度藤は口を閉じた。すぐにまた開いた。
「藤が親友でよかった、って言ってた」
「……なにそれ」
受ける言葉をすぐには返せず、優輝は拍子を置いて問う。藤は無反応だった。俺が知るか、と声に出さず叫んでいるようだった。確たる証拠として、藤の肩は注視しなければわからない程度にだが震えている。クールな藤の変化は斬新だが、さすがにクラスメートの自殺未遂を尻目に楽しい気分にはなれなかった。
娯楽性とはかけ離れているが、一点気付いた箇所がある。藤はどうやら、一見感情の変化に欠けているようだが、蓋を開けると驚くほどの激しい波を持ち合わせていることらしい。持ち前の冷えた思考で上手く誤魔化してはいるのだが、それも藤だからこそできる芸当だろう。年なりに多少揺れ動きはしても、藤は年以上に堅固に己の身を律している。いや、律していた。壱井の自殺行為を亀裂に、藤の自制心は足場を失いつつある。
「夏也は死ぬのを選んでたわけだから」
藤は乱暴に破り取られた袖口に視線を落とした。声にいつもの毅然とした力は宿っておらず、惑いをそのまま声量に変換したかのように不安定な印象を伴っている。続く藤の言葉を、優輝は暗黙して待った。
「死なない選択肢も、当然あったよな」
「まあ、自殺するか自殺しないかっていう葛藤はあっただろうね」
「その上で、自殺を選んだ」
「うん」
否定しても仕方がないし、気休めの言葉は意味を成さない。きっぱりと優輝は肯定した。優輝の隣で、藤の呼吸が瞬間的に停止する。壱井の手首の出血を懸命に塞いでいるときも、一瞬藤は息をしなかった。同じことが、優輝の眼前で再び起こっていた。
力任せに握り締められた藤の拳が、指の隙間に長い前髪を挟んで腹立たしそうに振動する。優輝は藤の激情を垣間見ている。今のような状況でなければ、少しは藤の変化に関心を向けることができた。自分のことではないとしても、自殺はあまりに胸に痛々しく突き刺さる。
「この前のことも、今回のことも」
藤の拳が髪を抜けた。真っ黒な細い毛が、数本指に絡んだままだった。腹の底に沈めた感情が自分の意思とは無関係に食道を伝い、喉を抜けて、藤の声として放散される。藤が歯軋りをした。理性がストッパーをかけているのか、その気配は微かなものだった。それでも藤の苛立ちは空気を漂い、優輝の中に流れ込む。耐えがたい感情。藤の中で吹き荒ぶそれを言い換えるとしたら、それしかなかった。言葉にすれば簡単だが、その実情は平穏な日常生活の中になど存在しないことを優輝は知っている。
「俺は、あいつにとって信用に足る存在じゃないってことかよ」
髪を掻き毟り、全身を引っ掻き暴れそうな凄みを含んだ声で藤は言う。この前のことというのがなにを指すのか、考えるまでもないことだった。壱井が自分に能力を打ち明けた日のことは、優輝の記憶に深く刻印されていた。忘れようにも忘れられない衝撃が、今もなお胸の奥で振動を繰り返している。等直の動きを準え、それは今また優輝の心の奥で蠢いている
「友達だから言えないこともあるって、壱井は言ってた」
「友達じゃない。親友なんだよ。夏也が自分でそう言ってる」
優輝の返答を、藤は鋭く突っぱねた。藤が本当に年相応の子供だったなら。優輝は、ふとそんなことを考えた。藤はあまりに静かすぎる。なりふり構わず荒れ狂う感情のままに暴れることができたなら、せめて口汚くこの現状を罵る術を持ち合わせていたとしたら。それなら、今より少しは藤の気持ちも楽だっただろうに。優輝もまた、その思いを声に乗せる術は持ち合わせていなかった。
「俺を親友だと思うなら、自殺を決める前に、一言だけでも相談してくれたらよかったんだ」
「そう思う気持ちは察するよ」
下手な慰めや同情は、藤を不必要に刺激するだけだ。優輝は無難な言葉を選んだ。藤が再び奥歯を強く噛んだ。さすがになんとも声をかけてやることはできなかった。
壱井は、自分の葛藤と曰く親友の藤を完全に切り離していたわけではなかった。もしそうだったなら、自殺の直前に藤に電話などしないはずだ。今までの自分の不躾を謝ることはあっても、これから死ぬ、などと予告することは考えられない。予告をすれば、必ず引き止められることも普通は想像できる。
自殺の予告は妨害されることに等しい、か。自分の中で言い換えたところで、優輝は思考にブレーキをかけた。要するに、物事は受け取り方だ。優輝は藤を視界に含めず、少し俯き加減に正面を見やった。
「自殺を決めたのは、壱井がひとりで考えた結果なんだろうけど」
口にしながら優輝は、自分が今まさに示そうとしているその意味を密かに考えた。これは気休めにしかならないと、すぐに結果に結びついた。ならばおそらく効果は得られないだろうが、それでも言うのをやめる気にはなれず、優輝は続けることを選択した。
「それでも忠勝君に電話して、これから死ぬって教えてくれたってことは、忠勝君を信用してないわけじゃないと思う」
「死んだらどうにもならないだろうが」
「どうにもならなくなる前に、忠勝君を頼ったのかも」
「親より先にか」
「お父さんは仕事してるでしょ。確実に繋がるのは忠勝君だけだし、それに謝りたかったんだから」
沈黙の後、藤は顔を上げた。額にあてた手を取り払い、僅かに白い天井を見上げた後、目を伏せて深く息を吐き出した。リラックスしている雰囲気ではなかった。自分をどうにか落ち着かせようと努めている様子を、優輝は見て取った。
「場所」
不意に藤は口を開き、その単語だけを口にした。優輝が瞬きしていると、藤は目もくれずに言った。
「ここじゃ話しにくいから場所を変えよう。夏也には親父さんがついてるから、俺たちがいなくても大丈夫だ」
藤は立ち上がり、壱井の父に挨拶してくると一方的に言い残した。ここで待っていろという意図だと受け取り、優輝はその場を動かずに藤の背中に視線を当てる。藤はクラスで背が高いほうだが、どちらかと言えば長身であるだけで目を見張るような体格はしていなかった。優輝は目を擦って藤の後ろ姿に意識を向けた。落ち着いていて頭がよくて、独特のオーラを放ち、とてもクラスメートだとは思えなかった藤。それが今は、どう見ても自分と同じ年齢の子供としか認識できなかった。か細い背中が、どうにも脆そうで仕方がない。少し前まで藤を異質の存在とすら捉えていた自分が信じられなかった。
藤が発した言葉が、優輝の耳朶で反響した。そこに組み込まれた微妙なニュアンスを読み取れないほど、鈍感であるつもりはなかった。
「上手い皮肉だよ、忠勝君」
ぼそりと呟き、視界から消えた藤の背中を例の台詞に当てはめた。『俺たちがいなくても大丈夫――自分がいなくても大丈夫』。壱井が心のどこかで藤を頼っているという見解は、どうやら藤本人には上手く伝わらないようだ。気休めどころか、それすらにも成り得なかった。これは辛いな、と優輝は思った。




