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壱井夏也 6

 『誕生日には帰れそうにない、本当にすまない』。電波を伝って交わした会話の一端が、携帯電話の液晶を見つめる俺の耳に蘇った。たった今のことなのに、もう遠い昔の出来事のような気がする。申しわけなさそうな父さんの声に、俺は笑って答えた。『大丈夫だよ、ありがとう。仕事がんばって』。どうしてそんなことを言ってしまうのかと、自分の口を捻りあげてやりたくなった。なにが大丈夫なものか。失恋して、友達には無視されて、挙句の果てには誕生日に守られるはずの約束も気泡となる。これで大丈夫だなんて、そんなことを言えた自分を皮肉を込めて褒めちぎりたくなる。よくできました、壱井夏也。お前は最高だ。最高にいい子だ。いい子だから早く消えてしまえ。

 通話を切って、部屋のカレンダーを見つめた。俺の十五回目の誕生日は、もう明日となっている。誕生日には、藤が毎年プレゼントをくれる。恋人ならまだしも、友達に誕生日を期待するなんて自分でもどうかと思うけど、なにせ毎年のことなのだ。今年も藤が贈ってくれるであろうプレゼントを、完全に意識の外に追い出すことはできなかった。

 恋人。恋人か。口の中でゆっくりと発音してみた。恋の文字を脳内に置けば、確かに佐伯先生が思考の中に割り込んでくる。ということは、やっぱり俺は佐伯先生に恋していたのだと思う。でも、果たして本当に本当の恋だったのだろうか。藤は俺の気持ちを恋だと言った。確実に恋と断定する要素は、これと言って存在していない。俺は佐伯先生に恋している、と思い込んでいただけではないだろうか。藤は恋したことがないらしいから、恋がどういうものなのかを知った上で、俺に教えてくれたわけではない。

 携帯電話をポケットに入れて、自室を出た。甘いものが食べたい気分だった。キッチンの備え付けの棚あたりを探せば、いつでも魔法のように和菓子が登場する。俺が寝ている間に父さんが帰ってくることもしばしばだから、そのときに入れておいてくれるものだ。お茶を出す度に藤は遠慮するけど、それでは逆に困ってしまう。溜まった和菓子は、早く消化しなければならない。洋館やら大福やら、大量に買い込む父さんのペースに追いつけなくなってしまう。

 餡餅を頬張りながら、ソファーに座った。テレビはつける気にならない。大好きな甘さで幸せな気分になる傍らで、俺は考え続けている。俺は佐伯先生のことが好きだったのだろうか。失恋したと思ったときは、相当のショックを受けた。傷つきもした。でもそれは、単に恋していると思い込んでいたことの反動でしかなかったのではないか。恋して玉砕すれば、誰でも傷つく。当たり前のデータを自分に投影しただけのような気もする。そもそも本当に恋していたとして、佐伯先生のどこに俺は惹かれたのだろう。ここ数日、本当にあの気持ちが恋だったのかという疑問を含めて、そればかりに頭を捻っている。藤が言うことはだいたい正しい。でも、たまには間違える。恋したことがない藤が、人の恋を真の意味で見抜けるとも思えない。恋した気になっていたけど、実際のところ、恋ではなかったのかもしれない。じゃあ、一体なんだったのか。その結論はあっけなく捻出された。愚かな自分。気付いてしまえば、自分という存在は、如何に甘ったるい甘味の上に成り立っているのかと嗤わずにはいられなかった。

 俺のことを完全にないものとしている岬姉ちゃんを、佐伯先生の中に見出している。いや、見出していた。年が同じで、優しいふたりを知っているから、重ねやすかった。たったそれだけのことだった。恋だのなんだの、そんなものは第三者以上の人間が憶測で勝手に当てはめる枠組みに過ぎない。俺の気持ちは、最初からそこに分類されるべきではなかった。自分でもわからなかったんだから、やっぱり俺は愚かだった。笑えてきてしまう。

 そうとわかれば、もう失恋した苦しみを抱え込む必要はなかった。辛い気持ちを外に放るため、俺はしばし意識を集中させた。どういうわけか、その感情は俺の体内でエコーしているだけだった。理解し兼ねる自分の心に、戸惑わずにはいられなかった。

 中途半端な気持ちを持て余していると、玄関のドアが開いた気配がした。明日帰れないと連絡してきたくらいだから、父さんではないだろう。狂ったようにチャイムを連打すればそれは岬姉ちゃんだけど、今日はそんなこともなかった。いや、その前に、ドアにはチェーンロックをかけているはずだった。難なくドアが開くとは考えられない。何事かと玄関へ急いだ。

 佇んでいたのは岬姉ちゃんだった。綺麗な茶髪を背中まで下ろしている岬姉ちゃんを、見間違える理由なんてどこにもなかった。久しぶりに見たその姿につい嬉しくなって、岬姉ちゃんに駆け寄った。その足が、予期せずぴたりと停止した。

 岬姉ちゃんの後に続いて、茶髪の男が現われた。岬姉ちゃんの地毛の茶色とは違い、明らかに汚く染めた下品な茶色だ。突発的な吐き気が込み上がってきたけど、なんとか堪えた。あの茶髪は俺の茶髪と同じ色だ。俺はあの色を真似した。ケイスケの真似をすれば、岬姉ちゃんは俺のことをもう一度好きになってくれると、あの頃は本気で思っていた。

 ケイスケは、外で岬姉ちゃんが戻ってくるのを待つようだった。岬姉ちゃんの背中を追い、図々しく家に上がり込んでくるとばかり思っていた俺は、少しばかり意表を突かれた。とは言っても、今すべきことはケイスケの動向分析ではなかった。無言で俺の眼前を通り抜けた岬姉ちゃんを咄嗟に追いかける。

 最近まったく帰ってこなかった岬姉ちゃんが、何故いきなり戻って来たのか。気になっているのは偏にそこだった。もしかしたらと、淡い期待を胸に募らせつつ、俺は岬姉ちゃんに問いかけた。

「岬姉ちゃん、あのさ」

「あなたの誕生日前だから、帰ってきたんじゃないわよ」

 弟の誕生日当日には帰れないから、前日の今日、帰宅した。都合のいい俺のそんな妄想は、一瞬にして打ち砕かれた。秒単位で膨れ上がった期待は小気味よく破裂したけど、その代わりに得たものがあった。久しぶりに岬姉ちゃんと会話ができた。それだけでどんなに豪勢な誕生日プレゼントよりも価値のあるイベントのように思えた。

 わたしの部屋までついてくるのか。岬姉ちゃんの目が、俺にそう言った。岬姉ちゃんの部屋の前で歩くのをやめる。思いのほか、岬姉ちゃんは自室のドアを閉めなかった。まだもう少し会話していい、と受け取っていいのだろうか。ここで俺は、さすがに違和感を覚えた。今日まで目も合わせてくれなかった岬姉ちゃんが、俺との会話に興じている。なにか裏があると思った。実の姉にそんな感情を抱いてしまう自分が、すごく悲しかった。

 持ってきた大きな鞄の口を開いて、岬姉ちゃんは、クローゼットに吊ってある服をしまい始めた。寒いから冬物のコートでも取りに帰ったのかもしれない。今年の寒波が異常なことはくどいくらい報道しているし、酷いところでは既に雪の被害が出ていると聞く。

「なっつ、あなた」

「え?」

 耳を疑って、そんな呆けた声を出してしまった。岬姉ちゃんが、昔みたいに俺のことをなっつと呼んだ。驚かないほうがどうかしている。

 俺の間抜けた反応を他所に、岬姉ちゃんは自分の作業を進めながら続けた。

「今もまだ、誰かが死ぬのがわかるの?」

「……うん」

 そこにいきなり突っ込まれるとは思っておらず、同時に突っ込まれたくないことでもあって、俺は伏し目で答えた。答えたくなくても、岬姉ちゃんに嘘は吐きたくなかった。

「犬や猫、鳥が死ぬのも?」

「植物が枯れちゃうのもわかるよ」

「辛いね」

 今度こそ俺は、本当に驚いた。岬姉ちゃんの一言は、適当に出任せたニュアンスではなかった。俺の辛い気持ちを共有しようとしてくれた。優しい岬姉ちゃんが戻ってきてくれた。そう思うと、涙が零れそうだった。

「なっつが最初にわかった死は、チェシャだったよね。それをわたしに教えてくれた」

 チェシャというのは、以前この家で飼っていた猫のことだ。この前に夢に出てきた猫が、まさにチェシャだった。あのときはどこかに逃げてしまったけれど、猫というやつは、一度餌を与えればその場所に戻ってくる。家の敷地内に居ついた野良猫を追い出すこともできず、結局その猫を飼うことになり、チェシャと名付けられた。幼稚園児だった俺が、絵本に出てきた喋る猫の名前をそのまま取った。懐かしい記憶だった。

 岬姉ちゃんは、まるで楽しい思い出話に花を咲かせているように軽く笑った。

「わたし、びっくりしちゃった。チェシャは、なっつが言った通りに死んじゃったんだもの。でもわたし、偶然だと思ってた。だってチェシャは、そのときかなりお婆さん猫になってたでしょ。寿命だってお父さんも言ってた」

「うん」

「そのときはね、わたし、なっつのことは怖くなかった」

 怖い、という単語が胸に突き刺さった。七瀬が俺から視線を逸らした、その情景がフラッシュバックする。やっぱり俺は怖がられている。怖がらせている。一気に悲しくなったけど、今はただ、頷いて岬姉ちゃんの話を聞くしかなかった。

「いつからかな。なっつのことが怖くなったの。だってなっつ、いろんなことを教えてくれてたでしょ。あの犬は病気で死んじゃうとか、あの鳥は大きな鳥に食べられるとか。あの人は事故を起こして死ぬとか。それが全部当たってた」

「……うん……」

 頷くのが辛くなってくる。初めて俺が命の終わりを視覚で知ったのは、八歳のときだった。それまでペットを飼ったこともなかったし、身近で亡くなった人と言えば母さんがいるけど、それは俺が生まれてすぐの話だ。もの心つく前に喪っているから、近しい誰かが命をなくすことの意味なんてわからなかった。その事実を考慮しても、考えてみれば、俺の生死の概念は同じ年頃の子供より薄かったと思う。あの頃の俺にとっては、なにが生きてなにが死んで、誰が生きて誰が死んでも同じことだった。

「犬や鳥はわからないけど、交通事故ならニュースになる。なっつが言った通りの人が、なっつが言った通りに事故で死んでたの。そのとき、わたし、なっつが怖いって思った。でもね、わたしだって姉よ。いくら怖くても、たったひとりの弟を嫌いになんてなれなかった」

 それは今でもそうなの、と言いそうになって口を噤んだ。今は黙って岬姉ちゃんの話を聞かなくちゃ。自分に言い聞かせ、自制した。

「考えないようにしてた。なっつはときどきそういうことを言って、それを的中させるだけで、いつもいつも怖いことを言うわけじゃなかった。普段は八歳下の、わたしの可愛い弟でしかなかった。可愛い弟のなっつを、それまで以上に好きになろうとしてた。でもわたしの気なんて知らず、なっつは平然となにかが死ぬのをわたしに言い続けてた」

「聞きたくなかったなら言わないでって言えばよかったんだよ。俺、岬姉ちゃんの言うことなら絶対聞いてた。バカだから言われなきゃわかんないんだよ」

 抑えきれず、つい言ってしまった。岬姉ちゃんは首を横に振った。クローゼットの中身を詰め終えた岬姉ちゃんは、ドレッサー付近に移動した。付属の棚を開け、化粧品を鞄に詰め込んでいる。鞄の中に投げ込んでいるわけではないけれど、手当たり次第、と言った動作だった。ひとつの疑問が俺の脳を掠めた。

「岬姉ちゃん、もうここに帰ってこないつもり?」

 否定してくれ、と懇願しながら口に出した。祈りは空しく、岬姉ちゃんは黙々と手を動かしているだけだった。

 ケイスケという彼氏ができてから、岬姉ちゃんはほとんど家に帰って来なくなった。チェシャの次に猫を飼おうとしたとき、岬姉ちゃんが突然猫アレルギーを発症したことを知っているのに、父さんがモノを連れて帰っていいと言っていたのはそのためだ。それでも、俺と会話はしてくれなかったけど、着替えやらなんやらの名目上、岬姉ちゃんは僅かながら帰宅していた。少しでも家に戻ってくるなら、アレルギーの原因の猫の世話を室内でするなんて、やっぱり俺にはできなかった。大切なモノの命を売ってでも、岬姉ちゃんが安心して帰ってこれる場所を残しておきたかった。

 それなのに、岬姉ちゃんは完全に家出するつもりだと言う。ケイスケと同棲でもする気なのかもしれない。わけがわからないし、納得もできなかった。部屋の中に踏み込み、俺は岬姉ちゃんの肩を掴んだ。

「俺、黙って欲しいならずっと黙ってるよ。なんにも言わないから。だからちゃんとここにいてよ。ずっと俺の姉ちゃんでいてよ、岬姉ちゃん」

「ごめんね」

 微かに聞き取れた岬姉ちゃんの声は、震えているようだった。岬姉ちゃんの肩に置いた手が、俺の意思に関係なくずり落ちた。愕然とした。崩壊する。このままでは、姉弟の関係性が本当の意味で崩壊してしまう。それだけは阻止しなくちゃ。必死に言葉をかき集め、そのありったけを、俺は岬姉ちゃんにぶつける。

「ねえ、出て行かなくてもいいだろ。なんでだよ。どうして勝手に出て行くんだよ。ケイスケと暮らすの? 俺のことが可愛くないの? 俺のことよりケイスケのほうが大事だって言うの?」

「ごめんなさい」

「謝るってことはそうなんだ。弟の俺より、ケイスケのほうが好きなんだ。だから俺を捨てるんだね。誰かが死ぬのを視ちゃう俺なんか捨てて、父さんも捨てて、ケイスケのところに行くんだ。俺のことなんか完全に忘れちゃうつもりなんだ。俺は姉ちゃんのこと、ずっと憶えてるのに!」

 酷いことを言っている自覚があった。自分の口から飛び出すそれを、正当な主張などとは到底思えなかった。岬姉ちゃんが家を出て行くことは納得できない、でも俺から離れたいことは、悲しいけど納得できた。認めたくないけど、ずっと前から認めている自分がいた。岬姉ちゃんは、俺のことが怖いのだ。そう思われると知っているから、誰にも自分の能力を教えたくなかった。怖いと思われれば、確実に存在をシカトされるとわかっていた。だから大事な藤には打ち明けたくなくて、でも秘密を暴露すれば楽になれそうな気持ちも否めなくて、結局三橋を選んだ。関わりの薄い三橋なら、もし無視されてもそんなに傷つかなくて済むと思っていた。

 脅威からは逃れなくちゃならない。岬姉ちゃんは正しい。だからしゃむに引き止められない。でも岬姉ちゃんは、俺の姉ちゃんなのに。小さい頃、いつも俺の我儘を聞いてくれたのに。こんなの嫌だ。自分でなにを言っているのかもわからなかった。岬姉ちゃんを失いたくない一心で、俺は必死になっていた。

 岬姉ちゃんは、唐突に作業を中断した。伴って、俺の言葉も止まった。岬姉ちゃんの華奢な背中が、不意にぴんと伸ばされた。

「ひとつだけ聞いて。わたし、ただ単に、いろんなものの死を予知するなっつのことが怖いんじゃないの。その感情はむしろ、すごく小さい」

 時間の流れが、いやにスローに感じられた。岬姉ちゃんが言おうとしていることを聞いてはいけない気がする。耳を塞ぎたい衝動を、拳を握りしめて抑えた。

 岬姉ちゃんの声は、もう震えていなかった。優しい澄んだ声だ。この声も、俺はずっと好きだった。人にシスコンだと言われようが、そんな声こそどうだってよかった。

「わたしね、ふと思ったことがあるの。なっつは、これからなくなる予定の命がわかるんじゃなくて、これからなくなることになる命がわかるんじゃないかって」

「……え……?」

 岬姉ちゃんがなにを言っているのか、俺にはわからなかった。思考回路がストップしている。後頭部を思いっきり鈍器で殴られたみたいだった。

 岬姉ちゃんは振り返らず、一方的に話を続ける。

「なっつは、誰かやなにかが死ぬのを予知してるんじゃない。なっつの能力は、目で殺すことなんじゃないかって思ったことがあるの。自分の周囲に、こんなに頻繁になくなる命があるなんておかしいって。動物や植物ならまだわかる。寿命が違う。でも、人間はわたしたちと同じ」

「そんな……そんなこと言うなんて、姉ちゃん、酷いよ……」

 辛うじて声を捻り出した。岬姉ちゃんの発言は俺に、お前は恐ろしい殺人鬼だ、と罪状を突きつけたのと同じだ。どうして俺はこんな気持ち悪い力を持って生まれてきたのか、何度も頭を巡った疑問が再度浮上する。普通の子供に産んでくれなかった母さんを、無意識に恨んだ。その瞬間、息ができなかった。能力自体を疎みはしても、母さんを敵視する感情を抱いたことは今まで一度もなかった。俺のささやかな潔白さえも、たった今崩れ落ちた。非情すぎる現実世界に、耐え切れず涙が零れる。

「自分でも最低だと思った。でも、考えちゃったの。一度考えたら、どうにもならなくなった。お母さんが死んだのもあなたのせいだって、そうとしか思えなくなっちゃったの!」

 張り上げられたその声に、身が竦んだ。岬姉ちゃんが発した言葉の意味を知りたくなかった。嫌だ。溢れる涙は視界を覆ってくれないし、聴覚を鈍らせてもくれない。嫌だ。俺はそう口にした。でも岬姉ちゃんの声は止まらなかった。

「お母さんはもともと身体が弱かった。わたしを産んだだけで奇跡だったのよ。でもあなたを産んだ。それからすぐに亡くなった。それは事実よ。でも、自分の命と引き換えてでも、お母さんはあなたを産むことを望んでた。あなたを産まなかったら、お母さんは生きてたかもしれない。だけどお母さんはあなたを愛してたから、わたしもあなたのせいでお母さんが死んだなんて考えたこともなかった!」

 残りの化粧品を、岬姉ちゃんは乱暴に鞄に投げ込む。岬姉ちゃんの苛立ちがそのまま音に変換されたような、荒々しい音が部屋に響いた。

「なっつが自分の能力に気付いたのは八歳のときよね。それ、そのとき気付いたってだけで、もっとずっと前から使えてたんじゃない?」

「わかんないよ、そんなの……」

 岬姉ちゃんがなにを言おうとしているのか、想像がつく。もう聞きたくない。耳を塞ぎたかった。塞いだところで、なんの解決にもならないことはわかりきっていた。塞いだところで、至近距離の岬姉ちゃんの声を遮断できないこともわかっていた。

「産まれて間もない赤ちゃんのとき、なっつはお母さんが死ぬのを視てたのよ。だからお母さんは死んだの。お母さんは、あなたが無意識のうちに目で殺しちゃったのよ!」

 言われた。想像していたけど、現実になると一際辛かった。涙が止まらなかった。堪えようと唇を噛んでも、ちっとも効果はなかった。現実世界を、ひたすらに俺は呪う。

「どうしてよ。どうしてお母さんを殺しちゃうの? わたしには、まだお母さんが必要だったの。なんでお母さんを殺さなくちゃいけなかったのよ。教えてよ。ねえ! なっつ!」

 もう嫌だ。どうしてこんなことになってしまうのか、全然わからない。俺、なにか悪いことしただろうか。母親を殺したなんて実の姉に責められる、それほどの罪を犯しただろうか。そんな憶えはないけれど、岬姉ちゃんが言う通り、俺の能力が死の予知ではなく遂行なら確かにそれは罪だ。俺は、ただ普通に生きていただけの命を、意味もなく奪い続けていたことになる。それを罪と呼ばずして、なにを罪と言うのだろう。

 嫌だ。なにもかも嫌だ。みんな消えてなくなればいい。みんないなくなればいい。こんな俺の世界はいらない。強く望んだ。その一瞬で、視覚にそれが舞い込んできた。いつもの視覚化。それが間違いであることは、今までに一度もなかった。唯一特例があるとすれば、モノを助けようとしたときに、死因が視えたそれより無残になっていたことだけだった。

 荷作りを終え、鞄を持って立ち上がった岬姉ちゃんの腕を咄嗟に俺は両手で掴む。放して、と岬姉ちゃんが叫んだ。俺は放さなかった。

「岬姉ちゃん、行っちゃやだ」

 母さんは最初からいない。岬姉ちゃん曰く、俺が殺した。だからクロも殺した。モノも殺した。七瀬にも嫌われてしまった。もう十分だった。これ以上、大切なものを失いたくなかった。逃れようと身を捻る岬姉ちゃんを、意地でも放すまいと俺は両手に力を込める。

「お願い。ここにいて。俺、取り残されてくのはもう嫌だ」

「なによ、それ。もしかしてわたしが死ぬのもわかったって言うの?」

 肯定できないけど、否定しても嘘吐きになる。黙っていると、岬姉ちゃんはさっきとは比べものにならない勢いで俺を振り払った。そんなことをされれば、俺は立ち尽くすしかなかった。

「そうやって家族もみんな殺す気なんだ。思った通りに人が死んで、さぞ気持ちいいことでしょうね」

「違うけど、岬姉ちゃんがそう思うならそれでもいいよ。どこにも行かないでよ。俺と一緒にいなくていいからここにいて。じゃないと、岬姉ちゃん」

「わたしがここから出て行きたい理由、変な力を持ってるあなたと離れたいからってだけじゃないの」

 思いがけない一言だった。岬姉ちゃんは俯いて、呼吸を整えていた。じゃあほかの理由は、と、俺はやっとの思いで促した。

 岬姉ちゃんは言った。

「わたしね、なっつ。あなたのことを怖がってるわたしも、あなたがお母さんを殺したと思い込んでるわたしも、わたしのことを好きってわかってるのにあなたを嫌いになってるわたしも、全部嫌いなの」

「自分が嫌いだから出て行くの? よくわかんないよ、それ」

「そうよ。あなたを嫌ってるわたしが嫌い。ええ、わたしは卑怯よ。ずるいし、臆病だわ。なっつのその派手な格好、わたしの気を惹こうとしてるんでしょ? 彼氏の真似をすれば、またわたしが好きになってくれると思ってるのよね。それが辛いの。昔のわたしを取り戻そうと必死になってるのに、それに応えられないわたしが憎くて仕方ない。最低なわたしを自覚したくないから、あなたから逃げようとしてる」

「わかってるならどうして逃げるんだよ。俺、そんな卑怯な姉ちゃんだって構わない。俺の姉ちゃんでいてくれれば、それだけでいい。だから行かないでよ」

「ごめんなさい。本当にごめんね」

 鞄を肩に提げた岬姉ちゃんが、早足で横を通り抜けた。引き止めたくて口を開いたけれど、もうこれ以上、どんな言葉を紡ぎ出せばいいのかわからなかった。なにを言っても、岬姉ちゃんには届かないのだと感じた。いや、そうじゃない。届いているから、留まらせることができない。岬姉ちゃんが本当に俺のことを嫌っていて、顔も見たくなくて家出するというなら、以前のようにまるっきり無視を決め込んでいればいいのだ。そうせずに俺と会話して、しかも端々に謝罪を織り交ぜるということは、岬姉ちゃんは今でも俺を愛してくれている。弟の俺を怖がり、避けてしまう罪悪感に迫られ、出て行くことを選択した。なにも言わなければ岬姉ちゃんは遠のく。なにか言えば、言った分だけ罪悪感を膨らませる岬姉ちゃんは、更に遠のいていく。そしてケイスケ。染めた茶髪と煙草くらいしか印象にないけど、俺が一方的に悪と決め付けていただけで、ケイスケが岬姉ちゃんの行き着く先なら、彼はむしろ岬姉ちゃんを守っていることになる。

 身体から芯が取り去られたみたいだった。まっすぐ立っていることが難しく、壁に手をついた。現実が、俺の世界が反転する。成す術なし。怒り、諦念、悔しさ、悲しさ。視えてしまったその映像。あらゆる負の感情が、足先から脳髄まで一変に競り上がってくる。涙がどうしても止まらない。岬姉ちゃんをこんなにも大切に思っているのに、一遍として、意味を持つ言葉にならない。どうにもできない。じゃあ、もういい。率直に思ったそれが、口に出ていたようだった。振り向いた岬姉ちゃんに、俺は同じ言葉を繰り返す。一切の制御が利かなかった。自分でも驚くほどの大声だった。

 目を大きく開いた岬姉ちゃんは、やがて悲しそうに唇を結んだ。玄関のドアを開け、背中が外の世界へと消える。静かに閉まったドアの音が、空しく俺の耳に届いた。放心してドアを見つめる俺の目に、切断されたチェーンロックが映った。ケイスケがやったのか岬姉ちゃんがやったのかはわからないけど、わざわざ器具を持ち込んだのだから、余程俺と関わりたくなかったと窺える。どうしようもなく嫌われ者の自分を嘲り、俺は独りで笑っていた。




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