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壱井夏也 5

「壱井君、いつもお茶出してくれるでしょ。ずっと気にはなってたんだけど、今日は本当にちょうどよかった。なんでも好きなもの頼んでね」

 佐伯先生の嬉しげな声を聞き入れつつ、俺は見開きのメニューを眺めていた。様々な種類のケーキやタルト、フロートの写真と値段が掲載されている。喫茶店になど入ったことがなかった俺にとっては、どれを注文しても未知の経験になる。佐伯先生が自分からお店に誘ってくれたことも合わせて、俺の記憶に焼きつくことは間違いなかった。

 テーブルを挟んだ向こう側で、佐伯先生はメニューに食い入る俺を楽しそうに見つめている。甘いものを決め兼ねる俺を、さも子供っぽくて可愛らしいとでも思っているのかもしれない。そんなふうに見てくれるだけましか、という思いと、やっぱりそんなふうにしか見てくれないのか、という思いが俺の中で交錯する。どちらの威力も均一で、結局双方かき消し合った。どちらの思いが勝れば正当だったのか、最早自分でもわからなかった。

「ここね、和菓子系のパフェもあるのよ。ほら、これ」

 俺が洋菓子より和菓子を好むことは、佐伯先生も知っている。だから、注文を決められない俺を助言すべく、佐伯先生はメニューを手に取った。指で示されたそれは、小豆がふんだんに使われた如何にも甘そうなパフェだった。とてつもない魅力を感じたものの、やっぱり奢らせるのは悪いような気がした。先生本当にいいの、と言おうとしたところで、ちょうどウェイトレスがやってきた。佐伯先生は俺に目で応じ、ウェイトレスに小豆パフェとオレンジジュースをふたつずつ頼んだ。ウェイトレスは愛想よく頭を下げ、テーブルを離れていった。

 俺と佐伯先生のこと、どういう関係だと判断しただろう。気に留まり、思わずウェイトレスの背中を目で追ってしまった。

「ごめんね、勝手にオレンジジュース頼んじゃったけど。飲める?」

「あ、うん」

 慌てて視線を佐伯先生に戻し、俺は頷いた。佐伯先生は、よかった、と胸を撫で下ろした。

「小豆パフェ、わたしも大好きなんだけどね。パフェだし、喉が渇くのよ。大人らしくコーヒーなんて頼めたらいいんだけど、わたし、コーヒー飲めないのよね。いつまでもジュースで、お前は子供かって言われちゃう」

「先生、ここにはよく来るの?」

「本当はよくないんだけど、壱井君の家に行くときはここの駐車場に車停めてるの。で、帰る前にここに入る。カモフラージュも含めて」

 小声で悪戯っぽく笑い、佐伯先生は人差し指を唇に当てた。内緒の話のポーズだ。俺と佐伯先生だけの秘密ができたようで、ちょっと楽しかった。

 なんのフラグもなく、いきなり先刻の光景がフラッシュバックした。一度目が合ったのに、無言で俺の横を過ぎ去った詩仁。いや、ショックはショックだけど、たったそれだけのことで傷つくのは自分勝手だ。俺だって通り過ぎざまに藤を藤と認識したのに、わざとスルーしようとしたことがある。藤はあのとき、俺の肩を掴んで無理矢理振り向かせた。言いわけをするなら、モノが死んだことで一杯一杯で、誰とも会話したくなかった。でも、藤のあの強引な手法は俺を助けた。一緒にモノのお墓を作ってくれたし、俺の能力の話もできた。藤曰く、俺の能力には発動するルールがあるらしい。俺は視えた命の終わりに干渉するべきではないようだ。

 そういえば、ルールの話題の途中で、藤は明らかに話をはぐらかした。俺も言及しなかったけど、結局あれはどういうことだったんだろう。藤まで俺を傷つけるのだろうか。突出したマイナス思考が性懲りもなく俺の脳裏に顔を出した。

 親しい人にいきなり目を逸らされる。以降、二度と目を見てくれなくなる。詩仁がその最初のステップを踏んだ。どうしようもなく不安になった。不安を解消したくて、佐伯先生に話を振ろうと口を開いた。佐伯先生はついさっきまでの笑顔を引っ込め、なにか考え込むように視線を下げていた。俺が見ていることに気付いた佐伯先生は、再度笑顔を繕った。同じ笑顔のはずなのに、俺には、ほんの数分前のものと同一視できなかった。

「ごめんごめん。なに?」

 佐伯先生の口調は明るい。数分前と同じだった。笑顔に隠れた違和感はなんなのか、やはり話すのをやめようか、とネガティブに傾く気持ちを強い信念で蹴散らした。勝手に疑って勝手に自分の中に篭るのは、俺のもうひとつの悪い癖だ。疑念を取り去り、覚悟を決する。

「先生さ、道端で結構仲のいい友達に遭遇して、目も合ったし声かけようと近づいていった矢先でスルーされたらどう思う?」

「え。誰がそんなこと」

「どう思って、どんなふうに行動する?」

 佐伯先生の声を打ち消し、俺は言葉を重ねた。佐伯先生はもう笑っていなかった。状況を想像しているのか、渋い表情をしている。

 ウェイトレスが小豆パフェとオレンジジュースを運んできた。それぞれの品をテーブルに置くと、彼女は再び丁寧にお辞儀をして去った。つられて俺も軽く頭を傾けた。

 パフェとジュースをひとつずつ俺に向けて、佐伯先生は「食べましょ」と一瞬だけ微笑んだ。お礼を言って、俺は綺麗に装飾されたパフェをスプーンでちょっと突いた。

「その一回はともかく、次がどうか、よね。次に会ったときに何事もなく普通に話ができれば、この前のはなにかの間違いだったんだなって思える。実際、考えごととかで頭がぼんやりしてれば、いくら至近距離で目が合ったって知り合いだとわからないことはあるだろうし」

「じゃあ、次に会ったときも同じ反応されたら?」

 問題はそこだ。次に詩仁に会ったとき、同じように目を逸らされてしまったら俺はどうしたらいいのか。男女で対応の違いはあるかもしれないけど、年長者である佐伯先生にアドバイスを乞いたかった。

 そのときは、と佐伯先生は言葉を選ぶように言った。

「電話かな。携帯電話なら着信が残るし、少なくとも、わたしは貴方と話がしたいってことは伝わるでしょ。留守電機能もあるわよね。自分で気付かないうちに気に障ることしちゃってるのかもしれないし、もしそうならちゃんと謝りたいって気持ちを伝えなきゃ。もちろんそういう場合は、最初に心当たりがないことを謝っておく必要があると思うけど」

「それでも無理ならどうするの?」

「その人との関係復帰は諦める、かな」

 口調自体は柔らかいけど、声に乗った意味は重い。鈍く胸の内に突き刺さる一言に、俺は愕然とした。大人の佐伯先生なら、亀裂の入った人間関係をなんとかして修復する術を心得ていると思った。いや、修復できないとわかっているから、子供のように縋りつくではなく、大人らしく手を引くのか。確かに人との交流は自分ひとりで構築できない。壊すのも繋ぐのも、相手があってこそだ。相手と認めてもらえないのなら、どうできるわけもない。佐伯先生の判断は理に適っている。

「そうだよね。そうするしかないか」

 なにかあったと悟られたくはないけど、話を振った時点でなにかあったことは伝わっただろう。だから俺は、目を伏せるのを躊躇わなかった。小豆パフェのアイスの部分にスプーンをつけた。甘くて美味しい。でも、素直に笑顔で感激する気にはなれない。いきなり話題を変えて明るくなれるほど、俺は大人になっていない。

 次がどうか。詩仁は明らかに俺を避けた。でも、佐伯先生曰く、チャンスはまだ残っている。もう一度詩仁に会って、普通に接してくれるか否かだ。俺を遠ざけたことはなにかの間違いであって欲しい。間違いであって欲しいけど、もし、そうじゃなかったら。俺が、命の終わりを視覚で認識する気持ち悪い能力を持っているから。大事な家族も友達も、俺の傍からいなくなる。

 こんな力さえ持ってなければ。死を視る目さえなければ――目さえなければ? そうか、目がなかったら、俺は――。

「壱井君、大丈夫?」

 心配そうな佐伯先生の声で、はっと我に返った。俺、今なに考えてたんだっけ。わからなくなって、俺はまるで異世界にでも放り出された心地だった。しっかりしろ、俺。心の中で己に喝を叩き込み、話題を変えようと頭を捻る。とは言っても、俺に話せる話題なんてろくにない。普段から自ら聞き手にまわる口なのだ。自分が話したい、というより佐伯先生の話を聞きたいのが俺のいつもの本心だった。それなら尚更、なにを話そう。友達のこと、家族のこと、コケダマのこと。どれも何度も話した。俺には楽しい話題がない。自分という存在の薄っぺらさを思い知らされたようで、泣きたくなった。ひとつだけ思いついて、口を半分だけ開いた。こんなことを話題にすれば、また自分が傷つくのではないか。そんな躊躇が俺の判断を鈍らせる。 

 でも、聞かずにはいられなかった。やめておけと内なる自分が引き止めるのを退け、俺はそれを切り出した。

「先生って、今付き合ってる人いる?」

 言ってしまった。佐伯先生の肩が少し強張った。どうしてそんな反応をするのか、俺にはわからない。佐伯先生は困ったように笑ってパフェに手をつけた。

「いきなりどうしたのよ。そんなこと訊いてどうするの」

 恋人はいないんだ。佐伯先生の曖昧な返答から、俺はそう解釈した。一度動き出した口は、自分でも止められなかった。次の質問を突き出した。

「じゃあ好きな男の人は?」

「壱井君こそどうなの? 中学生の頃、わたし、すごく好きな男の子がいたけどな」

「もしさ、俺が先生のこと好きだって言ったらどうする?」

 佐伯先生の呼吸が、一瞬止まった。佐伯先生の双眸が詰め寄った俺を映している。ここで初めて俺は、自分が半分身を乗り出していたことに気が付いた。硬いソファーに座り直し、俺はやり場なく俯いた。直接告げたわけではないけれど、今のは告白したのと同義だ。勢いにつられた俺自身を思いきり殴ってやりたくなった。

「何日か前、デパートで藤君とばったり会ったの」

 佐伯先生がなにを言い出したのか、俺には全然わからなかった。それでも佐伯先生は、静かに話を続けた。

「そこでちょっと話をしたんだけど、藤君、壱井君とまったく同じ質問をしてきた」

「どういうこと?」

「もし俺が先生のことを女性として好きだって言ったらどうしますか、って」

 そんな話、これっぽっちも知らなかった。藤がなにを思ってそんなことを訊いたのか、俺には検討もつかない。

「でもまさか、訊き方がまったく同じなんて。お互い親友だって言うだけのことはあるね」

「先生、藤がなんでそんなこと言ったのかわかるの?」

「藤君は、大事な友達の恋がちゃんと叶うかどうかを確認したのよ」

 知っていた。佐伯先生は、俺が佐伯先生に恋していることを知っていた。そういうことだ。即座には言葉が出てきてくれず、目を逸らすこともできず、俺は俯き加減の佐伯先生を唖然と見つめるしかなかった。

「デートしようって言ったのは、実はカマかけてたの。藤君に質問されて思いつきはしたけど、確証はなかった。反応を見て、本当にそうなのか確かめようと思った。もし本当なら」

「先生、いつもお茶出してくれるからそのお礼って言ってたよね」

 藤が余計なことを口走らなければ、とは思わなかった。そんなことはどうでもいい。重要なのは、そんなことではなかった。だから俺は佐伯先生の言葉を掻き消した。佐伯先生は一瞬口を噤んだものの、すぐに決心を固め直したように喋り始めた。

「騙すようなことしてごめんなさい。でも、はっきり言っておかなくちゃならないことがあるでしょ。好きになってくれてるのはすごく嬉しいけど、わたしはその気持ちには応えられない。わたしは貴方の先生なんだし」

「でも、先生が俺を騙したことに変わりない」

 今度は、佐伯先生は本当に絶句したようだった。絶句させたことに罪悪感はなかった。佐伯先生が言っていること、言いたいことは理解できる。俺だって好きになろうと意識して佐伯先生に好意を寄せたわけではない。先生と生徒、壁が厚いのは重々承知だ。力ずくでそれを破ろうとも考えていなかった。どうせ叶わないとわかっているのだから、一方的に焦がれるだけでもよかった。しゃしゃり出たことはなにもしていないのに、佐伯先生は、俺に嘘を吐いて本当のことを暴露させた。わけがわからない苛立ちが募ることはあれども、罪悪感なんて生まれるはずもなかった。

 そう。俺はただ、恋している状態を維持していられれば、それだけでよかったのだ。そうだというのに、わざわざ佐伯先生は、俺の恋する相手は、俺のささやかな拠りどころを打ち砕きにやってきた。どうしてこういうことになったんだろう。佐伯先生も詩仁も岬姉ちゃんも。モノもクロも。この世界は、一体なんなのだろう。一体どれだけ俺を傷つければ気が済むのか。

「酷いよ、こんなの」 

 自分でも驚くほどの低い声が、ぽつりと零れた。下を向いて佐伯先生を視界から弾き出し、俺は更に喉を震わせる。

「なんで俺ばっかり。どうして俺だけがこんなに傷つかないといけないんだろう」

「ごめんなさい、壱井君。傷つけるつもりは」

「先生は黙ってて!」

 怒声を張ったのは無意識だ。佐伯先生は肩を振動させて、息を呑んだことが気配でわかる。俯いた俺の視線に、指に通した複数の指輪が飛び込んだ。途端に、相当鬱陶しくなった。俺の腹の底で、煮だった音をたてながらなにかが湧き上がっている。なにか。考えるまでもない。世界が俺に与える仕打ち。それに対する苛立ち。ご丁寧に手間を取って破壊された恋。嘘。シカト。スルー。様々な出来事が、断片的に脳内に蘇る。茶髪も指輪も煙草も、大好きだった岬姉ちゃんを結局遠ざけただけだった。

 右手の指輪をすべて抜いて、出鱈目に床に投げつけた。冷たい音が鼓膜に響いた。左手の分も投げ捨て、ポケットの煙草とライターも思い切り叩きつけた。佐伯先生が驚愕している。お店にいる人も、何事かと俺に注目している。というのは妄想だ。実際には、俺は黙って座っているだけだった。指輪は全部身に付けているし、煙草もライターもポケットに入っている。苛立ちに素直に従い、暴れることができればどれだけいいか。自制する器があると言えば聞こえはいいけど、俺にはただ、感情を爆発させて権化と化す度胸がないだけだ。いや、理性が残っている分、俺にはまだ余裕があるということだろうか。どう判断すればいいのか、もう自分でもわからなかった。

 佐伯先生はなにも言わなかった。言わずに、俺のことをずっと見ていた。佐伯先生の様子から推測すると、俺が声を荒げたのは妄想ではなかったらしい。無自覚にそう考えた瞬間、俺は自分の異常の程度を知った。たった今のことなのに、妄想だったのか現実だったのか、どっちなのかわからない。俺、どうしたんだろう。咄嗟に頭に手を当てて、ほとんど現在の記憶を探った。恋が砕けたことは本当の出来事だ。それはわかる。それ以降が、佐伯先生の表情も声も交わした会話も、現実と非現実の区切りがつかない。俺の中で、境界が溶け合ったそれらがぐるぐると渦巻いている。

「あのね、壱井君。今更こんなこと言っても、結局貴方を不快にさせるだけかもしれないんだけど」

 耳が働くことを放棄した。いや、声は聞こえている。でも佐伯先生がなにを言っているのか、上手く聞き取れなかった。脳が声を音としか認識しない。声は声で意味がある単語なのに、脳がそれを分解してくれなかった。これ以上は時間の無駄としか思えなかった。

「俺、帰る」

 会話の相手の話は理解できないのに、自分の声だけはしっかりと判別できた。孤立した俺を象ったような展開が、なんだか妙にツボにくる。口の端が吊り上がりそうになるのを懸命に堪えた。

「先生、ありがとう。ごちそうさま」

 とは言ってもジュースには手をつけていないし、パフェはほとんど形のまま残っている。勿体ないけど、もう食べる気にならなかった。目を見開いてなにか言っている佐伯先生を背後に追いやり、俺は勝手に店を出た。出て行く俺を引きとめようとでもしていたのか、そうだったところでどうでもいい。なんの覇気も沸いてこない。

 生徒に恋なんてされたら、先生は困るに決まっている。アイドルや芸能人じゃないんだから、勝手に好きでいなさい、なんて言えるわけがない。先生だって俺の気持ちを知らなければよかったのだ。佐伯先生は優しいから、俺の気持ちを砕くのに相当の覚悟が必要だったに違いない。それが教師としての正しい道筋にも関わらず。

 だから俺は、先生のことを好きなだけでよかったのに。それ以上なんて望まないのに。店を出て歩いていると、視界が潤んでいることに気が付いた。袖で目元を拭っても、次の瞬間にはもう濡れていた。どうして自分が泣いているのかもわからない。先生に嘘を吐かれたからか、恋の可能性を絶たれたからか、世界が俺に押しつける数々の悲壮のせいか。あるいはそのすべてか。わからないことだらけで、またしても苛立ちが腹の底に沈殿した。

 早咲きで早散りの恋心。スパンが短いだけに、その目は粗くなんてなかった。俺の世界の均衡が崩れる音を、無心に機能する聴覚が僅かに聴き取ったような気がした。










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