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壱井夏也 4

「見て、なっつ。撫でるとこの子、すっごく気持ち良さそうに目を瞑るよ」

 幼い女の子の声が聞こえた。聞き覚えのあるその優しげな声を、誰が発しているのかわかる。

 俺が抱いているのは、赤い蝶ネクタイがチャームポイントのクマのぬいぐるみだ。ほとんど自分の身体と同じサイズのそれを抱えているせいで、俺の足取りは覚束ないものになってしまう。よろめきながら、俺は女の子の傍に向かった。この時点で夢を見ていると気付いていた。目線は低いし、だいたいぬいぐるみが大きすぎていた。今はもう、俺のことを誰ひとりとしてなっつと呼ばない。俺をなっつと呼んでいたのは、岬姉ちゃんだけだった。

 両手で抱えたぬいぐるみを押しのけ、俺は子供の岬姉ちゃんが触っているものを見た。真ん丸の綺麗な瞳を持った子猫だった。首輪はしていなかったけれど、毛並みはきちんと整えられていた。野良になって間もない、可哀想な捨て猫だ。幼い俺にはわからなかったけれど、頭の中が現実世界に直結しているこの夢の中なら、それくらいのことは簡単にわかった。でも飽くまで頭の中が今の俺なだけで、夢の中の俺は年相応だ。過去の俺の内側から、現代の俺が夢の世界を覗いていた。

 岬姉ちゃんと家の庭で遊んでていて、捨て猫を見つけた日。十月の出来事だった。家の敷地に迷い込んできた捨て猫の顎を、岬姉ちゃんは、優しく掻いてやっていた。十二歳の岬姉ちゃんは、四歳の俺が見上げれば既に大人同然だった。

 俺が抱いたぬいぐるみを、子猫は興味ありげに鼻先で突く。びっくりして、俺はぬいぐるみを背中に隠した。子猫は首を傾げた。岬姉ちゃんは無邪気な笑い声を転がした。

「この子、なっつと遊びたいのよ。触ってあげなよ、すごく柔らかいよ」

「このねこ、くまさん食べない?」

「猫はクマを食べない。あ、でも」

 岬姉ちゃんは、上目がちに上空を仰いだ。人差し指を唇に当て、岬姉ちゃんは小悪魔っぽく俺を横目にスライドさせる。

「クマは猫を食べちゃうかもね。ほらそのクマさんも、お腹空いたよー、猫ちゃん食べたいよーって言ってる」

「ほんと? なっつには聞こえてない」

「お姉ちゃんには今もはっきり聞こえてるよ。よく耳を澄まして。ほら、聞こえる」

 岬姉ちゃんは大袈裟に胸を張り、両手を耳の後ろにぴったりとくっつけた。そこまでされると、俺も岬姉ちゃんが正しいような気がしてきた。背中側のぬいぐるみを顔の前に持ってきて、俺は目を閉じて意識を集中させた。空腹を訴えるぬいぐるみの願望など、これっぽっちも俺の耳には入ってこなかった。

 わかんない、と半分泣きそうに俺が言いかけた矢先、岬姉ちゃんは楽しそうに身体を揺らす。

「なっつ、どうする? 猫ちゃんが食べられるの可哀想よね。そこでお姉ちゃん、いい考えがあるんだけど」

 完全に話の流れに乗れていない俺は、更に泣きそうになっていた。ちょっと鼻を啜ったりもして、それとなくアピールは続けていたものの、岬姉ちゃんは俺のそんな行動さえも余興だと言わんばかりだ。そして岬姉ちゃんは膝を折り、俺の耳元で囁いた。

「猫ちゃんの代わりに、なっつがクマさんに食べられちゃえばいいんだよ」

 その瞬間、幼い俺の忍耐は限界に達した。ぬいぐるみを手放し、俺は今では到底考えられない大声を張り上げて泣いていた。想定外の出来事に飛び上がり、子猫は火がついたように駆け出した。子猫の後ろ姿は、すぐに見えなくなった。

 岬姉ちゃんも、まさか俺が本当に泣き出すとは思っていなかったらしい。俺は岬姉ちゃんに抱き上げられ、呂律も危うい必死の言葉であやされている。ぬいぐるみは、たまたま俺と岬姉ちゃんを見上げる形で地面に転がっていた。

 岬姉ちゃんがなにを言っても、俺は泣き続けていた。我ながら、よくそんなに泣けるものだと思う。当時の俺は、なにがどうなってそれが泣くことに結びついたのか、自分でもあまりわかっていなかった。たぶん、涙が出るから泣いていた。悲しいやら寂しいやら、クマのぬいぐるみに食べられそうで怖いやら、そんな感情はきっと抱いていなかった。

 俺の泣き声を聞きつけて、家の中から父さんが出てきた。父さんは今より少し肉厚だ。俺の身体は、岬姉ちゃんの手から父さんの広い胸板に移された。父さんの肩にしがみついて、俺はまだ涙を流していた。

 泣き止んだのは、俺の目の前に突然薄い桃色の球体が現われたからだった。なんだか美味しそうな甘い匂いがする。小さな丸い物体は一体どこから取り出されたのか、岬姉ちゃんの細い指が摘んでいる。俺が手を伸ばすと、岬姉ちゃんはそれを上手に持たせてくれた。

「わたしが作ったいちご大福。なっつ用に小さくしてるのよ。ほら、ここにもいっぱい」

 岬姉ちゃんは、ワンピースのポケットに手を突っ込んだ。同じ球体がたくさん入ったビニール袋が出てきた。まじまじとそれを見つめる俺に、岬姉ちゃんは今度は袋ごと手に預けてくれる。感触と重さが、夢とは思えないほどにリアルだった。よかったな夏也、お姉ちゃんが作ったんだから絶対美味いぞ、と父さんの声が降ってきた。俺は、小さないちご大福を、ゆっくり口に近付けた。既製品にはない、手作り独特の甘い香りが舞い上がった。涙で潤んだ俺の視界が不意にぼやけた。あれ、と思った一瞬、俺は現実のベッドの上にいた。腕の中に、枕元に置いてあるはずのクマのぬいぐるみがあった。

 知らないうちに寝てしまって、知らないうちに抱き寄せていたらしい。身体を起こし、ぬいぐるみも起こして見つめてみた。あの頃より綺麗な茶色ではなくなった。手触りもふんわりとはしていなかった。チャームポイントだった真っ赤な蝶ネクタイも既にしておらず、ところどころの破れ目から白い綿がはみ出している。このぬいぐるみは、いつだって俺に優しい思い出をくれる。同時に時間の経過を教えてくれる。嬉しくなるけど、悲しくもなる。岬姉ちゃんが俺のことをなっつと呼んでくれた時代に、どうしようもなく帰りたくなる。でも時間は巻き戻らないし、岬姉ちゃんは俺をずっと嫌っている。

 考えるだけ無駄だ。ぬいぐるみを枕元に戻し、頭を一振りして部屋を後にした。ポケットの携帯電話は、夕方四時半過ぎと表示されている。学校が終わって、みんな帰る時間帯だろうか。そう思うと、少しだけ外に出てみたくなった。同じ年頃の子供が歩いている中に紛れれば、俺だってそのときは普通の子供のはずだ。制服か制服でないかの違いはともかく――とにかく、モノがいなくなって今日で四日目、その間、外の空気を吸っていない。新鮮な酸素を肺に取り入れたい気持ちもあった。外の世界は俺にとっては生き殺しだけど、それでもたまには、俺以外の人間にとって幸せな世界に触れてみたい。そんな俺って滑稽なのかな。そんなことを思いながらコートを羽織り、お気に入りのブーツを履いた。久しぶりの外の世界の風は冷たい。マフラーがないから首周りが余計に寒い。まだ十月後半だというのに、今年の寒波は本当に異常なようだ。

 煙草に火をつけようとして手が止まった。こんなことをしても、岬姉ちゃんは戻ってきてくれない。だいたい、彼氏の真似をして気を惹こうという発想自体が間違っていた。背伸びした茶髪と煙草は、結果としてさらに俺から岬姉ちゃんを遠ざけた。逆効果だったことは明確なのに、まだ俺はそれを続けている。俺って滑稽だ。最早確定だ。自分の中で踏ん切ったところで、結局煙草を吸う気は失せた。コートのポケットに煙草とライターをしまい込み、あてもなく歩いた。妙な映像は、ひとつも頭に入ってこなかった。

 暫く歩いていると、向かいから辻ノ瀬学園の制服を着た男の子が歩いてきた。あ、と思うまでもなく、見慣れた金髪と耳朶で光るピアスで誰かわかった。詩仁は俯き加減で、俺に気付いた様子はなかった。即座に、すれ違いざまに肩を叩いてやる計画を練った。驚く詩仁を想像して楽しみつつ、俺はこっそりと左手を構えた。その瞬間に詩仁が顔を上げた。目が合った。まあ、これはこれでいいか。俺は思い、口を開いた。「久しぶりだな」。一言そう言うつもりだった。

 詩仁は再度俯いた。足を止めずに俺の横を通過した。俺が足を止めた。振り返っても、詩仁の背中が小さくなっていくだけだった。さっき、目、合わなかったっけ。でも詩仁は、なにも言わなかった。辻褄が合わない現実に、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 目が合っただけで、俺とは認識しなかったとか。若しくは、俺が詩仁と誰かを見間違えた。たった今起こった出来事のありどころを、懸命に俺は探っている。さっきの金髪は絶対詩仁だった、と絶対の自信がつき纏う。あんなに目立つ容姿の生徒が、詩仁以外に辻ノ瀬の制服を着ているとは思えない。確信的に俺から目を逸らしたのは、紛れもなく詩仁だった。

 昔、あからさまに岬姉ちゃんの視界から弾き出されたことがある。いや、正確には弾き出されたと感じたことがある、か。その瞬間と同じ気持ちが胸の奥を吹き抜けた。

 考えすぎだ。ネガティブな俺の悪い癖だ。そう、俺の波。悪い波。ふと蘇った辛い記憶が、強烈に脳に働きかけてくる。振り払うために、頭を左右に激しく振った。俺と詩仁が会話しなかったのは、きっとなにかの間違いだった。次に顔を合わせた頃には、何事もなかったかのように話ができるに決まっている。だって詩仁は俺の友達だ。悪いことにはならないはずだ。姉に続いて、今度は友達に嫌われたか。脳の奥底で、誰のものでもない声が聞こえた気がした。ということは、これは誰の声なんだっけ。わからなくなって、頭の中が真っ白になった。後ろから肩を叩かれたことで、真っ白になった脳内が現実世界に返った。

「ごめん。壱井君、ずっと呼んでるのに気付かないから」

 勢いよく振り返った俺の目に、困ったように口元を綻ばせた佐伯先生の姿が飛び込んだ。学校からの帰りらしく、少し大きめの鞄を肩に提げている。表情は柔らかく緩んでいるけれど、佐伯先生は、想像以上に俺が身を竦ませたことに戸惑っているようだった。

「そんなにびっくりしなくてもいいじゃない。なにか考えごとしてたの?」

「え、あ、うん。まあ」

 先生の声から他意は読み取れない。俺と詩仁のやり取りを目撃していないようだ。嬉しいような嬉しくないような、リアルタイムで辛い俺を発見してもらえなかったことに複雑な感情を抱く。まだ五時にもなっていないこの時間帯にどうしたのかと、今度は俺が先生に訊ねた。先生は、未だ少し残っていた困惑を表情から完全に打ち消し、満面の笑顔になった。今更だけど、佐伯先生はすごく綺麗な人だ。不本意ながらも胸が高鳴る。音がばれないようにと、コートの上から心臓を抑えつけた。

「実は、壱井君のところに行こうと思ってたの。そのブーツ、とっても可愛くてよく似合ってるわ」

 しかも、そうやって褒められたら。凍てつく空気で身体は冷え切っているはずなのに、激しく鼓動を刻む左胸から、熱が指先に伝わってくる。先生はなんでもなく口にした言葉でも、俺はなんでもない言葉とは受け取れない。俺、やっぱり佐伯先生のことが好きなんだ。藤に指摘されたものの、ぼんやりとしか自覚できなかった恋心が俺の中で急速に息をし始めた。

 そういえば、先生と岬姉ちゃんは同い年だ。なあに、と首を傾げた先生に、俺は無言で頭を振った。先生を岬姉ちゃんと重ね合わせている。昔の夢を見たせいだ。夢の中で岬姉ちゃんに差し出されたいちご大福を脳の片隅に思い出し、俺は先生に背中を向けた。

「家、来るんだよね。今日も散らかってるけど」

「待って、壱井君。せっかく上手く遭遇できたんだし、よかったら近くの喫茶店で話そうよ。パフェがすごく美味しいところがあるの」

 先生とデートしましょうよ。先生は、そう言って無邪気に笑った。俺の気も知らないで、それはあまりにもずるすぎると思った。




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