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壱井夏也 3

「お前、なに言ってるんだ?」

 藤の声はいつも以上に冷静だった。自分以外の冷えた感覚が、空気を伝って全身に入り込む。とてつもない悪寒に、俺の肩は震え上がった。細かい振動が、俺の内側が発するその波が、収まってくれなかった。波。悪い波。俺の敵。巻いたマフラーの口から、ぶらりと垂れ下がったモノの前足が眼前を掠めた。そんなものは幻覚だった。わかっていても、俺は続きを想像してしまう。小さなモノの前足が、俺だけに映る世界の中で、完全に千切れて床に落ちた。

 俺が視た映像では、モノの前足は千切れなかった。明らかに、故意に命を奪われた形跡はあった。でも、少なくとも四肢を切断されるようなことはなかった。なのに、実際にはモノの右側の前足は取れかかっていた。縫い目が解れた、使い古されたぬいぐるみのようだった。

「モノが殺されるのわかったから、俺、どうしても助けたくて」

 身体が震えれば、声も震える。どうしよう、どこをどうやって説明すれば、藤はわかってくれるのだろう。いくら聡明な藤とは言え、あまりに断片的な単語からでは、明白な情報は掴めない。それでも俺は、なんとか藤に伝えなければならない。藤ならきっと上手く整理して、それが一体どういうことなのかを俺に教えてくれる。そのために、俺は正しく伝えなければならないのだ。わかってはいるけれど、俺の喉は頭で考えていることを上手に言葉に変換してくれなかった。

「家に連れて帰ったんだよ。でも、それで、外に出して、見に行ったらもうモノが」

 視界の中心にいるはずの藤が、何故か左端に移動した。あれ、と思った先で、右に寄った。そして真ん中に戻って来た。俺の目は、その流れを何度か繰り返した。俺、ダメだ。自分で弾き出したその結論が、爪先から頭の天辺までもを揺さぶった。もう嫌だ。なにもしたくない、見たくない、考えたくない。強く下唇を噛むと、淡く鉄の味がした。モノが死んだことも、その状況の説明すら上手くできない俺のことも、すべて含めて悔しかった。

 重い空気が流れた。俺は本当に嫌になった。今この瞬間に、全世界から俺に纏わるすべての物質と情報と共に、自分の存在を消してしまいたかった。

 数秒後に身体の震えが止まった。落ち着いてきたのを見計らったかのように、藤は言った。

「質問するから、イエスかノーで答えろ。場合によっては補足や説明なんかも頼むわ、ただし余計なことは考えるなよ」

 俯いたまま、俺は頷いた。藤は静かに息を吐き出した。

「モノが死ぬ瞬間が夏也には視えてて、その映像と実際の現状は違う」

 いきなり核心だ。俺は小さく「イエス」と答えた。

「モノの死体は、視えた映像よりも酷い」

「イエス」

「視え方通りに死んだ後、傷つけられた可能性はない」

「……たぶんない。ノー」

「そう思う理由は?」

「見たらわかるみたいだ。視え方通りになくなった命はいっぱいあるけど、死体を見て違和感があったのはモノだけだった」

「視えたのが間違ってたか、偶然だった経験がある」

「ノー。今までに外れたことはない。偶然が紛れてたかどうかまで見極めるのは無理だけど、外れたことがない以上、それはない思う」

「死にゆく命を引き延ばそうと干渉したのは、モノが初めてである」

「イエス」

「それはどうして?」

 順調に流れていた俺の言葉が、ここで止まった。藤は誘導に行き詰ったことを知り、僅かに首を傾けた。それ以上なにも言えない俺を一瞥した後、藤は引き際を悟ったように指で眼鏡を押し上げた。疑問を抱いたとき、納得したとき、考え込むとき、あらゆるときの藤の癖だ。知的な藤の動作には、全面的に大人びた、それでいて中学生のあどけなさを残した妙な色気が伴っている。

 俺なんて背も手も足も小さいし、学校に行ってないから勉強はもちろん壊滅的、それ以外の頭を使う場面でもなにひとつ上手な対応はできない。不登校なのは俺の選択だから置いておくとしても、藤に劣りすぎている自分を自覚すると、猛烈に惨めな気分になってくる。そのくせ一丁前に恋して、しかもその対象は先生だ。生徒と先生なんてただでさえ社会の批判を買う組み合わせだというのに、俺如きの恋なんて尚更叶うわけがなかった。

 藤がその気になれば、女性としての佐伯先生を振り向かせられるに違いない。容姿を含めて、藤には弱点がない。俺には弱点しかないのに。どうして俺には弱点しかないのだろう。周囲の死をランダムに悟る能力なんて、もともと弱点だらけの俺のステータスに更なる陥没を作るだけだ。こんな能力、欲しくなかった。

 ひとつくらい、藤が弱点を背負えばいい。この能力を藤に押し付けることができれば。心の底からそう思った自分に驚いて、はっと我に返った。藤は俺の親友なのに、その親友に対して、恐ろしいことを考えてしまった。荒みきった自分自身に、俺自身が上手く立ち回れない。こうしてまた弱点が増える。俺、なんで生きているんだろう。そんなことまで頭をよぎった。

「おい、夏也。聞いてるのか」

「え、あ、うん。聞いてた」

「聞いてなかったな。夏也のことだから、犬でも猫でもなんでも死ぬのがわかれば、助けようとしそうなのにって言ったんだ」

 変な話だけど、それは俺にとっても意外だった。俺は今まで、植物や動物も含めれば、様々な場所で様々な命の終わりを知覚している。そうだというのに、その終わることが確定した命を救おうと行動したことがない。直接自分と関わったことはないにしろ、ひとつの命が消えることを自分ひとりだけが知っている状況に何度も直面した。でも、俺は動かなかった。クロの死を悟ったときでさえも、ああ、こいつも死んじゃうのか、と思っただけだった。助けようなんて、夢想もしなかった。

「嫌な例えになるけど、相手が人間だったらわかるんだよな。真っ赤な他人が死ぬところを自分が視たとして、それを本人に伝えても絶対本気にはしないだろうし。タチの悪い悪戯と取られて終わりか、話のネタにされて笑い話にされるか」

 藤は続けて言う。

「原理としては、俺が通行人にくっついてる霊の類を逐一報告しないのと同じだ。でも、例えばそこにいれば事故に遭うとわかってる猫を、普通スルーして通り過ぎるか?」

「俺が冷酷な奴だって言ってんのかよ」

「そうじゃないから言ってるんだ。要するに、クロのときは助けようと思わなかったのに、モノのときだけ助けようと思ったのは明らかに一貫してないだろって話だ。モノとクロは、同じ大切な友達なんだろ。加えて、死ぬのがわかってるのになんで助けようとしなかったのかって質問に、お前はすぐに答えられなかった」

 藤の指摘は的確だ。反論する言葉もなく、俺は押し黙る。消え逝く命を無意識に救おうとするならまだしも、無意識に救うまいとする。どう考えても、その行動は人間としてなにか欠損している。弱点だらけのみならず、俺はそんな欠陥をこの身に仕込んでいるのだろうか。

「一旦モノを家に連れて帰って、なんでまたわざわざ外に出したのかはともかくとして」

 静かに言いつつ、藤は顎を撫でた。相変わらず、いちいち知的な動きだった。

「夏也は、モノが死ぬ運命に干渉したから、モノの死に方が本来の予定よりも酷くなったと思ってるんだよな。だからお前は、自分の能力でモノを殺した、と言ってるわけだ」

「そうなるね」

 あまりにも飄々と言ってのける藤に、俺の表情は自然と曇る。藤は、そんなことにはお構いなしだった。構っていても仕方がないし、流してくれるのはありがたかった。

 ほんの一瞬、藤は考え込むようにして唸った。藤がどんなことを考えているのかは、俺には予想がつかなかった。やがて藤は口を開き、俺には到底発想できなかったことを言い出した。

「予見が今までに外れたことはなく、偶然が紛れてたこともないと考えるなら、だ。夏也の能力は、まったくのランダムで発動してるわけじゃないのかもしれない」

 言われても、俺には当然意味がわからなかった。可能性の話だからな、と前置きした後、藤は髪を指に巻きつけながら言う。

「ルールがあるんだ。夏也の能力には特定のルールがあって、そのひとつが、死ぬ運命に干渉した場合は、死ぬ対象が受ける仕打ちが酷くなるとか。夏也が今まで、死ぬのがわかってる動物たちを助けようと思わなかったのは、無意識にそのルールを認識してたからじゃないかと思って」

「なんだよ、それ。結局俺が、間接的にモノを殺したってことになってるじゃないか」

「もともとモノが死ぬことは決まってたんだ。そこにイレギュラーの手が加わるか加わらないかの違いがあるだけで、お前が殺したことにはならない。少なくとも、俺はそう考える。ただ、これで夏也の能力には条件があることが判明したとすれば、それがひとつだけとは限らない。そうなってくると」

 なにを意図したのか、藤はここで言葉を区切った。いくらかの静寂が流れた。

「藤、なに考えてんの」

 俺が促してみても、藤は口を噤んだままだった。至近距離だし、藤に俺の声が聞こえていることは明らかだった。一度声をかけた以上、それより多くのことをするのもなんだか妙で、俺は床を見つめて藤の反応を待っていた。何秒かした後、藤は言った。

「俺の考えが当たってるなら、夏也の中で無自覚に認識されて処理されてたルールが、今回初めて適用されなかったことになる。その理由が気になるところだな」

 『とにかく』だの『まあ』だの、そういうまとまらない考えを一時放棄する繋ぎの言葉は、藤にはなかった。でも、藤は明らかに話をはぐらかした。それくらいは俺にもさすがにわかった。けれど俺は、藤がそれを選択した理由を探ろうとは思わなかった。俺が知ってはいけないことのような、俺自身が関わっているのに俺が追い求めてはいけない部分のような、何故だか俺は藤が言いかけたそれに対してそんな気持ちを抱いていた。

 死んでいるモノをマフラーにくるむときの、冷えた感覚がいきなり手に蘇った。急に指先が冷たくなるような気がして、思わず両手を擦り合わせた。死がいつだって俺に纏わりついている。死そのものが、俺のことを知っている。形はないけど確定している恐怖そのものが、今か今かと俺を飲み込むチャンスを窺っているのだ。俺はまだ死にたくない。でも俺は、死という名前のそれに好かれている。散々だ。俺は死にしか愛されない。藤が言いかけてやめた言葉は、もしかしたら、その類のものだったりして。そんなわけないか。いよいよ病んだ自分を自覚して、俺は内心で自分を嘲った。

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