佐伯佳乃 2
○佐伯佳乃 2
夕方六時を廻った頃、ようやく仕事にひと段落つけることができた。デスク周りの整理をして、まだデスクに向かっている先生たちに挨拶をして、やっとの思いで鞄を提げて職員室を後にする。業務に漏れはなかったかと指折り数えながら、学校の門をくぐる。その瞬間、一日の疲れがどっと押し寄せた。正式に教師になって半年、学校という特殊な環境下に身を置く激しさに、挫けそうになることが多々あった。教師を志していた当時のわたしが考える以上に、学校という場所は大変なところだと身に染みて思う。生徒たちとそれなりに上手くやれているような気はするけれど、本当はどうなのか。考えてしまいそうになり、わたしは頭を振った。今日の勤務は終わったのだから、もう楽になっていいのだ。実際わたしは、車をデパートの駐車場に停めた頃には、学校での出来事など忘れ去っていた。
植物コーナーに足を運び、なにをというわけでもないけれど、並べられた鉢を眺める。両手で抱えなければならないような大きな鉢から、掌に載るような小さな鉢まで様々なものがところ狭しを整列していた。中でも、掌サイズの鉢に植わった、小さなサボテンを置いてあるゾーンはわたしのお気に入りだった。可愛らしい猫のオブジェが取り付けられたプラスチック製の小さな鉢に、天辺にちょこんと白い花を咲かせたサボテンが視界に定まった。無意識に手を伸ばしたところで、誰かの手と重なった。謝罪しつつ手をどけたのは、わたしもその人も同時だった。目が合って、同時に「あ」と声を漏らした。わたしもその人も、お互いに知っている人物だった。
「藤君」
「佐伯先生」
デパートで、それも植物でコーナーで藤君とばったり会ってしまうとは考えもしていなかった。藤君も学校帰りにわたしと出会ったことに驚いているらしく、眼鏡の奥で目をぱちぱちと瞬かせていた。学校帰りと自分で単語を思い浮かべて、わたしは、ポケットの中の携帯電話で時刻を確認した。夕方六時三十二分。わたしが学校を出た頃合を考えると、妥当な時間帯だった。
放課後は午後三時四十分からのはずだ。下校から三時間近く経っているのに、藤君は制服に身を包んだままだった。女の子はひとりで長時間デパートをぶらつけそうだけど、男の子はどうなんだろう。わたしが勝手に妄想していると、藤君は思いついたように口を開いた。
「下校もせず、こんなところに俺がひとりでいるのが不思議なんでしょう」
思い切り図星だった。さすがは藤君、わたしが考えていることなんてすぐに見抜ける。いや、わたしの思考が単純すぎるだけか。
「俺だって自分が不思議なんです。自覚意識は相当あるけど、俺ってすごい優柔不断で」
「どういうこと?」
「夏也の誕生日まで、あと六日なんですよ」
反射的に頭の中で日付を追った。六日後と言えば十月二十三日、日曜日だ。壱井君は、その日に十五歳になる。若い。
「誕生日プレゼントを買いに来てるのね。藤君、優しいじゃない」
「俺、人に贈るもの選ぶのって苦手なんです。とりあえず品定めだけしようと思って来たけど、時間食ってばかりでなんにも決まらなくて。うろうろしてたら、先生に遭遇しました」
「この猫サボテンとかどう? 可愛いと思うけど」
猫サボテン、というのはたった今わたしが勝手に命名した。猫のオブジェ付きだから、猫サボテン。単純だけど悪くはない。藤君はしばらく無言で猫サボテンを見つめた。
「俺、そういう柄じゃないでしょう」
「壱井君、なにもらっても喜ぶんじゃないかな。それに、そういうのって大事なのは気持ちなんだし」
「気持ち、ね……」
わたしがまったく予想していなかったタイミングで、藤君は俯いた。右肩に提げた鞄の位置を、藤君は荒く調整する。なんとなく動作がいつもの藤君のようにスマートではなかった。なんだかんだ言っても、この子もやっぱり十五歳の子供なんだ。妙な安心感を誘うその事実に、わたしは思わず微笑んでしまいそうになる。どうせ本人には見えないから、とわたしが軽く頬を緩めていると、いきなり藤君の顔が上がった。わたしは慌てて笑顔を繕い直した。そんなわたしの行動などには微塵の興味も示すことなく、藤君は淡々と言ったのだった。
「先生、今、ちょっとだけいいですか」
コーヒーの缶を藤君の前に、ココアの缶をわたしの前に置く。椅子を引いてわたしが座ると、藤君も同じように座った。丁寧なことに、藤君はわたしにきちんと頭を下げた。缶コーヒーをひとつ渡しただけなのに、この子は本当にしっかりしていると思う。
中途半端な時間だけれど、さすがはデパートというべきか、店内の休憩所は意外にも多くの客で賑わっていた。自動販売機で手軽に飲み物が買える分、わざわざ喫茶店に入ってメニューを眺めるより、ライトな雑談に持ってこいなのかもしれない。
「すみません。奢ってもらうつもりじゃなかったんですけど」
「いいのよ、それくらい。それより話ってなに? 改まっちゃって」
わたしが早々に本題を押すと、藤君は微かに眉根を寄せた。一瞬だったけれど見逃すことはなく、わたしは、あれ、と首を傾げた。藤君はすぐにいつものポーカーフェイスに戻った。
「単刀直入に質問します」
「じゃ、わたしも単刀直入に答えるね」
「もし俺が、佐伯先生のことが女性として好きだって言ったらどうします?」
藤君は「単刀直入に質問する」と宣言して、わたしもそれに応じることに同意した。間違いなく同意はしたけれど、わたしはそれを遂行できなかった。だって藤君の発言は、わたしの予測の範囲内を完全に超越していた。彼がなにを言い出すのか、具体的に想像していたわけではない。それでもわたしは「え?」と聞き返すよりほかのことはできなかった。
「俺が先生に恋してて、それを告白されたらどうしますか」
藤君は律儀に繰り返してくれた。語尾は上がらなかったけれど、その分だけ藤君は真面目なのだと推測できる。
どうしますか、と言われても。急に答えを用意できるはずもなく、わたしは必死に言葉を探る。
「なんでそんなこと訊くの?」
「訊いてるのは俺です」
単語をかき集めたわたしの返事は、藤君の一言であっさり切り捨てられた。たじろいだわたしに、藤君は更に畳み掛けてくる。
「単刀直入に答えるんでしょう」
藤君の口調は静かだった。だから余計に重圧的だった。いい大人が情けないけれど、至って冷静な藤君が少し怖かった。荒々しい動作で、藤君が三橋君の首下を捻り上げている光景を思い出した。今の藤君は、あのとき以上に猛った感情を秘めているのではないだろうか。熱い缶コーヒーを開けもせず、藤君はじっと目を伏せている。その大人しさが、わたしには、以前を越える激情を物語っているように思えた。
セーターの袖口からはみ出した藤君の指が、そっと缶コーヒーを包み込んだ。そのまま缶コーヒーを持ち上げたかと思うと、藤君はいきなり缶の底をテーブルに叩きつけた。割りと大きな音がした。近場のテーブルを囲んでいたグループや通りがかった人が一斉にこちらを振り向いた。突然のことで、わたしは肩を震わせてしまった。
静まった空間は、すぐにざわめきを取り戻した。藤君だけは缶コーヒーを両手で持って、下を向いたままだった。わたしが硬直していると、藤君は顔を上げた。わたしは固唾を吞み込んだ。
眼鏡の位置を指で調整し、藤君は淡い微笑を口元に刻む。
「すみません。テーブルの下に低級霊が集まってました。さっきのでびっくりして逃げちゃったけど」
そんなことを言われても、わたしには信じられなかった。でもそれを直接口にする勇気はなく、結果としてわたしは口篭るしかなかった。
「先生、夏也からいろんな話を聞いてますよね」
急に話題がすり替わった。藤君がなにを考えているのかわからないけれど、その質問になら容易に答えることができる。わたしは軽く頷いた。お茶を出してもらうだけでも恐縮なのに、壱井君はいつもわたしに渋い和菓子を用意してくれる。
「夏也から聞いた話の中に、姉の話題ってありました?」
「お姉さん?」
「はい。できれば教えて欲しいんですけど」
壱井君が話してくれた内容を、そのまま藤君に流してしまっていいのだろうか。本人は特に秘密にしておきたい様子でもなかったし、誰にも言うなと念を押されたわけでもないものの、やはり少し抵抗がある。それに、聞いた内容はあまりよくない事柄がほとんどだった。とは言え、曖昧に言葉を濁して逃げるのは、藤君が相手では不可能だ。
わたしが逡巡しているのを、藤君は素早く察知したらしい。先回りするように藤君が口を開いた。
「夏也本人に訊けないから、佐伯先生に訊いてるんです。お願いします」
「でも家族のことだし、わたしが言うのはちょっと」
「お願いします。俺、どうしても知りたいんです」
真剣な藤君の眼差しに、わたしは断りきれなくなる。少なくとも藤君は、人様の家族のことを周囲にばら撒くような人間ではないことは明らかだった。一応口外しないことを条件にさせてもらった上で、藤君に壱井君から聞いた話を教えることにした。壱井君ごめんね、とわたしは心の中で謝罪した。
お饅頭を齧りながら壱井君が話してくれたことを、わたしはゆっくりと思い返す。お姉さんのことを口にした壱井君の表情は、手の届かない遠く彼方を見つめるように儚かった。
「壱井君のお姉さん、岬さんって人なんだけど、わたしと同じ年みたい。三年くらい前からほとんど家に帰ってこないんだって。着替えなんかを取りに、たまに帰ってくることはあるみたいだけど」
「三年前?」
怪訝そうに藤君は繰り返した。わたしが頷くと、彼は顎に手を当てて考え込んだ。「ということは、それ以降の昔、やっぱり俺は夏也から姉貴の話を聞いてる」
「なに?」
わたしが聞き返すと、藤君は首を横に振った。話を続けていいか確認した後、わたしは次の言葉を発した。
「で、その理由なんだけどね。岬さん、彼氏ができてから帰ってこなくなったみたいなの。その彼氏を、壱井君、一度だけ遠目に見たことがあるって言ってた。派手な茶髪で、指輪をいっぱいしてて、煙草吸ってたとか」
「じゃあ、夏也があんなに派手な見た目になって、煙草やるようになったのって」
壱井君から話を聞いたとき、わたしもそうだと思った。僻みではなく、わたしだって気が付いたということは、藤君が思いつかないはずがなかった。いや、気付かなければ単に鈍感、というだけの話か。今の藤君が間違いなく考えていることを、わたしは敢えて声に出した。
「自分が彼氏の真似をすれば、お姉さんが帰ってきてくれると思ったのよね。だってお姉さんはそういう格好の人が好きなんだもの」
半分身を乗り出していた藤君が、椅子の背凭れに寄りかかった。再度顎を指で辿り、藤君は小さく呟いた。
「そんなことで帰ってくるほど、単純じゃないだろ」
「子供だったのよね。壱井君もそれはわかってる。でも、壱井君があの格好をやめないのは、やめちゃったら本当に二度とお姉さんが戻ってきてくれなくなるような気がするからだって言ってた」
壱井君が大のお姉ちゃんっ子だということは、話を聞けばすぐにわかった。姉の彼氏の姿を真似て、大好きな姉がなんとか家に帰ってきてくれるようにと仕向ける弟。でも効果はひとつも現われない。わかっていても賭けてしまう、そんな繊細で切実な心が、壱井君の派手な容姿から滲み出ている。それを知ったとき、わたしが如何に平凡で、恵まれた人生を送っているかということに気付いた。
「ほかの話は?」
「たまにお姉さんが帰ってきても、すぐにまた出て行っちゃうって。それだけならまだしも、壱井君がなにを言っても無視されちゃって、ここ最近は、会話どころか目も合わせてくれないって言ってた。でも彼氏ができたから弟を無視、家にも帰らないってなんかおかしな話よね」
「わかりました。ありがとうございます」
そうですね、おかしな話ですよね、と同調されるものと思っていたわたしは、藤君の唐突なお礼文句に呆気に取られた。みっともない疑問系の声をあげてしまったわたしを放置し、藤君はマフラーを巻き直してせっせと帰る準備を進めている。最後に藤君は、結局未開封のままだった缶コーヒーを鞄に詰め込んだ。わたしは完全に置いてきぼりを食らっていた。
「あの、藤君」
「想像以上に参考になりました。貴重なお時間、感謝します」
「えーと、その」
「先生、車でしたっけ。電車なら駅まで送りますけど」
「ちょっと、藤君ってば」
ようやく振り向いてくれた藤君は、帰宅の準備をすっかり終えていた。壱井君のお姉さんについて、わたしがあれ以上に話せる内容はなかった。それはそうだけど、でも話を強引に切り上げられてしまったような、中途半端ですっきりしない心境だった。不完全燃焼を否めないまま、わたしも鞄を持って席を立った。
飽くまで涼しい顔の裏側で、藤君は一体どれだけのことを考えているのだろう。凡庸な脳しか持ち合わせていないわたしには、常にテストの成績で最優秀を収める藤君のことなど、わかるはずもなかった。
遅くなるからいいというのに、藤君は結局わたしを地下の駐車場まで送ってくれた。曰く、まだ陽が沈みきる前で室内とは言え、若い女性がひとりで歩いていたら危険、ということだった。しかも先生美人だから、と余計な一言まで添えてきた。藤君が女の子にもてないとしたら、いつかに七瀬君が言っていた通り、世の中では芸能人以外にもてる人はいないと思う。いや、その芸能人よりも、一般人の藤君のほうが、近場では人気者になれるかも。
最後に藤君と別れた直後、耳の奥で、先刻の彼の台詞が熱を持った。『俺が先生に恋してて、それを告白されたらどうしますか』。意味のない例え話だとは、さすがに思わなかった。思い当たってしまう節がある。要するに、入れ込みすぎ、ということだろうか。そうかと言って、彼を放っておくことはわたしにはできない。
それにしても、壱井君のお姉さんのことは気に掛かる。できればもう少し、叶うなら岬さん本人から話を聞いてみたいけれど。さすがにそこまで踏み込んだことは、新任教師で、しかも壱井君の担任ではないわたしにはできそうにもない。どうするのがベターなのか、策を練る必要がありそうだ。
車に乗り込んで、鍵を回した。聞き慣れたエンジンの音が薄暗い駐車場全体に反響した。




