壱井夏也 2
玄関を抜けた外の世界は、正直、ものすごく怖かった。十四歳の俺が髪を茶色に染めていて、派手なアクセサリーをたくさん身に付けていることで道行く人々の視線を集めてしまうことには慣れた。集めなくても、俺が通り過ぎた後に話の種にされていることは明白だった。そんなことより、なんの前触れもなくいきなり頭に入ってくる映像のほうが数千倍の恐怖を呼び起こす。それさえなければ、容姿はともかくとして、最低段階、俺が家に篭りがちになることはなかった。
一歩足を進めるごとに、気持ちの悪さが込み上げてくる。いろいろな家庭から漂ってくる、夕食の匂いもダメだ。どの命がどのタイミングでどうやって失われるのか、常に俺は意識している。意識していなければ、それこそ本当に、背中から冷水をかけられるような唐突さでそれと直面してしまうのだ。自分でわからない以上、できるだけ心に余裕を持っておくしかない。ずっとそんなことを考えていれば、気分が悪くなってくるのも当然だった。生き殺し。直接身体に傷がつくわけではないけれど、今の自分の状況を、俺はそんなふうに例えたことがある。
朝早くの一回と、夕暮れ時の一回。例の河原に足を運んで、モノに餌をやって、ちょっと戯れてから家に戻る。雨だろうと雪だろうと正月だろうと関係ない、モノとクロに出会ったときからの俺の日課だった。面倒だと思ったことはなかった。むしろモノとクロ、今はモノしかいないけれど、モノの存在は俺の支えになっている。モノはペットじゃなくて俺の友達だった。
まだ十月月中旬なのに、風も空気も異様に冷たかった。首に巻いたマフラーで手を温めながら、命の終わりを頭の片隅に置いて別のことを考えた。それって恋だ、と言った藤の声が耳の奥で響いた。藤が言うには、俺は佐伯先生に恋をしているらしい。そんな経験は皆無だった俺は、呆けて藤を見ているだけだった。藤に恋したことがあるのかと訊いたら、ないわバカ、と短く返された。そのときの藤は少し嬉しそうだった。
恋している、と思えばピンとこない。でも、好きなのかもしれない、と思えば不思議とフィットした感触があった。警戒しないありのままの顔で俺の話を聞いてくれた、佐伯先生の優しい表情が目に浮かぶ。俺は佐伯先生のことが好きなのかもしれない。だとしたら、一体いつからだろう。これが本当に恋だとして、叶う目星はあるのだろうか。先生と生徒。余程のことがない限り、ふたつの枠は絶対のような気がする。
辿り着いた河原には、見覚えのある黒髪が佇んでいた。隣には、よく目立つ金色の髪の男の子もいる。俺も知っている制服の後ろ姿だった。早足でそっちに向かう。俺に気付いた三橋は振り返り、両手で抱いたモノの前足を動かした。モノはまったくの無抵抗で、ガラス玉みたいに綺麗な瞳で俺を見ているだけだった。
「牛乳、あげといたよ」
感情のない声で三橋は言った。起伏の乏しい物言いなのは、こいつの元々の喋り方らしい。三橋に差し出されたモノを、俺は胸に寄せて抱き直した。モノは小さく鳴いた後、前足を俺に押し当てた。抱いてやれば、モノはいつもそうしてくれる。モノなりの愛情表現だと俺は勝手に思っている。
「疲れてるね」
三橋の言葉になんと答えるべきか、俺は少し考えた。三橋はもう俺の秘密を知っているのだから、頭を捻るだけ無駄だった。わかっているけれど、でもここには詩仁がいる。どう誤魔化そうかとシミュレートした結果、俺は、ただ曖昧に笑っただけだった。三橋はそれ以上なにも言わなかった。
突然、詩仁が俺と三橋の間を割った。わざとらしい笑顔で、詩仁はわざとらしくモノを指差した。不自然なその行動に、俺は首を傾げたくなった。
「この猫、夏也が飼ってんの? すごい大人しくて可愛い奴だな、何故か俺にはあんまり寄ってこないんだけど」
「野良だよ。餌は俺がやってるけど、家に連れて帰ってるわけじゃないし」
明らかに大袈裟な関心を、詩仁は妙にプッシュする。詩仁ってこんなキャラだったかな。
「家はペット禁制なの? 家族に内緒で餌あげてる感じ?」
「父さんは知ってる。家に連れて帰ればいいのにって言ってるけど、姉ちゃんが猫アレルギーで」
「夏也って姉ちゃんいるんだ、知らなかった。あれ、でも、猫アレルギーの家族がいるのわかってて、父さんが猫飼ってもいいって言うのって」
「七瀬、痛々しい」
ぴしゃりと三橋が言い放った。詩仁の言葉が止まり、どう考えてもオーバーだった動きが止まった。詩仁と俺の視線がぶつかった。今この瞬間まで、詩仁は俺の目を見ていなかった。詩仁の瞳が俺を弾き出してひ弱に揺れた。口を噤んで下を向く詩仁に、なんとなく俺も気分が重たくなってきた。視線を落とした先にはモノがいて、モノを抱いていたことを忘れていた俺は、不意打ちで少し癒された。モノを抱いた手の感触の。柔らかい毛並みが心地良かった。
「ごめん。僕、言っちゃった」
淡々と述べられた三橋の台詞に、驚くことはなかった。詩仁の不自然すぎる態度からも察知できたし、そうではなくても、薄々予想していたことだった。三橋は俺の友達ではなかった。だから、三橋が俺の秘密を口外するかもしれない、とは最初から考えていた。それを踏まえた上で、暴露する相手に三橋を選んでいた。実際に三橋の口からそれを聞いても、これといった不満は出てこなかった。
「悪いことした?」
「平気」
膝を折って、俺はモノを地上に下ろす。地に足をつけたモノは、俺の足元を歩き回った。ポケットからいつもの餌を取り出して置いてやると、モノはここぞとばかりに飛びついた。実際、ここぞというときなのだろう。小さな見た目に似合わず、大した食いっぷりのモノの逞しさときたら反則級だった。
「むしろ、ちょっと気が楽になったような」
「本当?」
「俺、嘘は吐かない」
気が楽になったと思うのは、本当のことだった。確かに自分の意思で隠そうとはしていたけれど、反対に、自分の秘密を隠すことなく打ち明けたい気持ちも存在していた。プラス、隠しごとをして信頼関係を保っているような気がしていて、それを払拭したい願望があった。だからこそ、俺は三橋に秘密を明かしたのだ。つまるところ、俺が特に仲良しでもない三橋を選択した理由は、仲の良い友達にそうできない臆病な心から発生した、自己満足の気休め以外の何者でもなかった。
「その、死ってさ。今も視えてる?」
「今は詩仁の死に様が視えてる」
「え!?」
「冗談だよ」
俺が笑っても詩仁は笑わなかった。本当に軽い冗談のつもりだったのに、詩仁は俯きがちに視線を落として神妙な顔をしている。俺自身が軽いノリで飛ばした言葉も、詩仁にとっては軽いノリでは済まされないようだ。
まあ、それもそうだった。人が死ぬのも動物が死ぬのも植物が死ぬのも、軽いことなんかではない。命の終わりを透視する能力があって、それがまったくのランダムのタイミングで発動するわけだから、人によっては「死」に慣れることもあるかもしれないけれど。俺はそんなふうに適応できない。ドライに接することができない。そういう俺の性格をわかっているから、詩仁は、きっと俯いてしまうのだと思う。
モノが餌にがっついている横に、俺は黙って腰を下ろした。詩仁がその隣に座り、三橋も座った。オレンジ色の夕陽が、視界に焼きついた。明日も憎いくらいに晴れるようだ。
「マフラー、あったかそうだな」
話題を探してのことなのか、詩仁は俺のマフラーを見て言った。うん、と答えた俺に、詩仁は静かに言葉を重ねる。
「今年、本当に寒いよな。十月に入るまでは、特に低い気温だったことなんてなかったと思うけど」
「まあ、十月半ばでマフラーなんて、普通はちょっと早すぎだよな」
「でもさ、その分ファッションの幅は広がるだろ。夏也、昔からお洒落には敏感じゃん」
特別にお洒落して街を歩く、なんて行為をしていないのは、いつ以来だったっけ。家に篭り始めたこと自体はそんなに前でもないから、遠い昔と形容するのは行き過ぎのはずだ。お洒落することは、小さい子供の頃から大好きだった。でも、自分を自由に飾って表を闊歩するなんて、もう思い出せないくらいに霞んだ過去の出来事だったような気がしてならなかった。それだけ俺は、自分の能力に追い詰められているということだ。生き殺し。そんな比喩表現が再び脳裏をよぎって消えた。
「まさか夏也に、本当に死が認識する能力があるなんて」
さっきまでとは打って変わった、低いトーンで詩仁はぼやいた。
「夏也が三橋に打ち明ける前に、俺、藤に話したことがある。夏也は人が死ぬの理解できるんじゃないかって。他意はなかった。藤に霊感っていうのがあるなら、そういう変わった能力を持った人もいるかもしれないって思いついただけの軽い冗談のつもりだった」
「どうしてそんなこと」
「冗談だったんだよ、本当に。軽率だった」
語気を沈める詩仁に、お前が気にすることじゃないだろ、と声をかけた。適当に慰めたのではなく、本当に俺は、詩仁が気に病む必要はないと思っていた。
「俺、なんて言ったらいいのかわからないけど」
詩仁は俺を見ることなく、言いにくそうに口をもごつかせた。「毎日辛い、よな」
吐き出された言葉に、俺は、頷くこともできなかった。よな、と確認型で振ってきたのが、殊更俺の心内に突き刺さった。誰かに気持ちをわかって欲しくて自分の事実を口にするのに、お望み通りに同調されれば、お前なんかに俺の気持ちがわかってたまるかと毒づきたくなってしまう。普段、死なんていうものとは縁のない世界を持っているお前が、死そのものに纏わりつかれている俺のことを理解できるはずがない。理解して欲しくもない。矛盾した感情が、ぐるぐると足の裏から渦巻いて競りあがってくる。
「夏也、おい、夏也」
詩仁の声で、ネガティブな心境の波から解き放たれた。幼稚で我儘な己を自覚すると、悪循環だとわかってはいるけれど、その我儘が自分で不快になってくる。腹の底に鼻をつく汚い塊でも沈殿しているようで、苛ついた感情が芽吹く。厄介なことに、これがまた養分を吸って成長するのが尋常ではなく早かった。
父さんも岬姉ちゃんもモノも藤も詩仁の三橋も、佐伯先生も、俺のことなどわかってくれるはずがない。最上級のどん底を這う諦念が、頭の奥で沸き上がった。一瞬のことだった。自分でもわかっている、俺の悪い癖だった。考えに考え抜いて、思考がマイナスの最高潮に達したとき、ふと全身に滾る悪い波。そう、俺はそれを悪い波と呼んでいる。悪い波は俺の敵た。心の中で、即座に俺は悪い波を否定する言葉をかき集めた。それらを悪い波にぶつけようとした瞬間、その映像が眼球の裏に浮かび上がった。
「夏也、大丈夫かよ。さっき、なんかすごい醒めた目してた」
肩に置かれた詩仁の手をはたいた。呆けた詩仁を尻目に、いつの間にか餌を食べ終えていたモノの前に両手をついて、俺はじっとその目を覗き込んだ。ガラス玉みたいに澄んだ瞳で、モノは一心に俺を見つめ返してくる。この綺麗なふたつの瞳が抉り出された様を、俺は見た。
抉り出される。出される? 出る、じゃなくて? 身の毛がよだつ感覚だった。モノの瞳は故意に抉られた。じゃあ、誰に。誰かがモノを殺す。その誰かが、肝心な誰かが、男なのか女なのか老いているのか若いのか、大人なのか子供なのか、まったくわからなかった。なにひとつ、手掛かりさえも掴めなかった。抉った様子も視えていなかった。モノの瞳が抉られていた映像だけで、どうやってそんな酷いことをしたのかという方法も読み取れなかった。
当のモノは、きょとんとして俺を見つめ続けている。俺の口から、言葉なんて出てくるはずがなかった。モノはつぶらな瞳のままで、微かに鳴いて俺を見上げていた。地についた俺の指を、モノはちょっとだけ舐めた。再び顔を上げたモノの顔から、ぼとり、ぼとりと瞳が落ちた。反射で手をどけた俺を、やっぱりモノは、動くことなく見つめていた。瞳はふたつ、ちゃんと顔の穴に入っていた。
心拍数が半端ではなかった。激しく波打つ左胸を両手で押さえ、俺は、懸命に状況を整理した。モノの瞳が落ちたのは、間違いなく錯覚だった。現実なら、三橋はともかく詩仁は相当騒いでいただろう。それもないし、モノの顔はいつも通りだ。気味が悪いけれど、ただの見間違いだ。それ以上気にすることではない。
問題は、その前に視えた映像だった。俺の能力は、外れたことは一度もない。だから確実にモノは死ぬ。殺される。なんとかしなくちゃ。モノが死ぬのをわかっているのは俺だけなんだから、俺がモノを守らなくちゃならない。濁りひとつない双眸のモノの頭を、俺は静かに撫でた。




