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第五章 花と喋れぬ神 (3)

 歩を進めるたびに、壁際に打ち寄せられた水がひたひたと音を立てていた。耳の内には、そのざわめきばかりが残っており、地上に戻るまでの間に、自分がいったい何を考えていたのか、エプィヌは全く覚えていなかった。

 舞踏会の楽の音は、駆け出した時のまま、変わらず軽快に流れていて、まるで、自分たちだけが、別の時間軸の世界から戻って来たかのようだった。

 朝日が雲の峰(スフ・マリス)の向こうから顔を出すにはまだ少し間がある薄暗闇の中を、エプィヌとラーギニールは、迷い犬風情の姿で戻っていった。

 踏み荒らされた砂利道のようにざらざらとした胸の奥に、ラズワルドや王子の言ったあれこれが鈍重にわだかまっていた。

(誰が、どうして、何のために……)

 昨夜の熱気は遠ざかり、露わになっている肩のあたりが薄ら寒い。ローブが欲しかったが、今ここに、一人で閉じこもるための暗幕がないのは、かえって良いことかもしれなかった。

 博士は様々なことを教えてくれたが、鍵文字の秘密は伏せていた。そして、歴史というものの一様ではない姿を、ありのまま伝えることはしなかった。なぜ、と問わずとも、今のエプィヌにはおおよそを察することもできるし、その取捨選択は、博士なりの判断だったのだろう。裏切られたとは考えない、資質を試されていたのだと信じようと思った。

(ラズワルドが言っていたように、わたしが自ら望んで、それだけの力を持ち、見出せたとしたら。その時は運命(さだめ)なのだと……)

 歴史家は文字に刻まれた記録を頼りに過去を知るしかない。今までの自分が、盲信的過ぎたのだ。それが人の手によって都合良く書き記されたものでない証など、どこにもない。それは誰から教えられるものでもなく、自ら辿り着くべき世の真の姿なのだ。

(でも、そうであるならば、わたしたちの追う真実って何?)

 歴史学とは、過去の物事を知ること自体が全てではない。今日まで王国の通ってきた道筋の習熟を通して、現代に潜む様々な問題を見抜く目、解明する力を培うことが本当の目的といえる。我々学徒に要求されるのは、歴史を知恵として還元できるようになること……とは、エーフロシュネの言葉だ。それは、その通りだと思う。けれど、何が真実で、それを捻じ曲げるどんな力が働いたのかを知らなければ、本当の意味で正しい判断ができないはずだ。

(もしかしたら)

 エプィヌは眠気でもやもやした頭を勢い良く振り払って、遥か上空を見上げた。

 やはり、あれは天体図だろう。

 背後から曙がやって来た。赤茶の染料は、桃色に似た同系色の光を受けて、静かにほの白く浮かび上がったのだ。

 それが分かった瞬間、舞踏会の終わりを告げるように、巻き上がっていた天井が降り始めた。

 星が語り部だったならと、つい、とりとめもなく思った。喋らぬ神は、雄弁に語る歴史書よりもよほど、真実を知っているのかもしれない。

「エプィヌ……!」

 人影もまばらな宴会場に視線を移すと、少女の纏う鮮やかな真紅は、何よりも真っ先に目に飛び込んできた。疲れ切った表情をしている。しかし、背筋はぴんと伸び、誰よりも堂々とした佇まいだった。そんな少女は、こちらを見とめると、ブリオーの裾をふわふわ翻しながら、こちらへ一目散に駆けて来た。

「心配していたのよ、ラギもいなくなっちゃうし……」

 リィリィアーナは感情の堰を切ったようにまくし立てたが、二人の身なりをよくよく認識するや、両手で口元を覆い、絶句した。

「まさか……」

「違う! 違います、リィリィアーナさま!」

 エプィヌは、何かとんでもない勘違いを口走ろうとしている少女を、必死になって遮った。この場には、メルセンもレィダヤも居合わせているのだ。これ以上、おかしなことにはしたくなかった。

「ご心配おかけして、申し訳ございません。……でも、大丈夫ですから」

「大丈夫って?」

 両の眉を下げて瞳を潤ませながら、リィリィアーナは疑わしそうに言った。

「嫌なことはされなかった? あ、いや、何も口出しすることはないのかもしれないけれど」

(ああ……)

 エプィヌは溜息を飲み下し、諦めの念で首を振った。

「はい、何も。それどころか、帰り道が分からなくなったのを助けていただいて。その道中、お城の構造を色々見て回るのに付き合わされたので、こんな時間になってしまっただけで」

「そんなことだろうとは思っていたさ」

 遅れて駆け付けたメルセンが上手く調子を合わせてくれたおかげで、ほんの少し空気が和らいだ気がした。宿直に慣れているはずの彼だが、心労のせいなのか、目の下にくまを作っており、一晩でかなりげっそりしたように見えた。早々に帰宅したい、どうせ後で申し開きをせねばならないだろう。その時でいいじゃないかと目線で訴えている。

 しかし、肝心のラーギニールは、何かしら言い訳を手伝ってくれるかと思いきや、どこ吹く風で突っ立っているばかりだった。これでは膠着状態だ。

 リィリィアーナは、メルセンの方には目もくれず、なおも信用しきれないといった表情で従兄弟を見つめながら、小鳥のように首を傾げた。

「ーー本当、よね? エプィヌがそう言うなら、信じるしかないのだけれど」

 睨み合いが続いた後、ようやく、自分が何か言わないうちは収拾がつかないと気付いたのだろう。ラーギニールは無表情のままに頷いた。

「うん、エプィヌさんの話す通りに違いないよ」

 嘘だけは言わない少年だ。そんな頼りない言葉でも、言質を取ったというだけで、リィリィアーナには意味があったようだった。

 彼女はちらりと苛つきに似た表情を浮かべたものの、すぐに自らの肩に掛けていた薄紅のベールを差し出した。

「あの……リィリィアーナさま、お気持ちだけで」

 エプィヌは、少し躊躇した後に、一度は飲み込みかけた言葉を押し出した。

「これを汚すわけには。皆の余計な勘違いを招きます」

 やましいことはないのだからと、エプィヌは目線で伝えたつもりだが、少女はなかなか引き下がらない。そんな様子を見かねてか、これまで黙って見ていたレィダヤが、いつもの朗らかな調子で進み出た。

 彼がその手を肩に置くと、リィリィアーナはようやく、差し出した手を引っ込めた。

「さあ、皆さんが揃ったことですし、馬車を呼びましょうか」

 吐く息から葡萄酒の匂いがぷんぷん漂っている。酔っているのかいないのか分からないが、平々凡々とした普段通りのレィダヤがこんなに頼もしいとは。情けないことに、それが、今の混沌とした脳内で判別できる唯一の真実だった。

 


 ポーチに降り立った四人……中でもラーギニールとエプィヌの姿を見て、普段は感情を表に出すことのない下僕たちでさえ、思わず目を見張らずにはいられなかったようだ。彼らは、見てはならぬものを見たというように、礼をするふりをしてさっと顔を伏せた。

 馬車の扉が開かれると、エプィヌは一呼吸置いて心の準備をしてから、用意された踏み台に足を降ろした。擦り切れたブリオーの裾が、嫌でも目に付く。帰れば、会う人会う人に、何があったのか怪しまれることは分かりきっていたが、やはり、実際にその時を迎えてしまうと憂鬱で恥ずかしくて、泡になって消えてしまいたい気分だった。

 庭の花々はそんな人の心も知らず、今日もきらきらと輝いていた。それぞれ、葉先や花弁に硝子玉のような水滴を着けている。まだ朝餉には早いが、ユディトはすでに起きて、日課の水遣りを終えたのだろう。

 しかし、幸いと言うべきか、辺りを見渡した限り、彼女の姿はなかった。代わりに玄関先に立っているのは、背を丸めた老人である。ーーこの人が青い瞳の王の末裔なのだと考えると、納得するような信じられないような、変な感じがした。

「あれまあ、なんと」

 ノルドは次の瞬間、小さく声を上げた。

「ほっほっ……おお、どこかで転ばれたましたかのう」

 この心配性の老人に見逃してもらえるとは、さすがに思っていなかったが、用意した言い訳を口にしようと吸い込んだ息は、そのまま声にならずに、胸の奥に落ちて行った。ノルドは、それ以上騒ぎ立てることはせず、追及もしてこないのだ。エプィヌたちの衣装を見て目を細め、なんともいえない妙な顔付きをしながら、ただ、しきりに口髭を触るばかりだった。

「皆さま、さぞお疲れでしょう。朝餉よりも睡眠、と顔に書いておいでです」

 言い終える頃には、老人は何やらしたり顔になっていた。

「主は庭の薔薇の面倒を見ておりますからの。わたくしめが、後でご報告にあがると言っておきましょう。身体を綺麗にして、ゆっくりお休みください。湯と小腹に収めるものを何か持たせましょう」

 とぼけたような老人の声は、小鳥のさえずりの合間を縫って辺りに響いた。彼が状況をどのように解釈したのかは分からないが、気を利かせてくれたのは確かのようだ。エプィヌにとって、思いがけずありがたい提案だった。

 ルチーフェロが起こした一件は、さすがに隠し通せるものではないだろうが、王宮書庫ドムン・パディリィフィに出入りしていることをユディトに気取られるのだけは回避できそうだ。

 本音では勢いよく返事をしたいところだが、そこはあくまで遠慮すべき立場があるので、エプィヌは、喉まで出かかった声をぐっと堪えた。

「ねえ、そうしましょう」

 代わりに言ったのはリィリィアーナだった。

「メルセンだって、早く寝たいってずっとぐずぐず言っていたじゃない」

「そうだな」

 彼は迷いなく答えた。長いこと欠伸を噛み殺したせいで、目の端には涙が光っている。

「こんな回らない頭では、お方さまや父母に色々と聞かれるのに太刀打ちできる気がしないからな……」

 二人のやりとりを見て、エプィヌはこっそり胸を撫で下ろした。

「早くお湯を使いたいわ。ねえ」

 リィリィアーナはエプィヌの腕にそっと触れた。花が綻ぶかのような笑みを浮かべ、何やら口を開けたり閉めたりしている。

『あ ん し ん し て ね』

 それから彼女は、ぱっちりと片目を閉じて見せた。

 ノルドの後ろではいつの間にか、乳母のレイロが心配そうに瞳をうるうるさせている。悲惨な格好をしている者が混じっているのだ。大切なお坊ちゃん、お嬢さまの身に何かあったのではないかと、不安で不安で仕方がないのだろう。

「……お嬢さまぁ」

 乳母は居ても立っても居られなくなったのか、ついに蚊の鳴くような声で言った。

「ええ、行くわ」

 もう、あたくしはもう子どもではないのよレイロ、と少女は笑う。その桃色の指先が腕から離れると、刹那、ぼんやり周囲を覆っていた霧が晴れたように、物音が戻って来た。

 メルセンは伸びをし、手をひらひらさせながら踵を返す。あれこれうるさくされるのを避けているのだろう。レイロは何か言いたげだったが、取り付く島もなく、その後を慌てて追って行った。

 ノルドは、残った二人のなりを頭から爪先まで改めて眺めた後、ふいに問いかけた。

「さあ、稽古の甲斐はありましたかな?」

 どちらに投げかけられた質問なのか、エプィヌは一瞬考え込んだ。

「ーーほとんど、ラーギニールさまに助けていただいたようなものですが」

 ためらいながら答えると、そうですか、とだけ言って、老人はかすかに頷いた。

()さまも初めての舞踏会ですからの、実を言うと、主はあれで、たいそう心配なさっていたのですぞ」

 母の話題が出るやいなや、ラーギニールは半眼になって顎を引き、あからさまな不快感を示した。

「よく言うよ……」

 彼は何かを言いかけたが、口を閉じてしまった。それから、宙ぶらりんになった微妙な間を持て余すように俯き、再び顔を上げると、エプィヌとノルドを順に見遣った。

「ぼくも、早く寝たいから」

 そうして一人で部屋に戻って行くのは、なんともおかしな光景だった。

 王子と王女の乳母だったユディトは、他人の子育てをしておいて自らの子を人に預けるのは何か違うと、エステルとラーギニールをほとんど自分の手で世話したのだ。バラクなどはかなり反発したに違いない。もしかしたら、義姉のやり方を認める兄を軽蔑したり、将来的に当主となるラーギニールのことを疎んじることもあったのかもしれないと思う。そのような逆風をものともしないユディトは、やはり只者ではないのだ。レイロも、そんな女主人に、やはり腰が引けているのだろう。ラーギニールには、メルセンらにするような甲斐甲斐しい仕え方はしない。ーーこういうところに、ラウル家の(ひず)みがあると思うのだが、ユディトが気付いていないなどということはあるのだろうか。

「ーーノルドさん」

 エプィヌはそんなラーギニールの背中を見送りながら囁いた。

「ラーギニールさまは、やはり当主となられるお方です。よく家のことを考えておいでなのです」

()さまを、やれぼんくらだと評する声は、少なくはない、と。それは、確かですなぁ」

 ノルドがあまりに自然に言うので、エプィヌは危うく、とんでもない発言を聞き逃すところだった。

「えっ……」

 冗談ですよと笑うかと思いきや、老人はかなり真面目だった。

「残念ながら」

 そうして、静かに首を振る。

「ですが、それで良いと、主は思うとります。出る杭は打たれるものですからの」



 衝立の陰からは湯気が上がっている。湿気が部屋にこもらぬよう、届けられた湯入りの桶は、庭に面した露台に置いてもらった。つるつるとした磁器製で、さぞかし入り心地が良かろう。

 朝餉の代わりとなるのは乳粥(ニウモキール)だった。脱穀した麦を山羊や羊の乳で煮付け、砂糖や桂皮(ニッケ)で味付けをしたものだ。これは王都で初めて口にした食べ物だが、胃に優しくなかなかに美味しい。疲れた身体にはありがたい差し入れだった。

 さっそく口に含みたいところだが、一旦匙を手にして、やはり後にしようと考えた。乳粥(ニウモキール)は冷めたくらいでも味わいが変わって良いのだが、身体を洗う湯は、ぬるくならないうちに使わねばならない。

 衣装を脱ぎ捨てると、肩の辺りがすっかり軽くなった。力が入っていたとは思っていなかったが、今になってみると、一晩、ずっと鉛を背負っていたのと同じくらいには重圧を感じていて、気を張っていたのだ。

 ふと、同じ盆の上に置かれた、赤い色硝子の水差しが目に付いた。そういえば、喉が渇いているかどうかさえ頭になかった。色々なことがあり過ぎて、生命を維持する根本の行為をすっかり忘れていたのだ。

(水、水……)

 しかし、何か記憶の片隅に引っかかるものを感じて、エプィヌははたと動きを止めた。

『悪趣味だな』

 ルチーフェロの言葉を思い出した。

『こんな色のせいか、ただの水が果実水のように感じるな』

 まあ、毒ではないはずだが、飲まないのも選択肢だと。

 エプィヌは水差しを手に取り、鼻を近付けた。

(やっぱり……)

 ウルシ科の果実に似た芳醇な香りが、言われなければ分からぬほど、ごくごく微量に鼻の奥に残る。果実水かと思えばそれまでだ。

 エプィヌは顔を(しか)めた。

(もしかして)

 ルチーフェロの胸の固さや、身体の重さを思い出しつつ、エプィヌは息を殺した。

 いざ考えると、生々しくおぞましい寒気が襲ってきた。

 エプィヌは水差しを卓に戻し、溜息を吐いて、壁一面を埋め尽くす書架を見上げた。こちらに選ぶ権利がないのならば、どうなっても困らないよう、家として手を打つということなのだ。

「エプィヌさん、起きてるの」

 思わぬところから声がして、エプィヌは文字通り飛び上がった。

「ーーラーギニールさま?」

 庭先……それも、上から声が降ってくる。エプィヌは急いでガウンを羽織り、露台に出た。身体を捻って天を仰ぎ見る。ーー木の上だ。枝に跨ったラーギニールは、ミミズクのようにじっとこちらを窺っていた。まだ、舞踏会の白い衣装を纏ったままだ。

「ちょ、ちょっと!」

 エプィヌは声を荒らげた。

「わたしが湯を使っていたらどうするつもりだったんです?」

 少年は押し黙って変な顔付きになった。そんな可能性は微塵も頭になかったのだろう。

「ーーもういいです。何の用なの」

 エプィヌは露台の手摺の上で両手を組んだ。

「やっぱり、一つ聞いておきたくて」

 意外な身のこなしで木を降りて来ると、ラーギニールは、庭先からこちらを見上げた。

「殿下に何を言われたの? 教えてよ」

 帰宅までの間、ついに尋ねてこなかったことを、彼は口にした。

「……ごめんなさい」

 エプィヌはしばし黙考した後、そう言って首を振った。

「ラーギニールさまには、きちんとお話しなければと思っています。でも、もう少し考える時が欲しいのです」

 木立がさやさやと鳴り、雲の影が動いて、少年の姿を暗がりに沈めた。どの道を選んでも分断からは逃れられない。ラーギニールを道連れにすれば、ユディトはどう出るだろう。

(否、これは)

 エプィヌはぎりりと歯を食いしばった。

 他者への心配は、断ることもできず、踏ん切ることもできない自分の問題についての言い訳にすぎない。しかし、そんな不甲斐なさにも増して腹立たしいのは、恩人であるはずのユディトだった。

 全てが偶然だとは、どうしても思えないのだ。青い瞳の王の話を聞いてから、疑念ばかりが先行してしまう。ーー何も語らず、知らせないまま、人に選択せざるを得ない状況を与える。実際にそうではないか。そんな彼女によって繋がれたのは、実はラウル家との縁ではなく、この運命との邂逅だったのだとすれば、もう未来のことは何も考えたくないほど恐ろしい。

『恋には政を動かす恐ろしい力がある』

 ユディトの低く艶っぽい声が思い出された。思えば、彼女のこの言葉が、エプィヌの中の曖昧だったものを確定的にさせてしまったのだった。政という意識を持たざるを得なくなった。

(でも、わたしにとって恋は……)

 自分がどうしようもなく焦がれるものは、あの塔の上にある。そして、生涯をかけても追いつくことのできない博士の背中だ。

 ーー王子の革命に付き従えば、どう運ぼうと……例えそれが成功したとしても、自分は、ローブを目深に被って日陰の道を歩くようになるだろう。歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤになれたとして、新しい世で表舞台に迎えられる時が訪れたとして、それでも、この場に立つのに自分はふさわしくないと思うだろう。なぜなら、博士のような天才ではないからだ。

 目の前では、ラーギニールがひたすら待っていた。この長考の後、次の一言で回答を得られると信じているようだ。

 エプィヌが首を左右に振って今ではないと伝えると、彼はついに痺れを切らした。

「ぼくはさっさと終わらせてほしい。エプィヌさんは研究に全て懸ける人だ」

 有無を言わさない直向きな瞳で見つめられたので、迂闊にそうだと答えそうになった。

(ーーそれが正しい、学者とはそういうもの)

 博士なら、そしてこの少年なら、きっと迷わないに違いない。

「ぼくは学舎を出たら当主を継ぐ。殿下に媚びたりしないし、他の家と徒党を組んだり争ったりするつもりもない」

 エプィヌの胸中を察する神経など持たない彼は、けろりと言い放つ。

「そうしたら、学問は……?」

「もちろん続ける」

 ラーギニールの顔には、おかしな質問をするなよと書いてある。

「ぼくはできるだけ穏やかに静かにやり過ごして、それで、さっさと次に渡すつもりだよ」

「早く隠居して思う存分好きなことをするってこと?」

 こくりと頷く少年を見て、エプィヌは、一気に色々なことが馬鹿らしくなった。

 母親の秘密を知って、その上何事かに巻き込まれようとしていて、それなのに、やり過ごすことで平穏に終わらせられると、本気で信じていそうなのが、彼らしいといえばそうだった。

(それに、さっさと次に渡すって言っても、それだと、舞踏会を嫌がらずに早く嫁取りをしなければならないのに)

 そこまで考えが回っていないのなら、ラーギニールはまだまだ十五とはいえ子供なのだ。

「だから、ぼくの代で波風を立てるようなことは、ぜひやめてもらいたいんだけど」

 畳み掛けるように告げる少年を前に、エプィヌは、自分が一枚上手な気がして、つい笑い出しそうになった。それでも、決断するに必要なのは楽観的な心持ちではなく、もっと別の、意味のある何かだった。



 女主人の反応は、驚くほどあっさりしたものだった。

「……そう」

 彼女が発したのはそれだけだ。

 全ての窓を開放し、目一杯に風通しを良くした書斎は、昨日までとは打って変わって、突然にからりとしていた。

 書架の隅々まで光が浸透した明るい室内、その中央の卓の前に座したユディトは、何か考え込むように、微動だにしない空っぽの天秤を見つめている。

 子供らが寝ている間、結局、昼餉を跨いでずっと庭仕事をしていたらしい。卓の上にも足元にも、花でいっぱいの籠や水差しが所狭しと並べられており、そこだけ雑然としている。背後の大窓のせいもあって、ユディトは完全に、色鮮やかな絵画の中の人になっていた。

 そんな女主人を相手に、メルセンは、嘘ではないぎりぎりのところで、上手く時系列を説明してくれた。年長者として代表に仕立てられただけであり、特別口が立つわけでもないので完全にしどろもどろだったが、上出来の復命と言えよう。

 あまりに静かな時が流れ過ぎて、エプィヌはどこを眺めて良いか分からず、ユディトの視線を追って銀の天秤を見つめた。彼女が一体何を考えているのかを推し量ろうにも、その表情からは何も手がかりが得られない。

 天秤の傍、緋色の織物の上には、大きさの違う銀の鋏が四つ。それはあたかも、書斎の中央に居並び、彼女の反応を伺って沈黙する自分たちのようだと、エプィヌは思った。

 しばらくの後、彼女はすっと手を伸ばし、草木の汁の付いた剪定鋏を取り上げては拭い、窓から直に差す低い木漏れ日にかちりと照らしてから、卓の上に並べ始めた。ベールの下に覗く額には汗が滲んでいるが、それよりも道具の手入れを優先するのは、非常に彼女らしかった。  

 そんな作業を淡々と続けながら、ユディトはようやく口を開いた。

「ソベク家はレィダヤとの縁談、考えておきましょう」

「本当?」

 普通なら、沈黙に臆するあまり反応が鈍りそうだが、リィリィアーナは違った。

 彼女が身を乗り出すと、巻毛がふわふわと勢いよく弾んだ。さっきまでの緊迫をすっかり忘れたように、両手を胸の前で組み合わせ、うきうきと踵を上げ下げしている。

 そんな義姪を、ユディトは溜息混じりに見遣った。

「ええ。ただ、家同士の色々からは免れないのよ。その点は覚悟しておきなさい」

 そうぴしゃりと言う様は雄々しくさえあるが、肩から溢れ落ちた髪を払う仕草などは、どれをとってもいちいち優雅で、そこだけ時の流れが異質に感じられる。

 しかしながら、最初に触れられるのがリィリィアーナの縁談のことだとは思いもしなかったので、エプィヌは気構えを持て余し、瞳だけをきょろきょろと動かした。メルセンの表情が複雑そうに曇るのが分かる。彼を不憫に思ったせいで、つい、自分の置かれた立場を忘れそうになった。

 ユディトのまなざしは再び手元に注がれる。摘んできた薔薇を一つ一つ手に取って出来を見比べながら、彼女はゆっくりと口を開いた。

「にしても……まったく、あの子はやってくれるわね。向こう見ずは折り込み済みだけれど」

 頭の中できーんという嫌な音が鳴り響き、背筋が独りでに伸びた。

 これが彼女の独り言なのか、そうでないのかは定かではないが、自分が何か答えるのだけは違うということは確かだった。

「いや、本当にその通りで、あ……いや、そういうわけでは」

 メルセンは返答すべきだと捉えたらしく、辿々しく言った。

 これ以上彼だけに任せるのは気の毒だが、かといって、他の誰も代わってやるつもりなどないようだった。リィリィアーナはもう縁談のことしか頭にないように浮ついた表情だったし、ラーギニールは、いったい何を考えているか分からない。

 ふっと息を吐き、ユディトは身体をずらすと、背後の窓の方に視線を巡らせた。

 日差しが、そこにあるはずの木々の姿を白く飛ばしている。彼女の凛とした横顔は、そんな何も映らない硝子の向こうをじっと見つめ続けた。

「ラーギニール」

 唐突に呼んだ息子の名は、張り詰めた空気に弾かれ、ぴりりと反響した。今やメルセンもリィリィアーナでさえも、雲行きの怪しさを察知し、存在を消すように肩をすくめている。

 ユディトは卓の上に置いた左手の人差し指で、とんとんと拍を刻んだ。

「あなたは家の面子をかけて動いたつもりでしょうけど、本当にそれが賢明な判断と言えるかどうか。ーー招く未来を、きちんと考えてのことだったのかしら」

 隣で少年が顔を上げた。

 母の口から発された言葉に対し、ラーギニールはすぐに言い返すことはしなかったものの、半眼になり、納得のいかない様子を示している。

 振り返ったユディトとラーギニールの視線が一本の線で繋がった。鍔迫り合いではなく、互いに手元で受け流すような間合いの取り方だった。

 ラーギニールは鼻の奥で微かに唸った。

「ーー母上は、ぼくのことも向こう見ずだと」

 そんな息子の切り返しに対して、ユディトはとても冷ややかだった。

 瞬き一つなく、呼吸しているのかすら分からない、そこだけ氷に閉ざしてしまうような厳かさを纏って、彼女は座している。

「己の信条に背く行動を取った、その無自覚を、今、しっかりと認めることね」

 風が天秤をかたかたと揺らす。銀が鈍く反射し、その場を支配する魔女の声は、恐ろしいほどによく通った。

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