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第五章 花と喋れぬ神 (2)

 三人は足を止め、黒鉄の扉を覆う馬蹄形の梁を見上げた。いつの間にか水の気配からは遠ざかり、周囲は、粘土や泥を固めて焼いた材に変わっている。そういう壁は、土と同様に、湿気を吸ったり吐いたりして、大切な書籍を守ってくれるのだ。水道の通った地下とは思えぬほどからりとした空気には、薫衣草(ラヴィオラ)海雫香(マンネロゥ)の芳香に混じって、他にも生臭いすっとした匂いが濃厚に漂っていた。

(ーーこれは、竜脳(グラーダラン))

 博士も除湿のために使っていた薬草だが、ここでは、粉末を壁に練り込んであるようで、その比ではない強烈な匂いに圧倒される。衣服についた匂いは、洗って干さねば取れないだろう。

(女史は、きっと……)

 瞼が痙攣して、視界がぐらぐらと揺れる。

 勘の良い女主人は、養女が王宮書庫ドムン・パディリィフィに出入りしていると、瞬時に確信するだろう。ただ踊りに興じて着乱れたのだという苦しい言い訳も通用せず、舞踏会の夜にそんな場所を訪れる不審さから、必ず、手引きした人物の存在へと考えを巡らせるに違いない。

(ーー殿下の思惑を)

 彼女は知っているだろうか。その可能性に今まで思い至らなかったのが不思議だが、だとすれば、そこに御曹司を伴って行くことの意味は、途端に恐ろしいものに変貌する。

 背筋が凍る思いがした。まるで、腹の底の知れぬ狼同士の騙し合いだ。他者には決して相容れまい。そんな中で、軽々しく綱渡りを始めてしまった自分は、自ら罠にかかりに行ったようなものだ。今さら何をどうしようと、それは完全に無駄な足掻きで、危い崖の道を後ろ歩きに引き返す愚かさに等しかった。

 立ち尽くすエプィヌの前で、ラズワルドは胸元から鍵を摘み上げ、錠を外しにかかる。ややあって、扉は悲鳴のような音を立てて、その黒々とした口を開けた。

「さあ、入って」

 彼は頷きながら中を指し示した。

「入ったら、突き当たりに階段があります。一番下まで降りてください」

 言いながら手燭に火を入れ、顔の辺りで掲げて見せる。途端に、視界を埋め尽くす書架の迷路が、暗がりの中にぼんやりと浮かび上がった。

「ここが……」

 ラーギニールは、感嘆と興奮を秘めた声で呟いた。

「十年に一度でも、ここへの推薦状を得た者がいれば奇跡の天才だと言われる場所だよ」

 悔しがっている様子の彼の言葉に、エプィヌはあえて気付かぬふりをしながら、手燭を受け取って歩き出した。

(こちらの気も知れないで)

 手が震えるのを悟られたくないので、知らず知らず早足になっていた。軽率な上に気が立っている自分への苛立ちが募り、なんだか泣きたい気分だった。

 書架の路地の先は行き止まりに見えるが、壁が二重になっており、その裏の角を曲がった所から急な階が始まっている。一段の幅はごく狭く、身体を斜めにし、壁に手をつけなければ上手く降りることができなかった。

 ふいに、ここへ初めて足を踏み入れた日の不安を思い出した。過去に立ち戻ったような錯覚の中、恐る恐る、巻貝のような螺旋を巡っていくと、一周目で一つ下の階層へ、二周目で、いつも出入りしているはずの階層に出た。とはいえ、あまりに広すぎる書庫ゆえに、未だ踏破したことがないため、到達したのが一体どこなのかが分からなかった。

 エプィヌは、鼻腔にわだかまった苦い空気をふっと吐き出した。

「ーー地誌」

 そういえば、古地図を探すため、この辺りへは、一度来たことがあった。エプィヌは、背表紙にふられた札の分類番号から、おおよその書架の位置を把握しようと試みた。物事を落ち着いて考える余裕が少しでも戻ってきたことにほっとしていた。

「急に立ち止まると危ないでしょ」

 首を傾げていると、ラーギニールのぶっきらぼうな声が背中を小突いてきた。

「仕方がな……」

「歴史学の書架群からは離れているけれど、隙間を通れば、案外、知っている場所はそう遠くはないですよ」

 エプィヌが口を開いたところを遮って、ラズワルドは落ち着いた声で言った。売り言葉に買い言葉ですよ、と目が語っている。

 少し反省をしたところで、彼の後に続いて書架と書架の間をすり抜けて行くと、その言葉に違わず、見慣れた閲覧用の長い卓が見えた。

 エプィヌたちに隣り合った椅子を勧め、自らはなぜか、少し離れた斜向かいに腰を下ろしながら、ラズワルドは、さて、と言った。

「ご足労いただき、感謝致します」

 エプィヌは、今さら王宮司書(ドムン・ティディーヤ)らしい口ぶりに変わった少年を見つめた。

「形式ばったことはなしよ。あなたが文で返さずに、ラーギニールさまを連れて来るよう指示した理由を、まず聞きたいわ」

 彼を急かしても何も変わらないのは承知しているが、自分の調子で物事を進めていかなければ、先の予測できない不安に苛まれてしまいそうだったのだ。

「……そうですね」

 独り言のように呟くと、ラズワルドはこちらから視線を外し、頬に髪の影を落とした。組んだ指を結んだり緩めたりしていたが、それを二、三度繰り返した後に、華奢な関節が盛り上がった。

 彼は小さく息を吸うと、ゆっくり切り出した。

「ーー単刀直入に言うと、ぼくも『花狩唄(リィルーグァン)』を知っていたんです」

 目の前で閃光が弾けた。エプィヌは声にならない声を出して驚き、同時に、胸の奥で何かがほろりと解けたのを感じた。

 若き日の博士が、女史から曲を習うところを想像した。そうそう上手くもない竪琴で、不器用に爪弾く博士を、彼女はきっと笑っただろう。

 しかし、感慨はほとんど刹那に通り過ぎた。ラーギニールは、ラズワルドの言葉を聞くや目を細め、思いがけず、平坦な声で問うたのだ。

「きみ、母と同郷の人?」

「ーーもっともなご質問です。では、そこからお話ししましょう。ラーギニールさまが一番聞きたいのは、間違いなくそのことでしょうし」

 ラズワルドは、相手の打ち解けない態度に狼狽えることもせず、文鎮の辺りに視線を据えながら、何かを堪えるかのように言った。

「エプィヌはいつも、ぼくとこのご子息を何かと比較したり、似ていると言ったりしますが、それは性格のことだけではないでしょう? 容姿のことも、含んでいたのが正解ではありませんか?」

 思考が止まっていたところに水を向けられたエプィヌは、しばし答えに窮した。

「それは……打ち明けると、初めて会った時に、まず似ていると思ったわ。あなたと、ラーギニールさまと、そして……」

「ラーギニールさまも、思いましたよね。似ている、と」

 エプィヌの言葉を遮ると、彼は勢い付いたように続けた。

「ぼく自身は、驚きませんでした。それは、それが必然だと、もともと知っていたからです。ーーラーギニールさま、この意味が分かりますか?」

「うーん、じゃあ、そうなんだろうね」

 少年の気の抜けた無邪気な回答のせいで、何が「そう」なのか、とエプィヌは一瞬深く考えかけたが、疑問は急速にしぼんで、熱さと冷たさが交互に目まぐるしく胸を圧した。

(まさか……)

 窓もない地下で、風が吹くなど有り得ない。けれど、何か寒々とした流れが巻き起こった気がした。その可能性は、すでに何度か頭に浮かんでいたというのに、いざ突き付けられると、事実を咀嚼する力さえ抜け切って、これ以上何も考えることができなかった。

 ラズワルドは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「ぼくは王宮司書(ドムン・ティディーヤ)ですから、今は戒律により、全ての血縁を失っています。しかし、かつては家族がいました。亡くなった父親は、政権争いに敗れ、雲の峰(スフ・マリス)の向こうから身一つで亡命して来た、異国の者です」

「異国、政権……」

 呟きながら、ラーギニールは眉根を寄せた。疑いを隠さず、まるで信じていない顔だ。

「はい。サウランディールという小さな国の、支配者だったのです。ユディト女史は、その王位継承権を持つ王女でした。ぼくの父は、その従兄にあたります」

 この人は何を言っているのだろう、と、エプィヌはラズワルドをまじまじと見つめた。ユディトの語る故郷の話はたしかに、まるで御伽話……博士が教えてくれた伝承と一致していた。そこから、すでに、自分で推論を立てていたではないか。ユディトとノルドは伝説上の異国の民である。考えていた通りだ。けれど、それだけではなかったのだ。想像をはるかに上回ることを言われて、はて、という中身のない感慨しか、もはや浮かんでこなかった。


『険しい雲の峰(スフ・マリス)を越えると、地平も分かたぬ山岳地帯に入る。万年雪に閉ざされた道なき道を、峰伝いに東へ東へと進むと、何処かに岩山に囲まれた小国があり、その民は複雑な風を操る玄妙な術を持つ。王は風を司り、その術を以て民を統べる』


(ーーやっぱり、真実だったんだわ)

 思い返すと、ユディトは、全く偽ったことは言っていなかった。ただ曖昧な言い方になっていただけであり、エプィヌにどう捉えられようが、それを確かめたり、否定したりするつもりはないのかもしれない。彼女の、どこから滲み出るともしれない堂々とした風格も、気品も、全ての答え合わせが一気にできたような気がした。ラズワルドの言葉を疑う余地などいくらでもあるだろうに、そうは思えない何かが、たしかに、ユディトにはあるのだ。

 混乱した頭で、しかし、エプィヌは、別の疑問を転がした。

(『花狩唄(リィルーグァン)』が異国の歌ーーそれも、女史の祖国のものなのだということは、大きな発見だわ。でも……)

 ラズワルドがわざわざ御曹司までを呼び出して、ラウル家との血縁を明かそうというのは、一体、どんな魂胆からなのだろう。彼は、ユディトが何をどう考え、疑うかまで見通していて、その上で、ラーギニールをここに導いたというのだろうか。

(彼が差し出すと言ったのは不可侵の誓い。でも、わたしのやることを咎めない代わりに、何をどう告げるのか、秘するのかは彼の自由だわ)

 ラーギニールの反応を見るに、ユディトはラウル家の者はおろか、実の子にも、はっきりとした出自を語っていなかったのは明らかだ。

(ーーやっぱり、わけがあるはずだわ)

 そうだとすれば、何も知らせないことは優しい嘘なのだと、誰もがそう言うだろう。けれど、エプィヌには納得がいかなかった。ーー自分たちは、軽んじられている。皆が皆、事態を思う通りに動かそうとする遊戯盤の上で、ラーギニールだけは、同様の思いを抱いているはずだ。

 その証拠に、御曹司は卓に隠れた膝の上で、拳を固く握り締めていた。彼は、動揺などというものとは無縁だった。エプィヌよりもよっぽど落ち着いてラズワルドの言葉を咀嚼し、何かを見極めようとしているようだった。

 ラーギニールは、小さく息を吐いた。

「母上はそんなことを語ったことは一度もないよ。きみとぼくが似ているのは否定しない。でも、信じるかどうかは別だ。それに、『花狩唄(リィルーグァン)』のことも含めて、エプィヌさんの見解を尊重する」

「ーーそれは、ラーギニールさまにとって大切なことなのに……」

 あまりに重大な責任を放って渡されたので、エプィヌは咄嗟に身を引いた。しかし、ラーギニールは、静かに首を振った。

「ううん、ぼくは歴史家としての、エプィヌさんの意見を聞きたいと思っているんだ。この人は、わざわざぼくをここに呼ばない選択だってできた。王宮司書(ドムン・ティディーヤ)の戒律とやらで血縁を捨てたというなら、今さら、そんなもの明かさなくても良かったはずだ。それでも『花狩唄(リィルーグァン)』にまつわる話として、重要だと思う何かがそこにあるってことだよね。ーー知っている物事を引き合いにして、他者を駒みたいに操ろうとする人の言うことを簡単に信じられるほど、ぼくはお人好しじゃないんだ」

 普段なら、なんと失礼なことを、と小言を言うかもしれない。けれど今は、腹立たしさと虚しさがないまぜになったような、寒々とした胸の内で、ヨークの荒野を懐かしく思った。あのまま一人で生きていたならば、人を信じる信じないで、こんなにも悩まなくてすんだのかもしれないと。

(わたしは……)

 エプィヌは、ぎゅっと瞼を閉じた。

(わたしは、疑りながらも、底なしに信じたいと思っているんだわ、きっと)

 ラーギニールは、それと悟っているのだろう。学徒の身で、歴史家として信頼を得るに足る実績もなければ、能力を見せつけたわけでもない。それなのに、学問に人一倍こだわる彼が、歴史家として判断を下せと促すのには、流されるなという忠告の意味もあるのかもしれなかった。

 ラズワルドは、(かげ)のある表情のまま、ラーギニールの眼差しを受け止めていた。

「ーーあなたさまは、真っ直ぐなお人のようですね。お母上が、そう育てなさったのでしょう」

「捻くれていると、人によく言われるけど」

 ラーギニールは、ちらりとこちらを見遣って返した。

「まあそうかも……しれませんが、あなたが、青い瞳の王に連なる誰よりも、穢れを知らず真っ直ぐであることは間違いないのです。ーー上手くは言えませんが、だから、ぼくはラーギニールさまに打ち明けようと思いました。何も知らない者は、たしかに真っ白です。けれど、本当の意味で、この先訪れる膨大な年月を背負うことのできる人というのは、知った上で選択できる人のことを言うのだと、ぼくは思っています」

(青い瞳の王……)

 やけに分かったようなことを言うものだと、エプィヌは訝しく思った。長く生きて、ありとあらゆるものを見てきた老人のようだ。そこには、気の遠くなるような日々をここで過ごす彼の、王宮司書(ドムン・ティディーヤ)としての、無力感に似た虚しささえ垣間見える気がした。

先人の記した『司書賢人録ティディーヤ・エクセリーヤ・ムス』の内容さえ知ることのかなわない……番兵としてこの国の知を護り、司っていながら、本当の意味では、知の継承から爪弾きにされている。その構造を見透かしてしまった時、彼は、ラーギニールのような少年の心など失ってしまったのかもしれない。

 博士の研究を見ておきたいと言ったのは、それと引き換えに不可侵を誓ったのは、だからなのだ。過去の誰よりも、深く知の海を潜りたい……。その青さに染まることは、彼にとっての生きることなのかもしれない。

 勝手な想像で、寄り添った気になるのは違うとは思いつつも、しかし、エプィヌは彼を信じたかった。

(わたしにとって、一番大切なものを差し出すと決めた相手だから……)

 エプィヌは両手で胸を押さえた。

「全部、聞きましょう。聞いて、その上で、わたしは自分の持てる全ての知識を投じて考える。ユディトさまやラーギニールさまと、あなたの関係のことも、『花狩唄(リィルーグァン)』のことも。ーーそれに、あなたがわたしたちにそれを語る意味も」

「ありがとうございます」

 ラズワルドの瞳の奥の瑠璃が、かちりと揺らいだように見えた。

「これは、父から聞いた話で、どこまでが真なのかは、定かではありません……」

 彼は唇を湿すと、語り始めた。



 ーーその国は、雲の峰(スフ・マリス)をシグマリヨンと呼ぶ、稜線すらも霞む東の果て。人を寄せ付けない山岳地帯で、冬の終わりの僅かな晴れ間を春と呼ぶほどに、風雪の厳しいところだと、父は語ります。山越の隊商ですら絶対に通らず、その確かな場所を捉えた地図もなく、伝説を耳にした者があるかどうかというくらいでしょうか。そこは太古の昔より、サウランディールーー民の言葉で“東の一角獣の角のもとエリス・ユノ・ソフィカ”と名乗り、いくつかの氏族が身を寄せ合って暮らす土地でした。海の向こうの国を追われたぼくらの祖、青い瞳の若き王と僅かの臣は、流浪の末、伝説に聞き及んだ彼の地に奇跡的に辿り着き、サウランディールの王に受け入れられました。

 多方面において、非常に高度な知恵と技術を持つサウランディールは独自に発展しており、青い瞳の王は、その有様にひたすら驚いたそうです。旋回する羽根を持った巨大な構造物がそこかしこに居並び、風を操っている。それは、彼らがシグマリヨンの懐で、噴煙と共生するための知恵でした。サウランディールの王は、こう語ったといいます。「民が王を慕うのは、わたしが、風を操り国を護る術を持つからだ」と。そして、他の氏族には決して明かしてこなかったその技術を、青い瞳の王を友と認めた証に伝えたのです。

 そこに、不運が訪れました。大地が揺れ、シグマリヨンの噴き上げる火の柱によって、谷間の僅かな土地まで焼けただれ……生き延びた民は貧窮の極に達したといいます。

 青の瞳を持つ王は、国が危うい時にこそ、法である王は退いてはならないと助言しました。サウランディールの王は、海の向こうの大国を治めたという青の瞳の王の言葉を信じました。徴税の手を緩めず、従来の政を強行したのです。

 民は怒りを募らせていき、そしてついに、反乱ののろしが上がりました。これまで戦とは無縁だったサウランディールの王には、敵を得て結束した、怒れる民の力に対して、勝ち目はありませんでした。王と妃、王弟の首は、朽ち果てるまで城門に掛けられました。

 サウランディールの王には、たいそう美しい一人娘がありましたが、その惨たらしい光景を目にした王女の悲嘆は、いかばかりだったでしょうか。

 王の首をあげたものは、美しい王女を嫁にできる。誰かが言い出しました。

 王を殺めたのは、どんな男だったのでしょうか。いいえ、そんな者は、ついにおりませんでした。首を城門に掛けたのは王女自身だったからです。娘の身を嘆いた妃は自害し、王もまた同じ選択をしました。父母の思いを汲んだ王女はその首を落とし、王権を捨て、残された縁者や臣下と共に土地を去ったのです。

 その後、次の王を巡って氏族同士の内紛の月日が流れ、結果として人々をまとめ上げたのは、青い瞳の王でした。黒煙が晴れると、しだいに国は新しく立て直されていきました。残された者たちは、かつての王族が持っていた知恵や技術を甦らせようと、見様見真似で工夫しましたが、未だサウランディールのそれには劣るといいます。

 そのようにして文明を再構築し、長きにわたって平穏な時代が続きました。しかし今から二十数年前、エルムトという王が圧制を敷いたため、反発した宰相によって、王と一族は廃されました。そのさなか、先王の隠し子で、当時エルムトに仕えていたノルドは、十四歳だった王女ユディトを連れて逃亡しました。この時、王女の従兄にあたる、我が父ユーダリルも、このターリア王国へ亡命していたのです。



 ラズワルドは口を閉じた後、黒く長い睫毛をそっと持ち上げた。

「『花狩唄(リィルーグァン)』は、青い瞳の王の祖国、”ホウ”の歌だそうです。歌詞の発音や意味について、ぼくも何一つ知りませんでした。ぼくだけでなく、父も、兄も」

 沈黙が訪れた。エプィヌは、何か言わねばと口を開いたが、息を吸う前に唇を引き結んだ。

(知っている伝承とは異なる部分がある。あるけど。でも……)

 これは、ターリア版『建国史』とあまりに酷似している。

(王女とは、ハテヌという娘のこと。縁者と臣下の中に十四人の魔法使いがいたとすれば)

 そのように内容を補完すれば、色々な糸が繋がってくるのだ。ラズワルドもまた、それを承知の上で話している。

 ユディトとノルドは魔法使いに連なる者だと予想は立てていた。それは、ある意味正解でもあったし、誤りでもあった。サウランディールの王権は()げ替わっている。ハテヌが王女だった国と、ユディトが王女だった国は別物だ。

 エプィヌは顔をしかめた。舞踏会への道すがら、ラーギニールに仮説を説きながらわくわくしていた気分は、新たな発見を手にした今も戻ってはこない。ラズワルドがこれまで重要なことを口にして来なかったのは、彼なりの考えがあるのだろう。もちろん疑念に拍車がかけられたのは間違いないが、過酷な内容を思えば、そうしなかった気持ちも、すんなりとはいかずとも理解ができる。

( なんて(むご)い)

 ハテヌはきっと、語りたくなかったのだ。道を踏み外して叛乱に遭った父王のことも、母のことも。「ある時火の濁流に襲われ、多くの親族と住み処を失った」とだけ語られていたハテヌの身の上だが、叛乱があった事実など、他所の民に知られたくはないはずだ。それが、統治者の矜持というものだろう。

(それに……)

 エプィヌには、なんとなく分かる気がした。我が身に訪れる屈辱への絶望もさることながら、同じ女である母から向けられる軽蔑や憐れみの眼差しほど、鋭く胸を抉るものはないと。ーーあなたは、娘を守ることを放棄したのか。汚れてしまっては、もうあなたの娘ではいられないのか? 身を切るような叫びが、聞こえてくるようだ。その悲嘆は、自らの宿運に対する拒絶や怒りの炎に降り注いで、禍々しい破壊力に昇華されていく。そして、両親の亡骸を目にした時……明日をも知れぬ極限の時にあって、ハテヌはその首に刃を当てたのだ。

『歴史を形造るものは、なにも古文書から拾い集めた事実だけではないのだよ』

 目の前に、するすると大きな巻物が広がって、文字が浮き上がる。それらが組み合わさったり並び変わったりしながら、物語になっていく。

『楽しいか、エプィヌ』

 穏やかな声が、拍子を付けて肩を叩き、ぴたりと止まった。

『だがな、それを空想と一緒くたにしてはいけない。おまえの、悪い癖だよ』

 ひやりとした感覚がうなじに走った。

(そうだわ)

 分かりもしない人の思いに考えを巡らせ、都合の良い解釈で物語を作ってしまう。これは、歴史家としてあってはならない所業だ。

〈史料について厳密な姿勢で臨む可し〉

 肩に置かれた手が、急速に老いていた。木の枝のように細いロギ師の乾いたしゃがれ声が、後頭部をぱんと打った。

〈情報、叙述対象の選択は慎重かつ禁欲的に行う可し〉

〈文献史料に残らない事柄の記述は慎む可し〉

 息が詰まったようになって、エプィヌは俯いた。

(だめ……)

 たしかに、老師の言うことは間違ってなどいない。けれど今は、その見えない枷を振り切らなければ、先に進めないという予感があった。物事には理由がある。その一つの要素として、人が何を考え、どう行動したかに思いを致すのは、間違いではないはずだ。

「ーー“ホウ”という国のことは何か知っているの?」

 点と点が上手く繋がり、先が見えそうになると、つい視野が狭くなってしまう。結論を急ぐなと、胸の内で自分自身に言い聞かせつつ、エプィヌは問うた。

 ラズワルドの話が真実だとすれば、これは結果論でしかなくとも、ホウはサウランディールを侵略したと評価するしかない。しかし、それは偶然なのだろうか? 全てが仕組まれたことだとすれば……。

「いいえ」

 ラズワルドは短く答えて首を振る。

「父やユディト女史なら、あるいは」

「ーーなんだか」

 ここまで黙っていたラーギニールだったが、ふいに声を上げ、身じろぎをした。

「その青い瞳の王とやらに、ずいぶん都合の良過ぎる話に思えるね」

 彼はすでに、エプィヌと同じことを考えていたようだ。

 張り詰めていた空気に疲れたのか、どっかりと背もたれに沈み込むと、首を左右に動かした。骨をぽきぽき鳴らしながらも、どこか貴族然とした優雅さを失わないのが不思議だ。

「……どうしたら、そんなに心のこもっていない言いかたができるの? いっそ教えてほしいくらいよ」

 反射的に突っ込んでしまったが、彼の言うことはかなり的を射ている。エプィヌは溜息を吐いた。

「真偽はさておき、ラーギニールさまにも思うところはあるでしょう」

 少し間をおいて、彼はあまり関心なさそうに言った。

「そうだね」

 姿勢を元に戻し、頬杖を突く。憂いを帯びた青い瞳が、卓上の燭をじっと見つめた。その虹彩は、月の周りを取り囲む、煙のような雲に似て、恐ろしく幻想的だった。

「母は自分を氏のない出自だと卑下して語ることが多いけれど、そのふるまいを見ていれば、只者ではないと思っていたよ。あの家にあって、人を従える立場に臆せず座していられるなんて、生まれながらに御曹司と呼ばれるぼくにだって、考えただけで平気じゃない。でも、母には、父にもなかった、天性の何かがある」

「だから、納得がいくと?」

 ユディトに生き写しの横顔が、微かに頷いた。

「もちろん、さっき言ったように、全部を真実だとは受け取らないよ。そのあたりは、エプィヌさんが見極める役回りだと思うし」

 ラーギニールは確信あり気にそう言い放ったが、エプィヌの方は、思わず目を瞬かせた。

「ーーすごい大役ね。ラウル家に他国の王族の血が入っているというだけで、もし人に知られれば大事になりそうなのに」

「だからこそじゃない」

 少年は不思議そうに小首を傾げる。

「肝心の母が秘密の種である以上、ぼくが負わなくてはならないものでしょう。叔父たちは母にとって完全な味方だとは言えないし。全部を水面下で判断して、それをまた、箱の中に戻す作業をやらなくちゃいけない。一緒に抱えてくれるのはエプィヌさんだけのはずでしょ? そもそも、あなたが始めた何かのせいで、ぼくが巻き込まれたみたいなものなんだし」

「そう、よね……」

 エプィヌは虚を突かれ、言い淀んだ。自分は迷惑を運んできただけなのだろうか。だから、こんなふうに考える役目を押し付けてくるのだろうか。そんなはずはないと思うのに、それがよっぽど不安だった。契約を交わしたわけでも、情交によって結んだわけでもないのに、こうも真っ直ぐに、大切なものを分かち合おうとしてくれるのは、それは、彼が認めてくれたと思っても良いのだろうか。

(わたしが、家族として)

「色々整理をしたい。検証が必要だわ。今は結論を、出せない……」

 エプィヌは、頭を反らせて落ちてきた髪を払った。

「あなたが故郷のことを語った時、雲の峰(スフ・マリス)をシグマリヨンと呼んだわけが分かったわ。アウルボザから見える“東の一角獣の角のもとエリス・ユノ・ソフィカ”というのも、望郷の思いからだったのね……」

「ーーアウルボザ?」

 ラーギニールは、エプィヌがそれを初めて耳にした時と同じような反応を見せた。

「そんな地名は聞いたことがないよ」

 胸の底に疼いていた疑念が、ラーギニールのその言葉で再び小さな炎となった。

「ーーわたしは、それがどこにあるのか調べたのよ」

 エプィヌは、押し殺した声で続けた。

「玉王代から今日の狼王代に至るまでの王賜地図を全部見てみたし、博士の遺した古地図も洗ってみたわ。旧ランスロット領以東は、名もなき風葬地のはず。アウルボザという名は、王国の記録にはない。青い瞳の王の話に、それも関係があるのかしら」

 博士の書き置きに従って火葬を行ったが、人の死に接したことのないエプィヌにも、それが珍しい例だということは分かっていた。

 ヴィーヴェランの丘の向こうには、“風の見晴らし(プネィルデ)“と呼ばれる風葬地が広がっている。丘の人(ベルグフォルク)の葬送は非常に派手で、人が亡くなると、故人の胸の上に芋や(カル)(レアチーズのようなもの)、羊の干し肉などを載せ、ただ手向ける、というような具合ではないほどたくさんの花と種でその周囲を飾る。だから“花葬(リープラ)”と呼ぶのだと、博士は教えてくれた。そのまま朽ちるに任せた遺体は、いつしか、花咲く盛土に変わる。寒冷な高地でもしっかりと花を咲かせるルビタリスは、彼らにとって生命の象徴だった。一方、草原の人々(ヒャルマール)の弔いに、そこまでの派手さはない。死すれば土に還る、神のない国ではそれだけのことだった。“花葬(リープラ)”ではなく”風葬(プネィプラ)“なのだ。幼い頃のエプィヌには、それが少し寂しく感じられたものだった。

 王都では、浮浪者や親のない子どもが最後に行き着く職として、遺体を郊外に運び出す役割がある。この世と彼の世を分つ境より先には、通常、人は立ち入らない。信仰というよりは、穢れを嫌う都人の感覚なのだろう。彼らは風葬地に赴くこともなく、それぞれの庭や集落の広場に建てた石塔に故人の名を刻んで、そこで静かに弔いを行う。

 風葬地は各地にあれど、旧ランスロット領における境界は、雲の峰(スフ・マリス)の裾野辺り一帯を指すらしい。ーーラズワルドが故郷だと語ったのは、そういう場所だった。地図に記されているのは石塔の位置だけであり、もちろん、その先に続く土地に名前などあるはずがない。

 実を言うとエプィヌは、興味本位で調べたことを、少し後悔していた。歴史的な背景を知ると、そこに住む人々があったとして、積極的に語りたくはないだろうと察したからだ。けれど、これには懸念していた何かとはまた別の事情があるような気がしてならない。

 ラズワルドはふっと目を細めた。

「聞いたことがないのも、見つからないのも無理はありません。そんな地名は地図にはないのです」

「……じゃあ嘘をついていたの?」

 心ノ臓が早鐘のように打ち始めた。

「試していました」

「何を?」

「ーーエプィヌの博士が、何をどこまで突き止めていて、継承しているのか。ぼくにとっても捨て身の探りでした。遅かれ早かれ、あなたは真実に辿り着くはずですし」

 捨て身などという言い方が大袈裟にも聞こえたが、ここに至って、ラズワルドは、やや申し訳なさそうに眉を下げた。

「アウルボザというのは、何か古語に由来する名称でしょう。それは古ターリア王国……フェンサリルのものか、サウランディールのものか、はたまたホウのものは分かりませんが。集落は、雲の峰(スフ・マリス)の姿が見えないほど急峻な谷間にあり、アウルボザと呼ばれる丘がこの世の天井です。そこに住む人々は、ターリア王と“喋れぬ神”を崇める独自の信仰を築いています」

「信仰、っていうのは」

 ラーギニールは困惑した様子で言った。仕方あるまい、と思う。エプィヌですら、神のいないこの国でそんな場所があるのは、当然に不思議だった。

 浮かんだ疑問は、もやもやとした薄雲のように、はっきりとした形を取らないまま打ち消された。その時頭に過ったのは、不穏な考えだった。

(でも、わたしは、それをどこかで……)

 記憶の糸を辿る。思い出したい何かが眉間の辺りを内側から突き上げているのだが、その頭を摘み上げることができずにいる。もどかしさの中で、エプィヌは問うた。

「わたしが“喋れぬ神”の存在を知らなかった、その土地を知らなかったことが何を示すっていうの?」

 ラズワルドは、卓の上で組んだ指を解し、掌を結んだり開いたりしながら言った。

「こんな話を聞いたことがありました。ーー黒い尾を引いた翼竜(フレア・グラード)が山を越えてやって来る。その鱗と血を火にくべてかき混ぜると金になり、喋れぬ神がお生まれになる、と」

 その言葉を聞きながら、エプィヌは、博士がワァヤンから聞き取った調査記録を、頭の中で一つ一つ思い浮かべた。

(ーー言葉を捨てた神)

 欠けていた破片がぴたりとはまると、記憶が色を取り戻していくようだった。

 ラズワルドは、慎重な口ぶりで言った。

「父は、アウルボザの民から話を聞かされた時、違和感を覚えたというのです。鱗と血を火にくべてかき混ぜると金になる……。これは、何かの暗喩ではないかと」

翼竜(フレア・グラード)がなんとかって言うけれど、それは何かの例えで、現実にあるとすれば、化学(ばけがく)の分野の問題だね」

 ラーギニールはくるりと瞳を動かし、暗がりに沈んで高さの分からない天井を見上げた。

「この国にはない術だというの?」

 さすがに鋭い問いかけだった。もしも、この場にルチーフェロがいたとすれば、彼の軽率な発言を厳しく嗜めただろう。

 ラズワルドが何か答えるより先に、ラーギニールは、家紋をあしらった金製の指輪を自らの指から抜き取って、燭台の炎にかざした。

「大昔から、製錬方法は決まっているよね。粉々にした金鉱石を、鉛と一緒に溶かすことで取り出すものだ。それこそ、王から下された唯一の手法として」

「そうですね」

 明確な答えを避けるように、ラズワルドは言った。

「ぼくが思うに、鍵文字というものが、何らかの事実を炙り出すものと。金のことは、その一端に過ぎないくらいに、様々な」

 やはり、歴史は都合良く作られるものなのだ、と認めざるを得ないのだろう。

(でも、もしこの伝承に深い意味があるのだとしたら、それは何を目的とした改竄なのかしら)

 厳しい顔で考え込むエプィヌとは対極に、ラーギニールは、呆れたような、それでいて嘲笑するような目を相手に向けた。

「ただその結論を言うために、えらく遠回りなことをするんだね」

 灯りに照らされて、彼の細い指と指輪が、卓上に長々と影を落としている。

 他人に関心がないゆえに、聞きづらいことにも簡単に切り込んでしまえるのだ。とはいえ、相手も相手で、懐に飛び込んできた矢を平然と受け止める無神経ぶりなので、全く良い勝負だった。

 エプィヌは、木目に沿って目を滑らせ、鈍い光を放つ金を見つめた。まるで、そこに黄色い花が咲いているようだ。

 もう外では、夜明け近いのだろう。頭の中が、霞がかったようにぼんやりしている。それでも、懸命に考えを尽くそうと努めた。

「……伝承には所以が必ずあるし、それは多方面から照らして、見えるところだけでなく、影という影を、あまねく観察して、わたしたちの言葉で模写してこそ、今の時代で意味を持つ。それだけは確かだわ」

 それにしても、とエプィヌは欠伸を噛み殺す。緊張が続いて、つい呼吸が浅くなっていたのだ。

(あの伝承、どこへ行ったのかしら)

 博士の書き殴ったものを拾い集め、ひたすら写して整理した。その中に、あっただろうか。覚えていないはずがなかった。とても鮮烈な印象を残した話だったから……。

「ーー永久に閉じられた、ターリアの瞳」

 この言葉が、重石となってずしりと胸の底に落ちた。

 エプィヌの呟きを、ラズワルドは厳粛に飲み込んだようだったが、隣では、いかにも早く帰りたいとでもいうように、ラーギニールが頬杖を突いていた。

 彼は、こちらの視線に気付くと、ごく率直に言った。

「永久なんてないよ、そんなもの。あってたまるかって、エプィヌさんだって思っているでしょう」

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